∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_17 時のない領域
目の前で膨張し続ける漆黒の霊気玉を見ながら、雪丸は溜め息をついた。
実際、少女にとってこの問題は複雑怪奇で、どこから手を付けて行ったら良いものかまるで見当がつかなかったのだ。
事の始まりは、親友の菊千代が人ならざる《物の怪》に憑依され、その後を追い《マンダラ界》へ降り立った事だった。菊千代の過去を調べる事で悪霊の本性を突き止め、その退治方法なりが分ればと思っていたのだ。
雪丸は記憶を宿す不思議な花を散策して行くうちに、弧霊に憑依された一人の教師の存在に行き当たった。その男が一連の神隠しの張本人であり、結末は《浮き舟の乗り換え》という形で進行している。
しかし、妙だと少女は思った。雪丸の知っている《マンダラ界の常識》では、霊気の花はあくまでも記憶媒体であり、そこに記憶された人物が領域外に出ることなど不可能だからだ。が、目の前で膨張し続けている漆黒の霊気玉は明らかに、領域外に出んとする弧霊の仕業に他ならなかった。
「これはどう解釈したらいいの?これじゃ同じ《マンダラ界》で過去と現在が出会ってしまうわ…」
雪丸はそうつぶやき、ふと菊千代の祖母のことを思い出した。過去の記憶であるはずのあの老婆が、菊千代に憑依している自分の存在に気づき、記憶の壁を飛び越えて語りかけて来た事を…。時間の存在しないマンダラ界だからこそありえるタイムパラドクスだ。
《幽体に過去も現在もない。だからマンダラ界を経由すればどこへでも行き来できるのじゃよ》
老婆の語ったその言葉に、雪丸は不吉な予感を感じていた。
「過去と現在、同じ物の怪がここで出会う事には何か意味があるはずだわ。だって、過去に憑依が完成しているなら、改めて憑依し直す必要なんてなかったはずだもの…」
雪丸はそう思うと同時に、この物語の結末に興味を覚え始めた。過去の菊千代に憑依したあと、弧霊はその後どういう結末を迎えたのだろうと…。それが分れば今回の事件の解決策も見えてくるはず。雪丸はそう考えた。
「でも、それを知る為には…」
雪丸はそこまでつぶやくと口をつぐんだ。どうすれば良いのかは分っていた。この巨大な霊気玉に直接潜ればよいのだ。やり方はわかっている。だが、そのリスクを思うと、少女は二の足を踏んでしまうのだった。
雪丸はかつて霊気の花に潜った経験があった。が、過去に干渉してはならないという菊千代の忠告を忘れ、恐ろしい目にあったことがあるのだ。記録された者たちは過去ではあるが、今もその世界で生き続けている。向こうに敵意があれば当然襲われもするのだ。ひとつ間違えれば過去が変化してしまい、それに付随する未来にも影響しかねない。いま弧霊が逃げ込んでいる場所とはそういったデリケートな次元なのだ。下手に手を出して失敗すれば、それが引き金となり、浮き舟自体の精神異常を誘発するかも知れない。雪丸が躊躇する理由はそこにあった。
「どうしたらいいんだろう…?」
雪丸は選択に迫られていた。霊気の花の光る部分から手を離し、辺りの森を見渡す。過去の出来事を記憶した花々は様々な色の霊気玉を創りだし、玉はセフィロト《生命の樹》を伝って昇ってゆく。それらの《思い》がパンドラ《知恵の樹》までたどり着き、菊千代の《現在》を形成し続けているのだ。そして現在の菊千代に憑依している弧霊、そいつが霊気玉の行く手を遮っている光景がおぼろげに見えていた。
「このまま黙って見ていても改善される見込みはないわ…」
