∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_15 初体験
午後から突然降り出した雨は、菊千代が帰宅した後もまだ降り続いていた。昼間の日差しは嘘のようにかき消され、今は重そうな雨雲がたれ込めている。叔母と叔父は外出していて家には誰もいなかった。菊千代はびしょ濡れになった制服を脱ぐと、軽くシャワーを浴び、二階の部屋に上がった。自分の部屋ではなくシャローナの部屋だ。
「シャローナ、君の制服借りるね…」
菊千代は誰もいない部屋でそうつぶやいた。白いブラウス、赤い大きな胸リボン、チェックのプリーツスカート。壁に掛けられた聖サリティアの制服は当時のままだった。着て見るとサイズは同じなのだが、シャローナよりも背があるせいかスカートは短く感じられる。心の動揺を自らの中に観察してみたが、さほどの羞恥心も芽生えず、不思議な程素直に受け入れている自分に《覚悟を決めたんだな》と改めて実感していた。
モデルをやっていた頃は日々女装をし、物心ついてからずっとそれが当たり前だと思っていた。自分は仕事としての女装を与えられていただけで、女性になりたいという願望はまったくなかった。そこには女性でも男性でもないというニュートラルなバランスがあり、だからこそ仕事として割り切れたのだ。それを恥ずかしいと感じ始めてしまったのは、たぶんアイデンティティが揺らいでしまったためだろう。
シャローナの憑依はそのバランスを根底からくずしてしまった。菊千代は先延ばしにしていた性の問題を、直視せざるおえなくなってしまったのだ。肉体が女性化するごとに、男子という表舞台がどんどん浸食され、気づいてみれば裏舞台の女性が主役にすり替わっているという感覚。自分と言う存在の立ち位置がわからなくなっていたのは当然だった。
担任からの仕打ち、クラスメイトからのいじめ、静香からの告白、そして祖母からの助言も含めて、ここ数日の出来事はすべて、性というものを学ぶための試練だったのだと菊千代は理解していた。一度崩れてしまったそのアイデンティティを再び構築し直し、今度は自らの意志で《性》を選び直していたのだと…。
「僕は女性として生きる!」
菊千代はそう決意していた。とはいえ、《ぼく》を《あたし》に直して女性のように振る舞うとか、男性器を切除して戸籍を変えようとかはまったく考えていなかった。むしろ、今のままの自分でいいのだと思っていた。ただ、社会生活を送る上で、女性という型に納まる方が楽であることは間違いなかった。海水浴場で男性用の水着をつけて泳げば騒ぎになってしまうが、女性用なら誰も気にしない。不思議ではあるがそれが現実であるからだ。
「まあ、これでも最初は騒ぎになるだろうけど…」
当然、この姿で学園へ行けば自分を知る級友や教師は驚くだろうし、日々ファンレターをしたためて来る女子達はショックを受けるに違いない。まだまだ乗り越えねばならない問題は山積している。とりわけ深刻なのは異性問題だった。闇小路静香には女性であると告白をした。それが自分の決めた立ち位置だからだ。けれど片岡にはなんと言えばいいのだろう。このまま黙って女性を通せばいいのだろうか?それとも一線を越えず、絵描きとモデルの距離を保てばいいのだろうか?
