∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_19 エピローグ
牛乳びんを箱に入れる音やら、ゴミ出しする音やら、犬の吠える声やら。浮き舟たちの雑多な生活音が夜明けと共に聞こえ始めていた。ブラインドにスライスされた朝の光がマンションの窓から柔らかく差し込む。雪丸はサイドテーブルに生けられた蘭の上にちょこんと腰を掛け、未だ眠りについたままの親友を心配そうに眺めていた。
「菊っち、いつまで寝ているんだろ?」
雪丸は溜め息をつきながらそうつぶやいた。憑依はとっくに解けているはずなのだ。が、冷静になって考えてみれば、昨夜の憑依から実はたったの一晩しか経っていないのだし(それを知ったときは目が点になったが)、風邪を引いたって二、三日は寝込む。それを考えれば自然な事なのかもしれなかった。
ともあれ、弧霊による菊千代憑依事件は一件落着と相成ったのだ。それを素直に喜ぼう。雪丸はそう思った。
弧霊の過去世界を変えた事で、浮き舟界への影響を心配したが、弧霊そのものが浮き舟界の存在でなかったことが幸いし、因果律の変化は今のところ感じられなかった。
神隠し事件がその後、どういう結末を迎えたかと言えば、弧霊抜きでも神隠しは継続し、雪丸が知る限りでは事件の解決には至っていなかった。弧霊の存在そのものが使い走りというか、元々重要な役割では無かったのだろう、と言うのが絹の見方だった。
弧霊の語っていた闇小路家の関与も幽界が背後にあるとなると、正攻法で闇小路家を追込むのは難しいようだった。幽界の息のかかった政財界の機関が彼らを全力で擁護するだろうし、事実、暴行事件を起こした担任の海老原信二は逮捕の後、一週間ほどの取り調べで保釈されている。留置されている間に同じ手口の事件が起こったという事もあり、神隠しとは切り離されて処理されたようだった。
その後、神楽家には多額の示談金(到底、一介の教師が用意できる額ではないような)を示され、菊千代側がそれ以上争う事を避けた為、事件はそこで終了となった。もっとも弧霊に操られた教師一人を断罪した所で、その奥に潜む闇を葬れなければ意味がない、という祖母の意見を菊千代本人が受け入れたためでもある。
片岡元教師への傷害を起こした林流源は保護観察処分。その他いじめに関わった数名の生徒は厳重注意。いじめられた側の地場登の家族からはそれぞれの親に対して相応の慰謝料が請求されることとなり…とまあ、雪丸が霊気の花をサクッとかいつまんで見た後日談はそんな感じであった。
「菊、どう調子は?」
寝室のドアから顔を覗かせ、姉の千織が菊千代に声をかけた。ダイニングからクリーム系の良い香りが漂って来る。
「熱は大分下がったようね…」
ベッドに横たわる菊千代の髪をかきあげ、額に手を当てる。その傍らから、雪丸が心配そうに顔を覗き込んだ。菊千代の目が薄らと開く。
「はい、姉上。だいぶいい感じです」
菊千代は笑顔でそう答えると、朝日の中で気持ち良さそうに伸びをした。それを見て雪丸の表情がパッと明るくなる。肩の上にちょこんと飛び乗り、雪丸は嬉しそうに菊千代の顔を見上げた。菊千代が小さな親友にウインクをして見せる。
「それじゃ、朝食の準備できたら声かけるからね」
千織が言い、エプロンを手でパンパンと叩いた。
「はい、姉上。お手数お掛けします」
「もぉ、何言ってんの。楽勝よ楽勝(笑)」
そう言いながら戻って行った千織の「あああ〜!」という叫びをダイニングに聞くと、菊千代と雪丸は互いに顔を見合わせた。やや焦げ臭い匂いが後から漂ってくる。耳をそばだて暫しの沈黙が続く。
「まあ、それはさておき…菊っちが元気になって良かったわ」
雪丸は何事も無かったかのようにスルーすると、菊千代に向って微笑んだ。
「うん、心配かけちゃったね、雪っち。そう言えば、寝ている間に色々な夢を見たよ。高校時代の懐かしい夢ばかりだけど…」
「昔の夢を…?」
上半身を起こし、遠くを見るように語る菊千代に雪丸が問いかけた。たぶん、自分が霊気の花で見ていたその瞬間を、菊千代は夢に見ていたのだろう。
霊気の花で繰り返される過去の記憶を人は時折夢に見ながら、あるものは当時と同じ行動をし、あるものは違うチャレンジをしながら少しづつ過去に負った傷を癒してゆくのかもしれない。癒された花からは以前とは違う霊気玉が生まれ、それが現在に還元される。癒せなければ同じ呪縛の中で無意識の未来を選ぶ事になるのだろう。
