∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_14 告白
地場登は、校内に貼られたポスターを食い入るように眺めていた。
一人の少女が、桜の樹にもたれ掛かるように写ってるポスターだ。セーラー服姿、手には学生鞄を下げている。満開を少し過ぎた桜並木の下で、どこか遠くを見つめるように、少女は散り逝く桜を見上げていた。
==《いじめ撲滅キャンペーン》一人で悩まないで…
そう書かれた広報ポスターが張り出されたのは、たしかゴールデンウィーク明けだった。地場はそれが張り出されるとすぐに自宅に持ち帰り、自分のコレクションに加えた。少女は地場のアイドルだった。
「マールちゃん…」
地場は写真に写った少女を手でなぞり、そうつぶやいた。《いじめ撲滅キャンペーン》の少女がまさにいじめの標的になっているとは皮肉なことだ。地場はポスターを見ながら苦笑した。だがモデルのマールと同級生の菊千代が、同一人物だと知る者は自分を除いてはいない。自分だけが知りうるその真実に、地場は少なからず優越感を覚えた。
「マールちゃんは僕だけのものだ…」
地場は更衣室で見た菊千代の裸体を思い浮かべた。白く柔らかな肉体。マールのその姿を何度夢見たことだろう。
それまで地場は彼女のカタログ写真だけで欲望を満たして来た。想像の中でモデルを裸にし、愛撫し、あられもない姿で何度も犯し続けた。マールがモデルを引退したと知ったときは、恋人を失ったように目の前が真っ暗になった。だがその憧れのアイドルは意外な形で戻って来たのだ。
「お前、ふたなりだったのか…?」
あの時、担任の海老原はマールに向ってそうつぶやいていた。教師の長い指が彼女の乳房を掴み、胸に張り付いたニプレスを剥がす。ピンと盛り上がった女性の乳首に地場は興奮した。それは林も他の生徒も同じだったに違いない。
首を絞められたマール。美しい顔が苦しそうに歪み、白い裸体をくねらせるその姿に、地場はその場で射精しそうになった。教師の指が小さな男性器を撫で、さらにその奥まで滑らせる。
《や、やめろ!やめてくれ!》
それまで魅入っていた地場はハタと我に返った。声にならない叫びが喉元に張り付く。それは菊千代でありながら同時にマールちゃんなのだ。
《だめだ…僕のアイドルを汚すな。それだけはだめだ!》
「いやあぁぁぁ…!」
マールが突然叫び声を上げた。それはいつもの菊千代の声ではなく、絹を切り裂くような女の悲鳴だった。声が誰かの耳に届いたのか、辺りが急に騒がしくなる。
「どうしたのぉ〜」
「女生徒の悲鳴が聞こえたみたいだ」
「男子更衣室の方か?」
男女の声が数を増し、更衣室の方へと近づいて来る。
「ち、まずいな…」
海老原はそう言うと菊千代をシャワールームに押し込んだ。水着を拾い、その中に放り込みビニールカーテンを閉める。菊千代のむせ返る声が中から聞こえて来た。
「早くそれに着替えろ、神楽…。お前達はここを囲め…」
教師は生徒達に向き直ると手早く指示をした。
「どうかしたんですか?」複数の生徒が更衣室のドアから顔を覗かせる。
「こっちのほうから悲鳴が聞こえたんですよ」別の生徒が大きな手振りをする。
「悲鳴?ああ、こいつだよ。バカみたいな大声だしちゃってさ」林はやれやれといった表情をして地場を指差した「本当、女みたいな奴だよ」
地場の泳ぐような視線が林に向く。
「あ…あ…ごめんなさい。僕が悲鳴をあげました」
話を合わせるように、地場は頭を下げた。後は林と取り巻きが適当に話を作っていく。集まった生徒達は怪訝そうな顔を地場に向け、その場から去って行った。
《でも、マールちゃんは…マールちゃんは穢されずに済んだ…》
地場は納得するように何度も頷き、再びポスターに目をやった。チャイムが鳴り、休憩時間の終わりを告げる。教室に戻る生徒達の中に菊千代の姿を見つけ、地場もその後に続いた。すぐ脇に林もいた。朝からずっと菊千代に張り付いているのだ。