「いやだ、このままなんていられない…」
菊千代は片岡に自分の気持ちを伝えたかった。そしてそれを伝えるのだとすれば、自らのアイデンティティである《両性具有》を告げなければならない、とも思った。好きな人を騙し続けることはできなかった。ここで逃げたらこの先一生、誰と出会っても騙し続けなければならなくなる。菊千代はひとしきり考えを巡らせると「答えなど出ない…」といういつもの答えに行き着くのだった。
「もういいや、考えていても仕方が無い…その時はそのときだよ、菊千代…」
菊千代は姿見に映ったもう一人の自分にそう言い聞かせた。窓から外を眺めると、雨はさっきよりも強さを増している。菊千代はシャローナの浴衣をビニール袋に詰め込むと、彼女のローファーを履き、家を出た。
《僕はこの体を通して一体何を学ぼうとしているのだろう…?》
人生に起こるすべてのことは、生まれる前に自分自身で決めて来たのだと祖母は言う。だとするならば、この体で生まれた事にも意味はあるはずだ。叩き付けるような雨を見上げ、菊千代はそう思った。
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アトリエの床に片岡の姿を見つけた時、菊千代は彼が死んでいるものと勘違いしてしまった。Mドナルドの紙包みと、空になった酒ビンと、缶ビールの空き缶が所狭しと散乱したゴミの山。足の踏み場もない床に、行き倒れの遭難者よろしく男が埋もれていたのだ。この状況を見れば大抵の人間は焦るし、菊千代も例外ではなかった。
「先生…しっかりして!」
悲鳴こそ上げなかったものの、菊千代は涙まじりに叫んでしまった。むっくりと起き上がった教師を見て、生きていたのかと心底安心し、菊千代は嬉しさのあまり教師に抱きついてしまった。
片岡は何が起こったのかという顔をして少女を見上げた。白いブラウス、赤い大きな胸リボン、チェックのプリーツスカート。聖サリティアの夏服を着た少女が自分に抱きついている。教師は一瞬「シャローナ…」と口にしかけ、驚きの表情を見せた。が、覗き込む少女の顔をもう一度見て、「ん…」と声を詰まらせた。
「マール…じゃないか。どうしたんだ?そんなに慌てて…服がびしょ濡れじゃないか」
教師は二日酔いの頭を手で押さえて言った。
「あ、すまんが水を一杯くれないか…」
「そりゃ、慌てますよ…先生、ちょっと飲み過ぎです!」
菊千代は少しムッとしながら腕まくりをした。大きなゴミ袋をポンと広げ、酒ビンと空き缶を集めだす。もう一つ広げて燃えるゴミを入れた。
「いや、最近昔のことばかり思い出しちまってなぁ。酒の量が少しばかり増えてしまった…あ、すまんな水」
水の入ったコップを受け取ると、片岡は喉を鳴らしてそれを飲み干した。タバコをくわえ、ゴミの中からライターを探す。キョロキョロしていると、床に転がったライターを見つけて菊千代が差し出してきた。
「ありがとうマール、着替えないと風邪をひくぞ」
「うん大丈夫、ここを少し片付けてから着替えます」
少女はそう言うと、持参したタオルを肩に掛け掃除を続けた。教師は頭を掻きながらソファーの上に腰を下ろした。
《マールを見ていると、彼女の事を思い出す…》
教師はその姿を見てそう思った。シャローナもよくここへ来てはゴミの山と格闘してくれた。何度もすまんと謝りながら、ソファーの上に追いやられて、体育座りをしながらその様子を眺めたものだ。片岡は目を伏せ、拳を握りしめた。またあの時の幻影が脳裏にちらつく…。
《シャローナ…》
「もう遅いから、家まで、送くろう」
あの時、俺は彼女にそう言った。いつもなら「はい」と返ってくるはずなのにその日の答えは違っていた。
「いいんです、今日は…。泊まっていっても」
シャローナは確かにそう言った。俺は自分の耳を疑った。いつもとは違う彼女の返事に何か決意のようなものを感じ、戸惑ってしまった。言葉を失い、ただコーヒーから立ちのぼる湯気を見ていた気がする。長い沈黙の後、俺は決断した。