《森》は弧霊に冒されようとしているのだ。待ってなどいられない…状況は深刻なのだ。「やるなら今しかない!」雪丸は勇気を振り絞り、自らにそう言い聞かせた。
「でもなるべくなら、奴との接触は避けたいわね…」
マンダラ界で身を隠す為の方法は、以前菊千代から聞いていた。もちろん現在の菊千代からである。雪丸は霊気の花にフワリと飛び乗った。それから巨大なまでに膨張した霊気玉を見上げ、そこに付着した大きな粒を手に取った。《霊気の種》である。
雪丸はそれを手でこね、充分に柔らかくしてから頭に乗せた。両手でゆっくりと伸ばしてゆく。下へと引っ張られたそれは、ゴムのように伸び、体全体を覆う衣《森の気配》となった。負の性質を帯びているので、雪丸は少し悲しい気分になった。
「気分は最悪だけど我慢しなきゃ…これで中の世界でも姿は見えないはずだから」
そうつぶやき、雪丸は大きく息を吸い込んだ。両手を突き出し霊気玉の表面に圧を加える。手のひらに感じていた弾力はしばらくすると抵抗を諦め、雪丸をその内部へと受け入れ始める。ゆっくりと静かに…。それはあたかも漆黒の沼に沈んでいくダイバーのようにも思えた。
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霊気玉の内部は奇妙ではあったが、一つの世界が形成されていた。球体の内側にカーブを描いた地面があり、建物があり、円形の空が穴のように天に張り付いていた。サリティアの旧校舎に酷似していたのは、それを創りだしている《霊気の花》の影響なのだろうか。
雪丸は旧校舎の天井から礼拝堂内部を見おろしていた。いや、正確に言うなら屋根はすでに壊れていた。ポッカリと口を開けた天井からは、低くたれ込めた黒い雲が覗き、そこから雨が降り注いでいる。
白いワンピースを着た少女は朽ちかけた壁の上に身を置き、ほの暗い世界に目を凝らした。闇に轟く雷音。大気を切り裂くその光が、時折雪丸の視界を助け、その細部を照らし出してくれる。それは先ほどの礼拝堂に似てはいたが、細部に至ってはかなり誇張がされているように思えた。祭壇奥にある大きな樹木は、それがかつて十字架であったとは思えないほど枝葉に覆われ、天に向ってその幹を伸ばしている。
《ここは誰が創りだしている世界かしら?》
そのイメージからは菊千代の精神世界とは考えにくかった。この禍々しさから言えば、おそらくは弧霊のものだろう。あるいは菊千代に憑依しかけている弧霊の状態を心像として描いているのだろうか?どちらにしても過去世界とマンダラ界との間に造られた中間レイヤーに違いなかった。
少女は壁をひと蹴りすると、礼拝堂の床にフワリと降り立った。光を放つ霊的微生物が空中を漂い、ほのかに辺りを照らしている。旧校舎で徘徊していた浮遊霊たちもいた。それらは菊千代に憑依しているわけではなく、過去の記憶に封じられていた思念体が流れ込んで来たものだ。それを見るだけでも、旧校舎には礼拝堂としての表の顔だけではなく、謎めいた裏の顔が伺い知れた。
雪丸はふと顔を上げ扉の方を見やった。その扉を目指して走る人影が数体。よく見るとそれらは石像で、そこから数歩離れた場所にも大理石の像が転がっていた。手首を押さえ苦痛の表情を天に向ける像。倒れた少年の像。仰向けに倒れている二人の男の像。そして倒れた大男の胸に顔を埋める女の像…。
「これは!過去世界で見たあの風景そのままだわ…」
雪丸は声を殺してそう叫んだ。彼らの時間はこちらの世界から見ると、このように表現されて見えるのだろうか?