「神楽、顔色が悪いな。もう限界なんじゃね(笑)」
林流源が菊千代の肩を叩きニヤリと笑った。地場は席に着くと菊千代の顔をチラリと見た。苦し気な表情を見せている。無理もない、朝から一度もトイレに行かせてもらえないのだ。地場も以前は同じ目に遭っていた。トイレ行っても中へ入れさせてもらえずに、最後には失禁させられるのだ。そしてそれを理由にまたいじめられる。無限地獄だ。地場はその苦しさを思い出し、思わず顔を歪めた。
「はい、現代史教科書五十二ページ。『江戸から明治へ』からだったね…」
授業が始まり、抑揚のない老教師の声が念仏のように響いていたが、菊千代の耳には遥か遠くで聞こえているように思えた。強い尿意が定期的に押し寄せる。菊千代は手に汗をかきながら、それに耐えるしかなかった。机に書かれた嫌がらせの落書きをジッと凝視する。が、それらの言葉の意味さえ、今は頭の中に入らなかった。虚ろになった思考の中に林の姿が浮かぶ。
「女子トイレを使ったらどうだ?神楽。男子トイレは男が使うものだろ(笑)」
今日一日で何度その言葉を聞かされただろう。林流源がナイフを操りながら笑っている。林のその言葉を聞いた瞬間、シャローナが内側からやってくるのがわかった。彼女の怒りが腹の底から湧き上がる。菊千代はその怒りを交わし、踏みとどまった。
「女子トイレなら使ってもいいのかな?」
苦痛に歪んだ菊千代の笑顔が林に向けられる。ナイフ動きが一瞬止まり、林を包んでいる暗いオーラが徐々に強さを増していった。
「お前がスカートをはいて登校したら、使っても文句は言われないだろうよ」
その言葉に取り巻き達が一斉に爆笑した。その後から発せられる林の攻撃的な霊磁気が矢のように菊千代に突き刺さる。シャローナの怒りがみるみる膨れ上り、精神的な痛みを増幅させていく。
《だめだ、シャローナ…挑発に乗ってはいけない!》
菊千代は心の中で彼女に言った。ここで怒りをぶちまければ、その場で腹に一発喰らって失禁させられてしまう。彼らはその瞬間を手ぐすね引いて待っているのだ。
無意識下で行われている霊的攻防。その次元では背後存在が関わっている。いじめの本質とは本来そういうものなのだ。そのレイヤーにおける相殺がこの次元の結果となってあらわれているのが真相だ。
《霊的主導権を彼らに取られてはいけない…》
菊千代は怒りの海に支配されたシャローナに感謝の祝詞を唱え、それを必死で鎮めようとした。しかし鎮まるかに思えた次の瞬間、次の大波が現れ足をすくわれる。その繰り返し…まさに持久戦だ。菊千代は波に足を取られぬよう、祖母から教えられた太陽神の名前を、心の中で繰り返し唱えていた。
その言葉は荒れ狂う海に、金色のサーフボードのように映っていた。ボード上でバランスを取る事で、彼女からの憑依を防いでくれる。霊的にはそんなイメージだった。
昨日までの菊千代であったなら、すぐに彼女の回想の中に放り出されてしまっていた事だろう。しかし今の菊千代は、簡単に憑依を許していた昨日までとは違っていた。外と内、その双方の間をすり抜けるようにバランスを取ることが出来たのだ。
「早く楽になっちまえよ(笑)」
菊千代の忍耐をあざ笑うように、林は同じ言葉を繰り返した。一時間目、二時間目、三時間目…休み時間が過ぎるたびに精神力が消耗されてゆく。現実と幻想の境目が曖昧に感じられてゆき、どこにいるのかさえもわからなくなってくる。菊千代は波のように押し寄せる尿意に何度も意識を失いかけた。
「おい神楽、どこへいく?」
「え…?」
教師の声に、菊千代は我に返った。気がつくと席を立ち、教室の端まで歩いていた。
「すみません。ちょっと気分が悪くて…保健室に」
菊千代は短くそう告げると、小走りで教室を後にした。「あの野郎…」林流源が思わず立ち上がった。まさか授業中に抜け出すとは予想もしていなかった。教室を出てゆく菊千代をくやしそうに睨みつける。
「保険委員は誰かな?神楽に付き添ってやりなさい」
老教師の言葉に地場が立ち上がった。が、返事をしたのは林流源だった。
