∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_18 究極のレイヤー
菊千代はふと、羽の生えたような軽さを心に感じていた。その理由を求めてみても言葉で見つける事はできなかった。最愛の教師は目の前で死に、クラスメイトは刃を突きつけ自分を殺そうとしている。状況は最悪なものでしかなかった。にもかかわらず、心は輝きに満ちている。不条理にもそれが実感できるのだ。
この世界には無数のレイヤーが存在し、選んだレイヤーによって個人の現実が決まる。彼はそう思っていた。菊千代は魔法を使ったわけではなく、多くのレイヤーの中からたった一つを選択しているに過ぎなかった。その選択が心に輝きをもたらす究極のレイヤーだったのだ。
「なんでお前はいつも笑顔でいられるんだ。神楽、どうしてなんだ?死ぬ事が怖くないのか?」
林流源が菊千代に聞いた。手にしたバタフライナイフは、菊千代の背中に届こうとしていた。あと少しだ。にもかかわらず、菊千代は恐怖を顔に表さない。微笑みをたたえてさえいる。林流源はそれが信じられなかった。
「そんなことないよ。僕だって怖いし、それで刺されれば痛みだって感じる」
菊千代は答えた。逃げられる状況であるなら逃げていたのかも知れない。だが、片岡の蘇生を施している今、自分の選べるレイヤーはこれしかなかったのだ。
《状況に心を選ばせない。自分自身の意志に置いて僕は選びたい心を選ぶ》
菊千代はそう決意していた。だから死を前にしている今でも、菊千代の心は穏やかだった。そういうレイヤーを選択し、その現実に生かされていた。自らの中に太陽神を求め、内成る神に感謝の気持ちを捧げると言う単純な行為。たったそれだけのことで、感謝に満ちたレイヤーに身を置く事ができたのだ。
それは祖母が教えてくれた真実だったが、その知識が悟りに昇華するためには、皮肉にもこの経験が不可欠だったのかも知れない。菊千代はそう思った。
「神楽、命乞いをしろ!俺にひざまずいて助けを求めろ!」
林は悲鳴に近い叫びを上げていた。アドバンテージは自分の方にある。自分は絶対有利な立場にあるはずなのだ。にもかかわらず、林は今にも消え入りそうな気持ちで一杯になっていた。
「生かして頂いてありがとうございます」
菊千代はその言葉を林に投げかけた。
「な、何いってんだお前…」
意味不明な菊千代の反応に林は当惑した。その言葉を聞くと体から力が抜けて行く気がしていた。実際、林に憑依する不成仏霊は、菊千代の口にする祝詞によって一つまた一つと成仏し消えていった。林の感じている不安感は邪霊から得られる力の喪失にほかならなかった。
「生かして頂いてありがとうございます」
菊千代は教師の蘇生を試みながら、そう唱え続けた。次の瞬間にも彼のナイフは心臓をえぐるかも知れない。だが、それは《今》ではない。まだ自分は生きている。生きて呼吸をしている。菊千代はその現実だけを見続けていた。恐怖はすぐ脇にある。油断すればそれに支配される。が、それから目をそらさなければ縛られる事はない。そらす事で人はそのレイヤーに縛られてしまうのだ。
「生かして頂いてありがとうございます」
今はここにいるのだ。菊千代は自分の意識の中に《今》という領域が増大していくのを感じていた。今まで生きて来た過去の時間、これから来るであろう未来の時間が、《死》を目の前にしてその意味を失ってゆく。そんな当たり前な真実に直面していた。
「やめろ!菊千代。黙れ!」
林流源は菊千代の肩をつかむとそう叫んだ。片岡の遺体から少女を引き離し、地面に押さえつける。たったこれだけの動作にどれほどの力が必要なのだ、と林は思った。マンダラ界における力の相殺が、浮き舟界の現実となって現れる。それを知らない林には不思議でならなかった。
「ちくしょう、何故だ。ちくしょう!」
林は自分の中から殺意やら憎悪が消えてゆくことに抵抗していた。こいつを殺さなければ自分は殺人犯として少年院に入れられる。
「殺す必要があるんだ…俺には…」
「もうやめよう、林君…」
菊千代が林を見上げて言った。少年は菊千代の澄んだ目から目をそらした。骨折した腕が次第に痛み出す。