「そこに誰かいるの…?」
大男の胸から顔を上げ、一人の女性がこちらに声を向けた。大理石のように白いその姿は、一瞬石像のようにも思えたのだがそうではなかった。こちらの世界にて唯一動くことのできる存在…女性はシャローナだった。
「気のせいかしら…」
シャローナはそう言うと立ち上がり、雪丸の方へ歩み寄った。ロングドレスの裾がフワリとなびく。雨は降り続いていたがドレスは雨の重さを感じさせなかった。
雪丸は一瞬ドキリとした。が、気配を殺したまま、何も答えず様子を伺った。記憶の住人たちとの接触は極力控えたかった。例えそれが霊であっても自分とは時間軸が違うのだから…。幸い《森の気配》を装着していたので姿を見られる心配はなかった。
シャローナは深いため息をひとつ突くと、再び大理石の像を振り向いた。雪丸の眼から見ても、それが片岡を現しているとすぐにわかる大きな像だった。像はところどころにヒビが入り、それが浮き舟界において、彼の状態を現しているのだと想像できた。これは菊千代の視点から見た彼の姿なのだろう。片岡は瀕死に陥っていたのだ。
ヒビは一方向に広がるかのように見えながら、しばらくするとスッと消え、また新たな所からヒビ割れが始まるのだった。おそらくは菊千代が霊力を用いて治癒を試みているのだろう。雪丸はその成り行きを眺めながらそう思った。
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「先生、しっかりして!」
菊千代は横たわる片岡に向って叫んだ。幸い表面的な止血は成功し、血液の流出は最小限に止めていた。が、それまでに失った血液の量と臓器にまで達した刺し傷は致命的と言わざるおえなかった。呼吸は徐々に弱まり、脈拍も低下している。
菊千代は自らの持つ霊力のすべてを動員し、片岡の体に霊磁気を送り込んでいた。にもかかわらず、その肉体からは片岡の霊体が離れ、半身が浮かび上がっている状態だった。
「先生、逝かないで!」
菊千代が叫んだ。が、その呼びかけも虚しく、男はその巨漢からフワリと浮かび上がった。男の霊体は唖然とした表情で辺りを見回し、そして目の前の少女を眺めた。何事かを語りかけようとしているが勝手が分からず、ただ口をぱくぱくとさせるのが精一杯の様子だった。
「先生、慌ててはダメですよ。肉体は仮死状態だからまだ戻れます。落ち着いて!」
死後の世界に驚きを隠せないでいる片岡に向って、菊千代が言った。霊眼を持つ菊千代には、浮き舟の死がそのまま存在の消滅に繋がるという認識は無かった。彼女にとって死は形態の一変化に過ぎない。しかし、蝶とサナギは同じエリアに共存できないという情緒的な寂しさは存在する。出来れば手で触れる事のできるこの世界に留まって欲しい事には変わりはなかった。
菊千代は傷口が開かないよう注意しながら、心臓マッサージと人工呼吸を続け、霊体の誘導を試みた。救急車の要請はすでに携帯から済ませてある。救急隊員が来るまでの間、肉体を維持出来ればまだ助かる見込みはあるのだ。菊千代は辺りに浮遊する邪霊達を寄せ付けぬよう、丹田に意識を集中させ結界を強めた。ここには死んだばかりの浮き舟目当てに近づいて来る邪霊も多く漂っているからだ。
「そんなことしたってもう無駄だ、神楽」
背後から苦しそうな喘ぎと共に、菊千代の耳に声が届いた。苦痛の表情を浮かべた林流源が立っていた。骨折した手を庇いながら、もう片方の手にはバタフライナイフが握られている。
「そこまでやるつもりはなかったんだ…」
林は暗い表情でそう言うと、菊千代の方へふらりと近づいた。林から発せられる霊磁気には殺意が感じられる。だが今は蘇生を中断するわけにはいかなかった。菊千代は出来る限り結界を強め、彼がその中へ入らぬように祈った。