「はい、行ってきます。俺、保険委員だから…」
その言葉に地場は驚き、林の顔を見た。それから抗議を促すようにクラスを見回した。保険委員は林ではなく自分なのだ。が、誰一人としてそれに異議を唱える者はいなかった。老教師が地場に声をかけた。
「どうした?地場。何か言いたいことでもあるのか?」
クラス中が彼に注目する中、林の鋭い視線が地場を睨みつける。
「い、いえ…なんでもありません」
地場はうつむきながら返事をした。蔑むようなクラスの視線が地場に突き刺さる。
《マールちゃん逃げて!菊千代君逃げて!…》
教室を出てゆく林流源を目で追いながら、地場は心の中でそう叫んでいた。いじめに対しては無抵抗を貫き、かといって屈するのでもない菊千代の姿に、地場は理解を超えた畏怖を感じていた。もしかしたら越えられるかも知れない。彼ならそれをやってのけるのかも知れない。地場は一縷の望みを託さずにはいられなかった。
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授業中の校舎は眠ったようにひっそりとしていた。何百人もの生徒がその中に内包され、息づいている。客観的に見れば、それは特異な空間だとも言える。闇小路静香は冷たい廊下を歩きながらそう思った。
彼女は時の止まったその空間に身を置くのが好きだった。それは特別な者だけが許される空間(この時間帯だけに現れる次元)だった。彼女は時折授業をさぼり、その優越感を満喫したが、それをとがめる者はこの学園内にはいなかった。
「あら、またここまで来てしまった…」
静香はそうつぶやくと溜め息を突いた。一年生の階で向きを変え、再び歩き始める。ここに特別用などない…のだが、自然と足が向いてしまう。彼女にはその理由が分らなかった。いや、それは嘘だ…分っている。が、心のどこかでそれを認めたくない自分がいた。
==神楽菊千代
静香は彼の姿を探していた。それを愚かしい行為だとも思っていた。
聖サリティア学園長の娘にして、闇小路カンパニー会長の孫である自分の、その意に逆らうことの出来る者など、親を除いては存在しないと、いままで固く信じて来た彼女だった(むろん学園と言う小さな世界に置いての話である)。が、自分の意のままにならぬ者が目の前に現れ、それ以来落ち着かない日々が続き、生徒会活動はおろか、学業でさえもまったく身に入らない。なんて…こんな気持ちになったのは初めてだった。
静香は再び深いため息を突いた。トイレの化粧鏡の前に立ち、リップの塗りを確かめる。鏡に映った自分の唇を見つめ、彼のその感触を思い出した。皆の面前でファーストキスを奪われたその唇の…。
「もういやだ。こんな半端な気持ち…」
静香は感情を露にしてつぶやいた。彼女は迷った挙げ句、一つの結論に達していた。平たく言えば…なりふり構わず告ってしまおう、ということだ。
一年生や二年生のミーハー達と変わらない自分が死ぬほど情けない。だからそんな恥ずかしい自分に終止符を打ってしまおう。彼にあったらこう言うのだ。何度も繰り返しイメージして来たように…。
「神楽君、君が好きになってしまったの…あなたの気持ちを聞かせてちょうだい!」
静香は鏡に向い、想像上の菊千代にそうつぶやいた。
「あの…」
女子トイレの入り口に立った少年に静香が目を合わせた。それが神楽菊千代だと脳が認めるまでにしばらく時間が必要だった。
「あの、人に追われているんです。同級生なんですけど…いじめられていて。トイレを使わせてもらえなくて、その…ここ使ってもいいですか?」
「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
呆然として頷く静香に頭を下げると、菊千代はトイレの中に飛び込んだ。水洗の水を流す音。その後から追いかけるように靴音を響かせ、息を切らせた少年が入り口に現れた。鋭い目つきでトイレの中を見回すと、少年は静香を睨んだ。
「おい、今ここに誰かやってこなかったか?」