「いや、だめだ。神楽…帰りなさい」
俺は迷いを振り払うように首を振った。このまま彼女を引き止めたら、きっと間違いが起きる。そんな予感がした。
シャローナは「でも…」と言いかけ、しばらくして「はい…」と返事をした。その背中はとても悲しげだった。もしかしたら泣いていたのかも知れない。
「えへへ、そうだよね。教師と生徒が同じ屋根の下で一晩明かしたなんていったら噂になるものね」
彼女は明るくそう言った。無理をしているのはわかっていた。俺にはその気持ちが痛いほど伝わって来た。が、それ以上俺は何も言えなかった。
「じゃあ、またね。先生」
シャローナは元気にそういった。いや、わざと元気に振る舞ったに違いない。ドアが開き一瞬立ち止まった時、俺は彼女が振り返ると思った。
「送って行くから…」
振り返らずに出てゆく彼女に、俺はそう言葉をかけた。が、閉まるドアの音にかき消されたのか、シャローナの返事はなかった。何故あの時、俺は追いかけなかったのか…追いかけてさえいれば…。
「先生、どうしたの?ボーっとして…」
ハッとする教師の顔をマールが心配そうに覗き込んでいた。片岡は照れくさそうに頭を掻くとタバコをくわえた。見回すと部屋はすっきりと片付いている。
「じゃ、ちょっと着替えるね。覗いたらだめですよ」
菊千代はそう言うと、持参したビニール袋を手に取った。部屋を見回し、隅に置いてあるベールの掛かった大きなカンバスに目を付ける。
「しかし、ひどい降りだな…暗くなる前に止むといいのだが…」
屋根を叩き付ける雨音を聞きながら片岡が言った。その言葉に菊千代が教師を振り返る。「いいんです、今日は…。泊まっていっても」ニコリと微笑み、カンバスの陰に身を隠す。
《えっ…》
教師は、自分の耳を疑った。タバコを持つ手が震え、煙が小刻みに揺らぐ。
「明日から三連休でしょ。それに月曜は終業式だから一日出たら夏休み〜(笑)」
少女の楽しげな声がカンバス越しに聞こえる。あの時と同じだ。教師はそう思った。彼女の動作ひとつひとつにシャローナをだぶらせてしまう。
「泊まるって…ご両親が心配するだろ」
教師はタバコの煙を大きく吸い込んだ。
「ご心配なく、友達の家に泊まりに行くって言ってありますから…」
菊千代はそう言うと、カンバスの陰で胸のリボンを解いた。実際はメモを残して置いただけだが大丈夫だろう。
「いや、しかし…」
片岡はこの成り行きに《あの日》にタイムスリップしてしまったかのような錯覚を覚えた。このまま、マールを帰してしまったらもう永遠に逢えないのでは…そんな脅迫観念が頭をもたげる。
「先生、シャローナって生徒ご存じですよね…」
菊千代はおもむろにそう切り出した。片岡は驚きの表情をカンバスに向けた。教師から溢れ出る霊気玉。菊千代は最初からそれに気づいていた。シャローナに対する切ないまで愛情と後悔、そして苦悩がここまで感じられた。
「ああ…彼女は私の生徒だった」
教師は狼狽し、声を震わせた。カンバスの陰でシャローナが話をしている。そんな妄想が頭をかすめる。
「シャローナは僕の従姉妹なんです。先生の絵をみて彼女がここに来ていたとわかりました」
菊千代はあえて《僕》という言葉を選んでみた。少しだけ教師の反応を待つ。が、それに対しての反応は返って来なかった。
「いま、僕が着ているこの制服ですけど、これシャローナの制服なんですよ」
カンバスの陰から手が伸び、脇に置かれたディレクターズチェアの上に赤いリボンが掛けられる。
「シャローナの…」
教師は絞り出すような声でつぶやいた。その制服を見た時、シャローナの面影をマールに見たのは偶然ではなかったのか…。教師はそう思った。震える指先から長く伸びたタバコの灰がポトリと床に落ちる。