「気がついたらよ、グリズリーを刺していたんだ。止められなかった…ちくしょう。痛え…痛えよ」
菊千代の結界に触れると、林は痛みに顔を歪めた。結界に張り付いていた邪霊が林を中心に集まりはじめる。骨折した腕の患部を補うように集まる者、口や鼻から体内に侵入する者。林流源を依り代に邪霊はその厚みを徐々に増していった。霊眼に映る林の幽体はボコボコと膨れ上がり、伝説の巨人ゴーレムのように恐ろしい容姿に変わりつつあった。
「ははは…俺は人殺しだ。参ったな、この歳でよ。だが幸いここにいるのは俺とお前、そして気絶している地場と海老原だけだ。つまりこの事を知っているのは神楽、お前だけなんだよな」
林はそう言うと菊千代の方へズイと歩を進めた。結界の膜がゴムのように伸び、林は泳ぐようにその体を前に押し出した。邪霊によって増幅された林の殺意が、焼き付くような痛みを伴って菊千代の背に突き刺さる。このままでは殺される。だがこの場から逃げる事は出来なかった。菊千代は死を覚悟しながらも太陽神の名前を呼び、感謝の言葉を唱え続けることを選んだ。
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激しさを増し始めた雷雨に、雪丸は過去世界の菊千代に何らかの変化が起きたと感じていた。横たわる片岡の像に変化が見え始めたのはそれから間もなくだった。
「輝義!」
シャローナはそう叫び、片岡の像に広がり始めた亀裂を手で押さえた。亀裂は止まることなく全体に広がると、像は生命を得たかのように大きく震え、その片腕を高く上げたのだった。
雪丸は少し離れた場所からその様子を伺っていた。ヒビ割れた像の表面はゆで卵の殻さながらにポロポロと体から落ち始め、上半身がムックリと起こされると、大きな断片となって体からそげ落ちていったのだ。
「ここは…どこだ」
顔から剥がれる白い角質を手で拭うと男がつぶやいた。男は大気を切り裂く雷鳴にビクリと体を震わせ、その雷光に照らされた世界を凝視した。目の前に女性がいることに気づき、その顔をじっと見つめる。
「シャローナ!」
片岡は思わず叫んでしまった。自殺したはずの生徒が目の前にいることの驚きと自分の置かれている不思議な状況は画家の理解を遥かに超えているようだった。
「シャローナ、君は生きていたのか?」
画家の言葉に首を横に振ると、シャローナは輝義に言った。
「輝義、その質問はとても難しいわ。でもたぶん…先生の肉体が死んでしまったからここにいるんじゃないかしら?」
「俺がすでに死んでいるって…じゃあ、ここはあの世…?」
片岡はそう言うと今一度辺りを見回した。ここがあの世であるのならたぶん地獄に来てしまったに違いない。そう思った。
「ここは菊千代の世界…といったらいいのかしら? 詳しい事は私にもよくわからないの。ただ今まであの子の体を借りてあなたと遭っていたのは事実よ」
シャローナはそう言うと、画家と結ばれた夜の出来事を思い出した。思った事は何故か瞬時に相手にも伝わった。
「そ、それじゃあやっぱり、あれは君だったのか!」
片岡は大きく身を乗り出し、シャローナの手を取った。体を覆っていた角質がさらにそげ地面に落ちる。最愛の人と再会できたという喜びは、この世界では現象を伴ってすぐに表れた。包容し合う二人の霊体が光に包まれ、暗闇の中を明るく照らし出した。
「シャローナ、遭いたかった!」
「先生…」
シャローナは画家の巨体に包まれると思わず泣き出した。片岡の目も涙で一杯になっていた。雪丸はその心地よい光に照らされながら二人を見守っていた。だが、菊千代の状況を思うと喜んでばかりもいられなかった。
《焦っちゃだめよ、雪丸。落ち着くの…》
雪丸は自分にそう言い聞かせた。霊気の花を外から覗くのと違い、記憶の中に入り込んだ場合は時間経過をそのまま体感しなければならないのだ。