林流源はその狭い空間の中に菊千代がいることを確信していた。女子トイレというよりは化粧室と呼ぶにふさわしいモダンな造りの空間。休み時間ともなれば女子生徒でごった返している場所だ。そこに潜んでいる菊千代に聞こえるように、林は声を荒げた。
「おい、神楽。出てこいや!小便したらぶっ殺すぞ!」
林はその空間に立ち入ると、水音のする個室を激しくノックした。
「おやめなさい!」
闇小路静香の威厳に満ちた声が化粧室に響いた。それは先ほどまでの揺れ動く乙女ではなかった。林がビクリとした顔で闇小路を見る。濃い霧をまとうような独特なオーラが彼女を包みはじめる。個室の中にいる菊千代にもそれは感じる事ができた。
「坊や、ここをどこだと思っているの?女子の面前で女子トイレを覗く、あなたのしているその行為を俗世間ではなんて呼ぶのかしら?」
「な、なんだと…」
闇小路静香の言葉に林の顔が真っ赤に逆上していく。が、これは明らかに林にとって不利な状況だった。このままここに居座れば、女子トイレを覗く変態男子としての汚名を着せられかねない。だが、菊千代をここまで追いつめておきながら、みすみす取り逃がすのも癪に障った。
「じゃ、聞くがな。男子が女子トイレを使う行為は許されるのかよ。俺は見たんだぜ、神楽がここに入って行くのをな…」
林流源は理屈をこねて食い下がった。
「うふふ…正当性というのはね、力の裏付けがあって初めて効力を発揮するものなのよ。ここに誰が入っているかは重要じゃないの。あなたが誰に対して物を言っているかが重要なのよ…坊や」
闇小路静香は冷ややかに笑うと、ブランド物の赤いメガネを指で押し上げた。
「ちくしょう…」
林が暗い表情で少女を睨みつけた。ちくしょう…この糞生意気な女…俺をコケにしやがって…こいつただじゃ置かない…裸にひんむいて犯してやる。目の前の屈辱的光景に端を発し、林に内在していた先祖の抑圧された情念に火がついた。それら地獄に蠢く魂は、本来この世と交差するはずの無い集合体だ。しかし、実際には人間自身がそれを許せば、浮き舟と言う依り代を伝ってこの世に地獄が具現するのである。今、林の目にはこの世の物とは明らかに違う何かが宿ろうとしていた。
《いけない…シャッコウ様に憑依される》
赤黒いオーラが次第に大きくなって行くのを、菊千代は個室の中から感じていた。林に憑いている先祖霊《シャッコウ様》の霊的波動である。彼が憑依され、操られたら闇小路静香が危険に晒される。菊千代の背中に冷たい汗が流れた。
「お嬢様よ。力の裏付けって何なのか、具体的に言ってみてくれよ。今、ここで、俺に対して、お前に何ができるって言うんだ?お前が振りかざす権力なんてな、実際には抜く事のできない刀と同じで、ブラフに過ぎないんだよ(笑)」
林の言葉に静香の表情が微かにこわばった。
「開き直るのね、声を上げるわよ!」
「いいぜ、叫べよ。だがな、声を上げた次の瞬間に、俺はお前を眠らせる事ができる。ぶん殴って気絶させるなんて朝飯前なんだよ…」
林はそういうと静香との間合いを詰め始めた。ミニスカートから伸びる長い脚が林の欲望を否応無しに掻立てた。
「…ククク、お前、処女だろ?匂いでわかる。それも今日で卒業だ…(笑)」
林の脅し文句に闇小路静香は動じる気配を見せなかった。が、どう見ても女性である静香の方が不利だった。化粧室の小さな空間に別次元のレイヤーが交差し、互いの背後存在が対峙する。二つのぶつかり合う風圧が互いの髪を後ろにたなびかせた。
「二人ともやめてください…」
菊千代がそう叫び、個室から飛び出した。水洗の流れる音が背後に聞こえている。林の顔が静香から菊千代に向く。その顔を確認すると林の眉間にしわが寄った。
「神楽!てめぇ、誰が小便していいと……」
怒りの矛先が菊千代に向けられた。が、その怒鳴り声は最後まで言い終えることができずに、林は言葉を詰まらせた。影のようなものがフッと近づき、林の背後を取ったのだ。次の瞬間、林は自らの腕の痛みに絶叫した。大きな手が彼の口を塞ぐ。