「彼女は先生の事を最後まで愛していたんです」
「え…」
教師の顔がカンバスの向こうにいる少女を凝視した。片足を上げた菊千代の足がイーゼルの向こうに見える。靴を脱ぎ、そのあとで紺のハイソックスがイスに掛けられる。
「彼女が自殺をしてしまったのは、その愛を貫き通すためだったのだと思います」
菊千代はシャローナから感じられる心の思いを語りだした。一度を切り出すと、言葉は次から次へと口に出た。
「でもね、先生。たとえどんな理由があれ、自殺という手段は正しくなかった。シャローナは死んでしまったあとでそれに気づくんです」
「マール、なぜ君はそんなことを…?」
片岡はカンバス越しに少女の仕草を想像しながら、疑問符を投げかけた。教師の目の前で、菊千代の脱いだスカートとブラウスがディレクターズチェアの上に掛けられる。
「なぜだとお思いになります?先生…」
菊千代はそう言うと、前屈みに手提げ袋の中に手を入れた。
「いや、俺にはさっぱり…」
戸惑う教師の声を聞きながら菊千代は「うふふ…」と笑った。手にした浴衣の袖に手を通す。シャローナの部屋から持ち出した浴衣だ。
「シャローナが教えてくれるんですよ。僕に憑依して…」
菊千代はそう言うとカンバスに掛かったベールをスルリと外した。100号ほどの大きな油絵が露になり、教師はそれを見つめた。浴衣姿のシャローナの油絵だ。
「なーんてね(笑)」
菊千代はカンバスからヒョコリと顔を出し笑顔を見せた。それからゆっくりと姿を見せ、油絵の横に立った。教師の視線が菊千代の羽織った浴衣に釘付けになる。前を合わせ腰紐を結んだだけの簡単な着付け。それは油絵の中に描かれた少女と同じ浴衣、片岡がシャローナに送った物だった。
「僕ってシャローナの面影があるでしょ?まるで憑依されているみたいに…」
菊千代はくるりと回わり、教師にポーズを取ってみせた。呆気にとられている教師の腕に抱きつくと、菊千代はクスクスと笑った。少しの間押し黙ったあと、教師にも笑みが戻った。
「やられたな…ああ、確かに彼女に似ている。そうだったのか、マールは彼女の従姉妹だったか…と言う事は名前も神楽か?」
「うふふ、初めて名前を名乗りますね。僕の本名は神楽菊千代っていいます」
「菊千代か…いい名前だ」片岡はシャローナの面影を見るように、少女の浴衣姿を改めて眺めた。「しかし…どうして「僕」なんだ?マール」
菊千代の顔から一瞬、笑顔が消える。が、すぐに笑みを取り戻し、少女はロッキングチェアに腰を掛けた。その視線が教師の顔をまっすぐにみす見捉える。次の瞬間、菊千代は体の奥からシャローナのやってくる気配を感じた。声帯が瞬間的に憑依される。
《実は僕、男なんです…》
口から発したはずの声が言葉にならずに、思考の中に流れて消えた。菊千代は憑依が完全に広がらないように、精神の足場に意識を踏みとどまらせた。腕の動きを取られ、指先が襟に掛かる。「あ…」
シャローナの次の行動に菊千代は思わず声を上げてしまった。シャローナは浴衣の前合わせをグイと広げると、右の肩と乳房を教師の前にさらけ出したのだ。教師は突如として変化した菊千代の表情に目を見張った。シャローナは左手で髪をかきあげ、さらにポーズをつける。一瞬の出来事だった。
「シャローナ…?」
教師は思わずそうつぶやいた。が、次の瞬間。彼の表情が、教師から画家のそれに変わってゆくのが、菊千代にははっきりと分かった。
「シャローナ、いや、マール。今から描かせてくれないか…」
少しためらった後、片岡が言った。画家はその答えを待たずに真新しいカンバスをイーゼルに乗せた。絵筆と絵の具が机の上にばらまかれる。シャローナには確信があったのだろう。自分の行動に片岡がどう反応をするのかを…。菊千代の脳裏にシャローナの「てへ」と笑いながらベロを出す顔が浮かんだ気がした。
《わかったよ、シャローナ。君のやりたいようにするといい…》