この霊気の花で何かが起こる。(それはたぶん弧霊との接触!)そのタイミングをジッと待たなければ…雪丸はそう直感していた。不意に光を放つ蟲たちが点滅し始め、一方向に動きを見せる。
=グルルルルゥ
暗がりの奥から低い唸りが三人の男女に届く。姿は見えない。片岡とシャローナはその声に驚き、闇の中に目を凝らした。雪丸も辺りの様子をうかがった。地面を叩く雨音がさらに強さを増して来る。
「うまく憑依できたと思ったが、内側にも二重三重の結界が張られていやがる。守護が厚い家系はこれだから厄介だぜ、ちくしょう!」
暗がりからフラリと現れた男が毒づくように叫んだ。姿を現したのは体育教師の海老原だった。その風貌は以前とは違い、口元が大きく裂け、全身が濃い毛で覆われていた。むろん海老原本人ではない。それは人間に擬態した弧霊の姿だった。長い間教師に取り憑いて来た残留イメージを纏っているのだろう。雪丸は男を観察しながらそう思った。
「海老原、貴様!」
片岡は変わり果てた同僚の姿を確認すると、シャローナを庇うように身構えた。
「海老原?ああ、あいつか。俺の姿はそんな風に見えるんだな。それじゃあ是非ともこの浮き舟を手に入れなきゃなぁ。美男子でありながら美少女の浮き舟ちゃんを(笑)」
弧霊は不敵な笑いを浮かべると、片岡との間合いを詰め始めた。この男を倒し、シャローナを奪う事はすでに頭に描いていた。片岡は生徒に後方に下がるように指示をした。シャローナは少しだけ躊躇したが、片岡から離れると祈るような視線を彼に向けた。
=バリバリバリ
切り裂くような雷鳴と共に礼拝堂の樹木が落雷を受ける。かつては十字架だったその樹が二つに裂け、それを合図に弧霊が動いた。三本の尾を持つ禍々しい姿が、雷光に照らし出され、影となって壁に張り付く。尻から伸びるその長い尾は、その《物の怪》の強さを象徴していると言って良かった。
弧霊の一撃を一重に交わし、片岡は相手の懐に飛び込んだ。丸太のような二本の腕で相手の胴体を締め上げる。がっぷりと四つに組んでみると、弧霊の体は片岡の巨漢をも凌ぐ大きなものだった。
「海老原、貴様らの目的は何だ!神隠しの黒幕とは誰なんだ!」
片岡はそう叫ぶと渾身の力を込めてその腕を締め上げた。弧霊は男を見下ろし、鼻先でフフッと笑った。そして全身を大きく揺さぶった。片岡のベアハッグはいとも簡単に外れ、その体は横に大きく吹き飛ばされた。
「お前なんぞにそれを話す道理はないわ(笑)」
「何を!」
片岡の顔に驚きの色が浮かぶ。力の差は歴然だった。腕力には自信があった片岡だがその力が思うように発揮できない。マンダラ界での《力》は筋力ではなく気力に力点が置かれている。そのことを片岡はまだ理解できなかった。もちろん腕力にも気力は必要な要素だが、筋力と言う形でしかイメージできない彼には、力への還元力が不十分だったのだ。
「まだマンダラ界の体に馴れていないようだな、片岡」
嘲るようにそう言うと、弧霊はシャローナの方を一瞥した。片岡を無視し、海老原もどきがロングドレスの少女にゆっくりと歩み寄る。
「さあ、また楽しもうぜ、可愛い子ちゃん。この男の目の前でな(笑)」
弧霊は紳士的に手を差し伸べ、彼女の反応を待った。シャローナがその手を拒絶し、後ずさる。「チッ」という声を口元に漏らし、弧霊は少女に飛びついた。強引にその手を掴もうとする。が、その手は寸前のところで届かず空を切った。
「シャローナ逃げろ!」
叫びと共に、弧霊は背後から伸びた腕に掴まれていた。片岡は渾身の力を込め、再び弧霊を持ち上げる。
「鬱陶しいんだよ、お前は!」
片岡の腕をするりと外すと、振り向き様に弧霊はその手を横に振るった。弧霊の鋭い爪が片岡の首を真一文字に横切る。
「きゃあぁぁぁあああ!」