「…………!」
塞がれた状態でのくぐもった絶叫が、小さなスペースに鈍く響く。菊千代は影のように現れたその男を見た。修道服を着た丸い黒めがねの男。闇小路静香のボディガードだ。
「津村、骨を折らない程度にね」
静香が黒服の男に指示をする。男は腕関節を後ろ手に決めたまま、「はい」と頷き、林の体をぐいと持ち上げた。少年の爪先が地面から離れる。林は目を大きく見開いた。目が赤く充血し、ボロボロと涙が流れていた。
「叫び声を上げて気絶する気分…よく味わってね。坊や」
静香は楽しそうに微笑むと、携帯を取り出して写真を撮った。林の声にならない絶叫がしばらく続き、その体が痙攣をし始める。菊千代は人が気絶する姿を初めて見た気がした。
「保健室でしばらく眠らせておきなさい」
気を失ったことを確認すると、少女が男に言った。津村が短い返事をし、肩に林を担ぎ上げる。静香は菊千代を振り返り、その手を握った。
「手間を取らせたわね、神楽君…。ねぇ、少しわたくしに付き合ってくださらない?」
「え…?」
菊千代はその手から伝わる霊磁気に驚いた。少し前まで静香の体から発していた黒い霧が、いつの間にかピンク色の霊磁気に変わっていたのだ。
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静香に手を引かれ連れて行かれた場所は、校舎最上階にある生徒会室だった。中に入ると窓は廊下側だけにあり、電灯の消えたその部屋はやや薄暗く感じられた。壁一面に貼られた催し物のポスターやチラシ。正面にホワイトボードがあり、その手前に長方形のモダンなテーブル、脇に同じデザインの椅子が並んでいる。部屋の一角にはドアがあり、奥にも部屋があるようだった。
「こっちよ、来て…」
彼女は菊千代に微笑みを向けると、奥部屋の鍵を開けた。太陽の光が暗い部屋に差し込む。一歩足を踏み入れると、菊千代はその部屋のまばゆさに一瞬目がくらんでしまった。次第に目が慣れてゆく。と、目の前に闇小路静香の顔があった。
握られていた手が汗ばんでいる。が、それはどちらのかいた汗なのか彼には分らなかった。菊千代はやや困惑気味に目をそらした。静香は唇に笑みをこぼし、解放するようにその手を離した。
室内は十畳ほどのスペースに、アールを描いたモダンな窓がパノラマ状に広がっていた。校内の敷地が一望でき、旧校舎へと続く糸杉の道が絵画のように映って見えた。
「ねえ、やり過ぎだったと思う彼?…あ、そこに座っていいわよ」
静香は菊千代にソファーを勧めると、おもむろにそう尋ねた。菊千代は返答に困ったが、静香はその答えを待たずに話を続けた。
「でもね、津村と離れて君と二人きりになるには、彼に気絶してもらわなきゃならなかったのよね」
そう言うと少女は悪戯っぽい表情で菊千代を見た。普段あまり見せる事のないキュートな仕草…。これが彼女本来の素顔なのかも知れない。が、《二人きり》という言葉に込められた彼女の思いは、菊千代をいささか困惑させた。
「あ…ここって、すごいですね」
話題の方向を変えようと、菊千代は少し大袈裟に部屋を見回した。使い心地よりはデザイン優先の近代的なインテリアが少年の目を引く。窓際に飾られた桃色の花。そこから部屋全体に柑橘系の強い香りが漂っていた。
「ここはわたくしのプライベートルームよ。教師もここには入れないわ。パパ以外では君が初めてのゲスト…かしら?」
静香の手で窓のブラインドが下ろされる。細く刻まれた影がソファーに張り付き、部屋を半分の明るさに変えた。
静香が菊千代の隣に肩を並べる。フワリとした風圧が菊千代の額をなで、そこを中心に(髪の毛でなでられるといったらいいのか)ゾワゾワとした感触が体に広がってゆく。以前にも感じた彼女独特の霊磁気だ。話題を変えようにも抵抗し難い何かの力が、菊千代を一つの方向に引っ張っていた。
《これほどの力が…》