「そうじゃよ、少年。おなごに暴力を振るってはいかんよ」
背後から声が聞こえ、林は驚くように振り返った。小さな老婆がそこに立っている。
「お婆さま!」
「何だ、きさま!どこから湧きやがった!」
林は興奮し、手にしたナイフを握り直した。ズキリと衝撃が手に走る。
「マンダラ界とちごうて、浮き舟は足で運ぶから難儀じゃわ(笑)」
絹はそう言うと、よちよちと少年に近づいた。林は手にしたナイフを菊千代の喉元に突きつけた。片腕の痛みが堪え難く、菊千代を押さえておく事はもはや出来ない状態だった。
「近づくな、婆ぁ!こいつが死んでもいいのか!俺はもう一人殺しているんだ。後何人殺そうと同じなんだよ!」
林は獣のように叫んだ。礼拝堂に咆哮がこだまする。
「少年よ、なぜそういきり立つ?どこに死体が転がっているかね?」
老婆はそう尋ねると、少し大袈裟に辺りを見回した。体に自由が戻った菊千代が片岡の方を振り向く。
「ち、よく見ろ婆ぁ。そこに転がっている熊みたいな奴をよ。それは俺が殺ったんだ」
林は腕の痛みに堪えながら、後方を指差した。菊千代の表情が驚きに変わる。
「はて、熊などどこにも死んでおらんがの」
「ばか、そうじゃねぇ。熊みたいな大男の…」
「先生!」
菊千代は喜びの声を上げた。林を押しのけ教師の元に駆け寄る。林は後方を振り返り、ムックリと起き上がる片岡の姿を見て目を丸くした。
「な、お前さんは誰も殺してなどおらんのよ。じゃからそんな物騒な物は早よしまうことじゃ」
絹はそういうと林の肩に手を置いた。ふてくされるようにナイフを握りしめる。林は殺意を掻立てようとしたが、もはやそれがどこにも見当たらない事に気づいた。林を支えていた邪霊は全て消え去ってしまったのだ。
「あれ、俺はここで一体何をしていたんだ?」
菊千代に抱きつかれると、片岡は不思議そうに少女の顔を眺めた。
「先生、僕がわかりますか?菊千代ですよ」
「いや、すまん。頭がボーっとして何も思い出せないんだが…」
片岡はボリボリと頭を掻くと、目の前の少女を眺め顔を赤らめた。美少女の姿がブラウス一枚引っ掛けただけの半裸に近い姿だったからだ。菊千代も自分の姿に改めて気づき、急に恥ずかしくなった。
「皆さん、これはどういう事ですの?」
女性の声が堂内に響くと、一同が扉の方を振り向いた。声の主は闇小路静香だった。その背後に丸い黒めがねの男が控えていた。修道服と林流源の視線が一瞬交差する。が、林にはこれ以上争うだけの戦意が残っていなかった。
「いま、救急隊の方々が参ります。怪我をされている方はどなたですか?」
静香は確認するように声を上げ見回した。その声に気絶していた海老原と地場が同時に目を覚ます。片岡の姿を目の前に認めると海老原は「わぁ!」と大声を上げて立ち上がった。林の姿に地場も同じように後ずさる。
「お前さん方、もうそんなに驚かんでもええのよ。すべては終わったことじゃ(笑)」
カラカラと笑う絹の声が礼拝堂にこだました。
「お婆さんはどうしてここにいらっしゃるのかしら?」
闇小路静香が老婆に気づき、微笑みかけた。濃い霧をまとうような独特なオーラが絹の霊眼に映り、ゾワリとする感触が髪の毛のようにまとわりつくのがわかった。それは学園内に足を踏み入れたときから感じていた禍々しい霊気と、どこか共通するものがあった。絹は弧霊の言葉を思い出すと共に、闇小路家の背後存在を幻視していた。
「いやいや、孫の菊千代が来てくれっちせがむもんだからのぉ。お邪魔してみたんだが、何のお役にも立てんで。すまん事ですじゃ」
絹はそう言うと何事もないように、ぺこぺこと頭を下げた。
「あら、菊千代君のお祖母様でいらしたの!これは失礼いたしました。では彼もここに?」
静香はキラキラとした目でそう言うと、一人一人の顔を見回した。が、それらしき男性は見当たらなかった。が、再びポスターの女の子にその視線を戻すと、口元を手で押さえ「ええっ?!」と声を上げてしまった。噂のモデルは菊千代だったのだと静香は初めて理解した。
絹は菊千代に対する静香の態度を見て思わず微笑んだ。この子への憑依はそう深いものではない。あるいは菊千代と言う存在が魂の依り代となって静香を救っているのかもしれない。絹はふとそう思った。