菊千代は抵抗をあきらめ、彼女のやりたいようにその身を任せてみようと思った。祖母から教えられた祝詞を唱え続けることで強制コントロールも可能ではあるが、シャローナを押さえつけることはしたくなかった。
「マール、そのまま視線をこちらに向けてくれないか…そう、右手はチェアーの肘掛けに置いて…」
片岡は手短に指示を出した。画家でいるときの彼は歳よりも若々しく映った。真剣で、情熱的で、少しも照れたりしない。この勇敢さで自分を受け止めてくれたなら…菊千代は彼を見ながら苦笑をした。
シャローナは片岡に言われるがまま、ディレクターズチェアに腰掛け、脚を組んだ。浴衣の裾が左右に分れ、少女の長い脚が露になる。少女はそれを直さず、画家の顔を見つめた。
《シャローナ、君はまさか…》
菊千代は彼女の思惑に気づき、そうつぶやいた。自分の体からシャローナの霊磁気が沸き立っている。色香を醸し出す強い霊気玉だ。
突如、少女の中に沸き起こった輝きに、片岡の視線が釘付けになった。記憶の中にずっと埋もれていたイメージの断片。それは《あの時》のシャローナの表情だった。甘い香りで蜜蜂を誘う花のような視線。少女たちが受け継いで来たなにものかに、片岡は再び遭遇していた。
まるでシャローナの亡霊を目にしているようだ。片岡はそう思った。憑依と表現したマールの言葉が頭をよぎり心臓が脈打った。少女から目を逸らし、カンバスを見つめる。
《あの日の再現になるのか…》
片岡はそう直感した。本能と芸術の闘いだ。画家はモデルに美の女神アフロディーテを求め、モデルは画家に欲望ヒメロスを求める。その欲望に目覚めていなければ、作品は単なる卑猥な絵へと堕落してしまうのだ。
《ならばもう一度受けて立つしかない…》片岡はそう思った。
「マール、腰紐をほどいてくれないか…」
片岡は決意を固めそう言うと、生徒の反応を待った。菊千代は目を閉じ、深い呼吸を一つした。そして再び目を開き画家を見上げた。告白するなら今しかない、そう思った
少女の赤い唇が「はい」と動いた。声はかすかに震えている。菊千代はチェアーから立ち上がり、前を向いたまま、腰紐をほどいた。襟元が緩み、前合わせが左右に広がる。白い乳房に続く菊千代の下半身が足先まで露になる。菊千代は下着を付けていなかった。すかさずシャローナが手で股間を隠そうとする。が、菊千代はそれを制し、両の手を広げ、前合わせをさらに開いてみせた。両性具有を隠そうとするシャローナの思惑を今度は菊千代が制した。
「マール、君は…」
片岡は軽い衝撃を覚えた。そして、少女の股間の、そこにあってはならぬ物を凝視した。胸元の乳房、腰のくびれ、脚の曲線、そのどれをとってみても女性にしか見えないのに、彼のその部分は男性だったのだ。
「僕、実は男なんです…だから「僕」なんです」
菊千代は震える声でそう口にすると目を伏せた。言うべき事は言った…あとは彼次第だ、菊千代はそう覚悟した。
「男ってマール…その胸は?」
片岡が聞いた。
「両性具有って知っていますか、先生。僕は女であり同時に男でもあるんです」
菊千代は静かに語った。今日の午前、闇小路静香には女だと告げ、そして午後には男だと告白している。両性具有と言うこの性とは一体なんなのであろう…。
菊千代の苦しみはシャローナにも直接届いていた。シャローナは黙ってそれを聞き、そして感じていた。片岡はそんなことで人を差別する人間ではないことを知っていたが、両性具有者を恋愛の対象にするかどうかは彼女にもわからなかった。
だから彼への愛を成就させるために、菊千代にはそれを黙っていて欲しかった。しかし、この肉体は菊千代の物であって自分の物ではないのだ。シャローナもそれは理解していた。それ以上菊千代を操る事は彼女としても心苦しかった。
「先生…もう、おやめになりますか?」
再び画家を見つめ、菊千代が言った。片岡は少し間を置いたあと、少女を見つめ、そしてニコリと笑った。