菊千代は彼女の背後存在に意識を向けた。当然、闇小路静香には憑依している背後存在がいる。通常の人間ではこのようなオーラを発する事はまずできないからだ。しかもかなり強い。それはこの学園全体に漂うものと共通している。菊千代はそう感じていた。
「ねえ…」
菊千代の瞳を覗き込むように静香が言った。
「答えを聞かせて、神楽君」
「答え…といいますと?」
「わたくしの…こ、告白のこと…」
静香はプライドを捨てて声を絞り出した。「化粧室で聞かれたでしょ…わたくしの独り言」恥ずかしさで少女の顔がほてる。年下の男子に告白するのは後にも先にもこれが初めてだった。誘うような視線が菊千代の瞳を捉える。が、菊千代は目をパチパチとさせるだけで、その表情の中に静香の期待するものは現れなかった。
「その…僕一杯一杯で、用を足すまで頭が真っ白で…」
「覚えてないの!」
静香の眉間にしわがよった。左右の目が吊り上がる。
「…ごめんなさい」
母親に怒られた子供のような…そんな目で少年は少女を見つめた。静香はしばらく少年の顔をみつめていたが、耐えきれず(プッと)吹き出してしまった。菊千代のその表情に思わず笑みがこぼれる。《可愛い、可愛すぎる!》母性本能がマックスにくすぐられた。つぶらなその瞳に彼女は思わず口づけをした。静香の体から溢れ出る霊気玉が様々な色に変化してゆく。
「え…」
少年の口から戸惑いの声が漏れる。少女の唇はそのまま頬を撫で、菊千代の唇と重なった。舌が少年の唇を割り、静香の霊的存在がその唾液と共に菊千代の肉体に流れ込む。が、同時に甘美なその誘惑に抵抗するもう一つの力が、体の中心から広がっていく
《シャローナ…》
唇を奪われたまま、菊千代は彼女を思い描いた。静香の背後存在と憑依霊であるシャローナ。浮き舟を中心に二つの霊的存在が綱引きをしている、そんな気がした。体中を這う糸が菊千代の体を繭のように覆っていく。この甘美な刺激を織りなす背後存在とは一体何者だろう。菊千代はもつれる意識の中、そう思った。
霊的存在とは大きく分けて三種類ある。ひとつには林に憑いているような先祖霊、喩え地獄界にいるシャッコウ様であってもそれは同じ先祖だ。そして自分に憑いているシャローナのような不成仏霊もやはり同じ括りだろう。ふたつめは海老原に憑いている弧や蛇や狸などの物の怪。これらは古い森や場所に生息する精霊が、人間の出す負の情念を喰らって妖怪になってしまったものだ。そして最後に神。神といっても千差万別で天界の正神から幽界の邪神まで古今東西数えきれないほどの神様がいる。そして物の怪と邪神は、霊的な傾向から魔物とか長物という括りに数えられることが多い。
《闇小路静香の背後存在は何に属すのだろう…》
菊千代は唇を奪われながらも、体のコントロールは奪われないように、心の中でこの国の太陽神の名前を唱えていた。静香とシャローナ、その双方に距離を置くように、自らの立ち位置を確保しようとしていた。霊的に見るとそれは、荒れた海と嵐の空、その狭間で羽ばたく一羽のかもめに観えた。
「なぜなの?」
唇を離すと、痺れを切らしたように静香が尋ねた。菊千代は黙ったまま、彼女の発する霊気玉を眺めていた。それは次第に開放的な恋の色から束縛的な偏愛の色へと変わって行くのがわかった。
「わたくしの愛は受け取っていただけないの?」
静香はやや強い口調でその悔しさを噛み締めた。これは霊的な交わりを拒否された彼女の背後存在の言葉とも取れた。常人には知りえない菊千代の霊的シールドをそれは破る事ができなかったのだろう。
「…ごめんなさい」
菊千代はすまなそうにうつむいた。
「君をむりやりわたくしの物にすることだってできるのよ!君を監禁して神隠しにしてしまうことだって!」
激怒する静香の言葉に菊千代はハッとして彼女の目を見た。《神隠し》彼女はそう口にしていたのだ。
《未熟な桃を盗み、刃を立てて切り裂く、が、汝その実を味わう事なかれ…》
心の中にシャローナの言葉が蘇る。レイプすることで肉体を味わう事はできてもその愛を得る事はできない。彼女はそう語っていた。シャローナの憑依を許していたら、たぶんこの言葉は静香に向けられていた事だろう。