でも、過去を変えるのは難しい事だと雪丸は思った。過去の呪縛から解かれるのであれば、それは今の自分の行動でしかない。未来は白紙なのにただ過去からの呪縛があるだけで、心が固定されたレールの上を進んでしまうだけなのだ。過去の自分を癒せるのは現在の自分だけ。浮き舟にはそれが可能なのだから…。雪丸はそう思った。
「ねえ、菊っち。画家先生とはその後どうなったの?」
雪丸は二人の事が少し気になり、さりげなく尋ねてみた。その後、彼が順調に回復した所までは霊気の花で知っていたが、菊千代との関係までは確認していなかったのだ。
「片岡先生?今でもお付き合いしているよ。モデルとしてね…」
菊千代はきょとんとした顔で答えた。
「モデルって…恋人としては?」
雪丸の言葉に菊千代はしばし沈黙をし、それから遠くを見るような目で語り始めた。
「彼とは画家とモデルの関係に戻ってしまったんだ。ある事件があってね。彼は一度死んでから蘇生して、回復はしたんだけどそれ以前の記憶を失ってしまって…。だから僕のことも覚えていなくて…もちろん恋人だったこともね」
菊千代はそう言うと乾いた笑顔を雪丸に見せた。
《やっぱり首のない霊体を蘇生させたから覚えていないのかしら…》
雪丸はひとり納得するようにつぶやいた。首のある霊体はシャローナと共に大霊界に帰っていったのだ。二人の記憶はたぶん向こうが持って行ったに違いない。だが雪丸は、菊千代にはそのことを伏せておく事にした。知らなくても良いことは無理に知る必要はないのだから…。
「で、でも、またやり直せばいいじゃない!菊っち脱いだらすごいんだし、彼のアトリエでヌードになってお色気で迫っちゃうのよ!」
雪丸は菊千代の頭に飛び乗ると励ますように力説してみせた。
「そ、そんなことできないよ!あの時はシャローナがいてくれたからそんなことも出来たけど、ヌードだなんて…彼だって戸惑うよ、きっと」
菊千代は顔を真っ赤にして抵抗した。実際、絵のモデルになる時には肌の露出がないような洋服を選んでいたし、片岡もそれ以上望む事はなかったのだ。
「菊っちはそれでもいいの?彼の事好きじゃないの?」
「どうなんだろ。自分でもよくわからないんだ。あの時の恋い焦がれる気持ちは、もしかしたらシャローナの気持ちに同調していただけだったのかもしれないし、もちろん先生のことは今でも好きだよ。でも恋人というよりはお父さんに近い感じかも知れない…(笑)」
意外とあっけらかんとした菊千代の反応に、雪丸はちょっと拍子抜けした。
「そっかぁ。女心って微妙なのね…初体験の相手とは続かないってどこかで聞いたきもするし…」
「ちょっと待って、雪っち?…どうしてそんなことまで君が知ってるのかな?」
雪丸の知りすぎた内容に菊千代は彼女の顔をジッと見つめた。
「まさか、僕のセフィロトに…」
「えへへ…」
雪丸は誤摩化すように笑ってみせた。菊千代の頬がみるみると紅潮していく。
「だって菊っちったら憑依されて大変だったんだよ。ご先祖様もちゃんと許可してくれたし…」
「そ、それはそうだけど…ああ!」
菊千代は頭から毛布を被り(もうやだぁ)と(恥ずかしい〜)を叫ぶように連発した。その声に呼応するように居間の方からも「ああ〜ん、最低。もうやだぁ」と言う声が聞こえ、菊千代と雪丸は互いに顔を見合わせた。千織のわめき声にキッチンの壮絶な状況が目に浮かぶ。
「僕が行った方がいいみたいだね…(笑)」
「そうね、そろそろお姉ちゃんの泣きが入るかも…」
早々ベッドから起きると、菊千代はナイトウェアの上にガウンを引っ掛けた。雪丸がガウンのポケットに滑り込み、ちょこんと顔を覗かせる。そしてカウントダウン…。
「わぁああ菊、大変大変!ちょっとヘルプミー(泣)」
隣の部屋からやはりというか、予想通りに千織の声が聞こえ、菊千代の「は〜い、只今」という返事が予定通り返される。雪丸はそんないつもの日常をフカフカなポケットから眺め、今回のミッションが無事に終了できた事をしみじみと安堵をしていた。そして、神楽家のご先祖様が見守る中、彼らによって生かされている有り難さに、深い感謝を思わずにはいられなかった。