シャローナの悲痛な叫びが辺りに響く。片岡の巨体が大の字に倒れると、その体から首がゴロリと離れ、おびただしい血流が内側から吹き出した。もちろん浮き舟界で言う血液ではない。霊液と呼ばれる液状の霊磁気のことだ。色は血のように赤いが蛍光色を伴い、霊体を離れると霊気玉となって浮遊する。
辺りには大小の霊気玉が散乱し、妖しく光を放っていた。弧霊はその一つを掴むと自分の口元に運び、トマトか何かのように赤い霊液を絞り出した。
「野郎の霊気玉じゃ味気ないね…」
「く、くそう…」
弧霊の嘲笑に、首だけになった片岡が悔しそうに呻いた。その傍らで、首を失った体が手探りで主人を捜そうとしている。奇妙な光景のようだが、マンダラ界において形というものが幻想にすぎないという、一つの実例だった。霊体に死は存在しない。あるとすれば、体ごと喰われ取り込まれる事ぐらいだろうか。
「まあそこで大人しく、恋人の犯される姿でも眺めているんだな(笑)」
裂けた口を更に大きく開け、海老原は笑いを上げた。手も足も出なくなった片岡の首に手を伸ばす。が、その首がヒョイと宙に持ち上がり、見上げるようにこちらを向くと、弧霊の笑いがピタリと止まった。よく見れば、片岡の首から小さな体が生えている。白の袴に紫の女子狩衣。子供のようなその体は、神職のような装束を身に纏っている。
「おやまあ、惨い事をするもんじゃのう…」
首を持った両手をヒョイと横にずらし、老婆が弧霊に笑いかけた。突如現れた老婆に、弧霊が警戒の色を示す。首だけの片岡には何が起こったのか分らなかった。
「おばあちゃん!」
雪丸は思わず声を出して叫んでしまった。シャローナも同じ気持ちだった。菊千代の祖母が片岡の首を持ち、弧霊と向かい合っているのだ。
「いたずら狐というのはお前さんのことかね?隠れている尻尾は三本。ってことは三百歳位の新参者じゃね(笑)」
老婆はカラカラと笑い声を上げると、弧霊を見上げて言った。その言葉に弧霊の顔がみるみると引きつりだした。海老原の擬態が皮のように剥がれ、禍々しい三本の尾がその体から姿を現す。尻尾を馬鹿にされることは狐族にとって最大の侮辱なのだ。
「こ、このババア、もう一度言ってみやがれ!」
ブンと唸りを上げ、大きな手が老婆の首に振り下ろされる。絹は片岡の首をポンと真上に放り上げると小さくしゃがみ、弧霊の爪をひらりと交わした。
「危ないのぉ、年寄りは大切にするものじゃぞ」
再び首を手にすると、老婆はその首をシャローナに向ってポンと投げた。赤い霊液が首から滴り、放物線に胡を描く。
「え…」
シャローナはそれをかろうじて手で受け取ったが、バランスを崩し、首を抱いたまま二回転ほど転がってしまった。
「おい、俺の首で遊ばないでくれ。目が回るじゃないか!」
腕の中で片岡の首が悲鳴を上げる。雪丸はその光景を見ながら、自分はどう動くべきかを迷っていた。あんな小さな老婆では巨大な弧霊にかなうはずもない。片岡のように絹が無惨な姿になるのを見るのは忍びなかった。
「おばあちゃん、無理しないで。あたしも手伝うわ!」
雪丸は《森の気配》を着たままそう叫んだ。弧霊は新たなる存在に警戒し、声のする方向を睨んだ。が、その姿はどこにも見えない。警戒したまま、再び老婆の方を向き直る。
「おチビちゃんも来ていたのかい。わしなら大丈夫じゃ。隠れて見物しておいで(笑)」
絹が雪丸に言った。老婆は両の手に扇子を広げ、舞うように弧霊の頭に飛び乗った。雪丸は不安げにそれを見上げていたが、絹の言葉は正しかった。弧霊の素早い攻撃にも関わらず、その爪は絹にかすりもしないのだ。逆に攻撃すればするほど、弧霊自らの体に爪痕を増やす始末だった。
「ちくしょう、チョコチョコと動き回りやがって、この糞ババァ!」