「いや、問題ない。君を描かせてくれ、本当の君自身を…」
片岡の声はやさしく、そして力強かった。
「ほら、マール。何を落ち込んでいる…今夜はとことん付き合ってもらうぞ(笑)」
画家の笑顔に菊千代は、思わず目頭が熱くなった。彼の腕の中に飛び込んで泣き出したい気持ちだった。
「はい、先生…」
菊千代はそう言うと、その感情をグッと堪え、モデルとしてディレクターズチェアに腰を下ろした。体中から再びシャローナのオーラが増してゆくのを感じた。シャローナの喜びが菊千代に伝わってくるようだった。
《輝義…愛しているわ》
シャローナの心の声が聞こえてくる。その愛情が菊千代の体中から溢れ出していた。それに反応するように、カンバスを走る木炭の音に鋭さが増す。画家は内側から沸き起こる欲望に気づいていた。少女の輪郭を描くたびに、熱い何かが彼に襲い掛かる。それを振り払い、また線を引く。
==シャッ、シャッ、シャッ
音を立てて、木炭がカンバスを走る。菊千代はその音を聞くたびに、彼に全身を触れられている気がした。素肌に感じる画家の鋭い視線。格闘する男の眼差し。そこにいつもの優しさは微塵も感じられない。
内側から下腹部を突き上げるシャローナの性衝動。菊千代は外と内との狭間に立ち、翻弄する自分の心を見つめていた。
《…気持ちいい、こんな感覚、初めて…》
包み込むような甘美な糸が、菊千代の全身に、そして本能に絡み付く。濡れるという言葉の意味さえ知らぬままに、菊千代は制御出来ない体の反応に戸惑っていた。
「雨足が少し遠退いたな…」
片岡は筆を置くとそう言った。時計を見るとすでに十時を回っている。
「本当にいいのか、マール。このまま続けても…」
画家の言葉に菊千代はこくりと頷いた。
「先生とこんな時間を過ごせるなんて、いままで思いもよらなかった。これは神様が与えて下さった大切な時間です」
少女は片岡の手を取り、その身を乗り出した。浴衣の前合わせが開き、少女の白い裸体が覗く。片岡は目のやり場に困り頭を掻いた。勇猛な画家は留守のようだ。
「ありがとう、菊千代」
片岡は嬉しかった。初めて彼女を菊千代と呼び、画家としてではなく、男として礼を言った。
「あ、いえ…」
菊千代の長いまつ毛が、驚いたように二、三度瞬く。顔が赤らむ。
その夜はいつ眠りについたのか、お互い分からなかった。朝日が窓から差し込み始めたとき、菊千代はベッドで、片岡はソファーの上で目を覚ました。雨はすっかり上がっている。少女は浴衣のままで軽い朝食を作り、二人で食べ、そしてまた一日が始まった。
時々休みながら、少女は半裸に近い姿のままポーズを取り続けた。その姿を意識することもなく、あたかもそれが自然であるかのように、アトリエの中に溶け込んでいた。
束縛の中にあっても自由を探し、そこを住処とする。女という生き物の限りない順応性。たくましさ。こんな少女の中にさえ、それは息づいている。両性具有という特殊な性であれ、その本質は変わらないのだ。片岡はそう思った。そして彼女の、いや女という生き物のしたたかな生命力を垣間見るたびに、自分の型にはまった個性が卑屈に思えてならなかった。
画家の筆が止まったのは、その日の夜半だった。気の早い秋の虫が河原に跳ね、アトリエの窓からも、その声が聞こえていた。
「先生、出来たの」少女が聞いた。
「いや…」(どうしたんだ、筆が進まない)
「お茶にします?」
「ああ、そうだな…」(さっき、休んだばかりだ。なのに…)
片岡は流しの前に立つ少女を眺めた。窓から流れ込む風が、夏の香りと共に浴衣の裾をなびかせている。