「ばかね…そんなことするはずないじゃない」
思わず口にしてしまった言葉に静香自身が驚き、それを訂正しようとした。が、菊千代の表情は変わらなかった。菊千代は彼女の霊磁気の色を見つめていた。どれほど巧みに隠そうとも霊磁気は偽る事ができないからだ。
「そ…そんな目で見ないでよ…」
静香の声は震えていた。そして初めての敗北を味わっていた。この世の中に自由にならないものがあるという敗北感。下級生の心さえ動かせない無力な人間がそこにいた。強引に相手の人生を奪ったとしても、真に得たいものは得ることはできない、静香はそれを悟ったのだ。
静香は背を丸めるようにうなだれた。赤いメガネをテーブルに置き、両の手で顔をぬぐう。涙が止めどなく溢れて来る。愛するものに疎まれることの辛さ、それは堪え難いものと知った。
「静香先輩、もう泣かないでください」
菊千代は静香の肩にそっと手を置いた。彼女が《神隠し》の犯人でない事は、体から溢れる霊気玉でわかっていた。その色はきれいな紫色だった。
「疑ったりしてすみませんでした。あなたは《神隠し》などしていません」
確かに憑依者の持つ暗い部分は持っている。でもそれがすべてであるならば、この色の霊磁気を発する事はできない。菊千代はそう思った。
「けしてあなたに魅力がないとかそんなことではないんです。あなたとお付き合いできないのは別に理由があるからで…」
菊千代は素直な気持ちを静香に打ち明けた。少女の顔が菊千代を見上げる。
「別の理由…?」
静香は涙でぐちゃぐちゃになった化粧の顔を手で拭った。それを隠すように赤いメガネを顔にかける。
「僕、女なんです」
菊千代はそう告白すると、シャツのボタンをすべて外し、なべシャツを上にたくし上げた。彼の言葉に唖然とする静香の目の前で、菊千代の乳房がなべシャツからこぼれる。神楽菊千代が自らカミングアウトをした瞬間だった。
静香は何も言わず、少年の乳首を眺めていた。その状況を脳はどう処理してよいのか戸惑っていた。彼はまぎれもなく女性だったのだ。
「僕、好きな人がいます。その人の事を愛しているんです」
菊千代は胸を隠すと顔を赤らめ、うつむいた。静香はようやく重い口を開き、恐る恐る尋ねた。
「それって…相手は男性?」
「…はい、男性です」
菊千代が笑顔で答えた。もう迷いは無かった。その答えに静香は脱力し、ノックアウトされたボクサーのように、ゴロリとソファーに転がった。
「…まいったなぁ。君に振られちゃった。相手が男じゃ話にならないよね」
横になったまま天井を向く。そこにはいつもの威厳も気取りもないごく普通の女子高生がいた。
「…ごめんなさい」
菊千代は謝ってから自分自身に苦笑した。今日はこれで何回あやまったのだろう…。そう思った。
「でも、なんだかすっきりしたわ」
闇小路静香はソファーから身を起こし、菊千代に向き直った。そして彼に顔を近づけるとニッと笑った。菊千代もそれにつられて笑った。構内にチャイムが響く。休憩時間になったのだろう、生徒達の弾ける波動が波のように伝わって来るのがわかった。
「でも女性の君がなぜ男子生徒として入学できたのかしら?」
静香が不思議そうに尋ねた。
「…実は僕、両性具有なんです。男子として育てられたはずなんですけど、どんどん体が女性化してきてしまって…」
「…てことは、あの、おちんちんもあるってこと?」
菊千代の度重なる告白に静香は再び目を丸くした。
「はい…でも男子としては劣勢で、とても静香先輩を満足させられるような代物では…」
「………」
静香の絶句した顔に菊千代の表情が固まった。
「あ…すみません。僕、何を言ってるんだろ…決してそんな目で見ていた訳ではなく…」
顔を真っ赤にして動揺する菊千代を見て、静香が爆笑をした。菊千代の肩を抱きしめ、うろたえるその顔を見てまた笑った。もうそこには異性としての静香はなく、同性としての、そして友人としての静香がそこにいた。