痺れを切らすように、弧霊は大きくその体を揺すった。絹は体の上を転がると、その背中をポンとひと蹴りして舞い上がり、弧霊の尻尾目がけて飛び降りた。三本の太い尻尾が鞭のように大きくうねる。なわとびでもするように絹の体が尻尾の上を飛び跳ねる。
「マンダラ界でなら、お前ごとき尻尾三本に負ける気はせんよぉ(笑)」
カラカラと笑いそう言うと、絹は両手に持った扇子を大きく振り下ろした。
「うぎぁああああ!」
暗闇の中に弧霊の悲鳴が轟く。大きな尻尾がその根元からサックリと切断され、三匹の生き物のようにのたうち回っている。おびただしい霊液が辺りの大気を茜色に染め上げた。
「ちくしょう、俺の尻尾が!しっぽがぁああ!」
弧霊は叫び、尻を押さえながらも自らの尻尾を集めようと躍起になった。が、尻の痛さとその動きの早さについてゆけず、尻尾はピョンピョンと跳ね回るばかりだった。
「これは愉快じゃ、シャローナとチビちゃんもやってみれ。ほれ、面白いぞ〜」
絹は三本の尾を捕まえるなり、それにポンと飛び乗った。
「わぁああ、俺の尻尾で遊ぶなぁ!」
乗馬のように跳ね回る老婆の姿に弧霊が叫んだ。尻尾の根元から流れ出る霊液が霊気玉となり、弧霊はそれを必死で集め、口の中に入れて行く。一本の尾には百年分の霊磁気が詰まっているのだ。それを全部失ってしまったらただの野弧になってしまう。弧霊は必死だった。
「さて、お前さんも首だけでは寂しかろう。元に戻してやるでこれを飲みなされ」
「え…飲むって、ちょっと!」
シャローナの元に戻ると、絹は手にした尻尾の切り口を片岡の口に近づけた。片岡の抵抗を無視して、尾の根元を口に銜えさせる。尻尾の先から絞り出すように圧を加えると男の口に大量の霊液が流れ込んだ。
シャローナと雪丸はその光景に仰天した。更に老婆がブツブツと祝詞を唱えると、男の首から胴体がヌウと生えてきたのだ。片岡は新しく生えた自分の体を手で触り、更に大切な部分を確かめてみた。天に向かって男の象徴がそそり立っている。
「霊にとってもそこの部分は大切じゃ。のう、シャローナ(笑)」
「もう、お婆ちゃんったら!」
絹に促され、シャローナは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「や、体を戻してくれたのはありがたいが、そうジロジロ見んでくれよ」
片岡も顔を真っ赤にして言った。納まりの付かない男根を手で隠し、身につける物を辺りに探す。首の無い自分がそこにいたが、そいつの服を剥いで着ても結局自分の一物は晒されたままになる事に気づき、片岡は頭を抱えた。
「服なんぞ、イメージひとつでどうにでもなるものぞ」
絹はそう言うと手にした狐の尻尾を宙に投げ、エイと一声掛けてみた。白い尾がフワリと形を変えて白いタキシードに変化した。
「ちくしょう、俺の尻尾でつまらぬ物を造りやがって!」
ヨレヨレにやつれた弧霊が毒ずくように叫んだ。霊磁気の抜けかけた体はふた回りほども小さくなってる。
「どうせ他人様から奪った霊磁気であろう。ケチ臭い事を言う出ないぞ。なんなら残りの尻尾でウエディングドレスでも作ってしまおうかの」
絹はそう言うと尻尾の先端を持ち、ブンと大きく振り回した。パッと散った霊液が霊気玉に変わり浮遊する。
「わ、悪かった婆さん。俺が悪かった。最後の一本は返してくれ。頼むこの通りだ」
「さーて、どうしたもんかのぉ」
土下座して頼む弧霊を前に絹が思案する。反省するのなら一本ぐらい残してやってもいいと思っていた。
「その前に事件の黒幕を吐いてもらおうか。誰の指図でやったことなんだ?」
片岡が弧霊を問いつめる。一回り大きくなった片岡に対し、弧霊は猫のように小さく映った。
「そ、そんなこと喋れるか…殺されちまう」
「シャローナ、どんなウエディングドレスが欲しい?狐の襟巻きの付いた奴がいいかの?」
絹が尻尾をブンと振り回す。