ここで初めて彼女に出会って以来、画家は様々なマールに遭遇して来た。あどけない少女、弾んだように笑う少女、沈んだ少女、悲しげな少女、神秘的な少女、そして、妖しげな少女…。その状況に応じどこまでも変化してゆくマール。片岡は菊千代を、まるで踊り子のようだと感じていた。幾重にもまとったヴェールを、一枚一枚、踊るように脱いでゆく。そして、女という名のヴェールを、その最後の一枚まで脱いだ時、そこに立っているのは一体何者なのだろう。片岡はそれが知りたかった。
「どうしたの、先生。深刻な顔して…疲れましたか?」
菊千代は片岡の前に、コトリとカップを置いた。
「ああ、そうかも知れない」
確かにそれは深刻な問題だった。筆が一歩も進まない。画家は自らの内に、深く暗い深淵を覗き込んでいた。前に進むためには、その中へ飛び込まねばならなかった。彼女の真の姿。女の本性に出会わなければならなかった。
極限まで彼女を追い詰めてみれば、あるいは可能かも知れない。例えば怒りをぶつけてみる…例えば嫉妬を引き出してみる…例えば…。芸術と言う名を借りたサディステックな揺さぶり。
今なら傑作が描けそうな気がする。そして、引き返すことも。描けばカンバスに真実が残るだろう。それは芸術の勝利を意味する。だが…と画家は思った。そして彼は突如悟った。この闘いには犠牲が必要なのだと。芸術か、愛か、そのどちらかを選ばねばならないのだと。勝者だけが残り、敗者は例え残っても、その輝きを失うだろうと…。
「先生、コーヒー冷めちゃうよ」
少女が画家に声をかけた。それは菊千代ではなく、シャローナの言葉だった。白い指が、片岡の指に絡む。
「ああ、そうだな…」
片岡は少女に笑みを返し、そして思った。そんなことまでして傑作を残すことに、一体何の意味があるというのだろうと…。画家は少女の瞳をジッと見つめた。
シャローナの指が、輝義の前髪を掻き上げるように撫でた。彼が思い悩んでいる事はすぐに分かった。シャローナは彼の傍らに立ち、腰を曲げ、そっと唇を合わせた。照義もそれを拒まなかった。少女の柔らかな乳房が浴衣の前合わせからこぼれている。彼女は画家の手を取り、その柔らかな膨らみに、そっと手を重ねた。
片岡はシャローナの体を抱き寄せた。もう抵抗出来なかった。膝の上に、ちょうどだっこする形で、左手を彼女の頭に添え、右手は彼女の胸に。彼女の香り…花の匂いがする。
「シャローナ…」
片岡の中で張り詰めていた何かが弾けた。
《この子を、芸術の犠牲にする権利がどこにあると言うのだ。俺の芸術が例えその輝きを失おうとも…ああシャローナ、愛しい!俺はお前を手放したくない…》
少女の唇に、頬に、首筋に、乳房に、片岡は愛撫し続けた。
菊千代は彼の思いを全身に感じ、それを受け入れ、彼に返した。が、その愛が自分だけに向けられているとは思っていなかった。彼の魂はシャローナを見ていた。最初からずっと見ていたのだ。菊千代自身もそれに気づいていた。彼の心はシャローナにあるのだと…。けれどそれでいいのだ、と菊千代は思っていた。
輝義はアトリエの照明を消した。満月を少し欠いた月明かりが、少女の横たわったベッドに降り注ぐ。彼女の白く輝く裸体。照義はその柔らかな感触にそっと触れた。安物のベッドのギイと鳴るその音が、妙に照れ臭く、照義はさらに優しく、少女を開いた。傍らには敗者となった未完の絵が、一つにつがう男女を見下ろしている。
その夜少女は女へと至る儀式を通過した。微かな痛み。肌を重ねるたびにそれは陶酔へと変わり、寄せては返す潮のように幾度も少女を通り抜けた。
《僕の中に彼がいる!》
菊千代はシャローナと共にその喜びを全身で受け止めていた。シャローナがこの世に残した唯一の未練。自らの浮き舟を通じて、その思いを成就させることに菊千代は喜びを感じていた。シャローナが浮き舟なしでは成し得なかったように、自分もまた彼女なしでは体験出来なかった恋なのだ。最初にして最後の…。
《さようなら…男子としての菊千代。そして、ありがとう…》
菊千代は彼の腕の中でそっとつぶやくと、共に歩んでくれた過去の自分に別れを告げた。