「サ、サリティアの会長だ。学園長も知っている。奴ら魂を抜いて人形に生命を吹き込んでやがるんだ。だから見つかった生徒は全員抜け殻みたいになっちまう。闇小路家は幽界の手先なんだ」
弧霊は震えながら事実を話した。絹は黙ってそれを聞き、片岡は険しい表情を見せた。シャローナは片岡に寄り添い、男の作った握りこぶしを優しく撫でた。
「さあ、知っている事は話したんだ。俺の尻尾を返してくれよ」
弧霊の言葉に絹は念を押すように聞いた。
「もう二度と悪さはしないと約束するかの?」
「約束する!誓って心を入れ替えるよ」
「ふむ、では返してやるか。ほれ」
絹はそう言うと残った尻尾を差し出した。弧霊が尻尾に手を伸ばす。
「だめ!お婆ちゃん。その狐は嘘をついているわ!」
「何!」
何も無い空間から声が響くと、弧霊の手にした尻尾が目の前からスウッと消えた。少し離れた場所で《森の気配》を体から外し、雪丸が姿を現す。手には弧霊の尻尾が握られていた。
「き、貴様。俺の尻尾を!」
「これは渡せないわ。渡したらあなた、千織お姉ちゃんに憑依してまた菊っちの所にやってくるもの!」
雪丸はそう言うと太い尻尾をパンと振り下ろした。羽毛枕から羽が飛び散るように霊液が玉状になって散乱する。狐はあわててその霊気玉を集めて口に入れた。
「なんじゃ、この悪狐。舌の根も乾かぬうちにわしをたぶらかしおったか!」
絹が弧霊を一喝する。閉じた扇子を口元に持ってゆき、ブツブツと祝詞を唱えはじめる。弧霊はそれが退魔を意味する祝詞だと気づき、後ずさりを始めた。
「ま、待て。何かの間違いだ。俺はお前なんぞ知らない…」
弧霊は懇願するようにつぶやくと、雪丸の方を向き直った。何かに憑かれたように雪丸との間合いを詰め始め、同時にその尻尾に手を伸ばす。その表情が一瞬、憎悪に豹変する。次の瞬間「破!」っと言う気合いが闇に響いた。尻尾を掴もうとする弧霊の腕がその体もろとも、雪丸の目の前から消えてゆく。閃光が闇を照らすと、辺りに雷音が響き渡った。
「お婆ちゃん、ありがとう…」
雪丸は老婆に礼を言うと共に、役目を果たせた事に安堵し、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。これで菊千代も救われる。そう思うと雪丸は熱いもので胸が一杯になり、思わず泣き出してしまった。シャローナが彼女の肩に手を置いて微笑みかける。片岡は雪丸の勇気に惜しみない拍手を送った。
「さて、ここでのんびりとしている訳にもいかんな。そろそろ、わしの浮き舟があの子の元に着く頃じゃからの」
「菊千代の身に何か起こっているのか?お婆さん…」
絹の言葉に片岡の表情が変わる。
「お前さんの帰りを待って蘇生を試みておるはず…じゃが、はてどうしたものかのぉ…」
老婆はそう言うと、やや困ったようにシャローナと片岡の顔を交互に眺めた。二人は絹の言葉の意味するところがすぐに分った。片岡の蘇生は同時に、男女の別れを意味するからだ。
「後はお前さん次第じゃの。この子と共にこっちの世界で暮すもよし、生き返ってあの子の元に帰るもよしじゃ…」
絹の言葉に片岡は頭を抱えた。シャローナと菊千代、そのどちらかを選ぶ事など自分にはできそうもない。それならばこの身を二つに切り裂いて、二人に与えた方がいい。本気でそう思った。
「この身を二つに…?!」
片岡はそうつぶやくと、ふと前方に目をやった。首の無いもう一人の自分が、何か絵でも描くようにポーズをとっている。
「あ、あ、あ…あそこにいる俺は蘇生できるのだろうか?」
片岡の震える言葉に全員の視線が首無しの大男に注がれた。シャローナと雪丸が「ああっ」と驚きの声を上げる。絹はにんまりと笑顔を見せ、片岡の問いに答えた。
「もちろんじゃよ、あれもりっぱなお前さんじゃ(笑)」