∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_13 来たるべき世界
「もぉ〜、どうしたのよ、菊千代ったら!えっと、おいくらだったかしら?」
タクシーの運転手に料金を払いながら、みどりが言った。菊千代からタクシー代を貸して下さいとの電話があり、タクシーから降りて来た甥っ子は女性用の水着姿で、裸足のまま「叔母様、すみませ〜ん」と言って、逃げるように家の中に駆け込んで行ってしまった。みどりは少々面食らいながら、タクシーの運ちゃんと顔を見合わせた。
「姪っ子さんすかぁ?いやぁ驚きました。あの格好で手を上げられたから、一瞬止まろうかどうしようか迷っちゃいましたよ」
運転手は早口でそう言い切ると、家を珍しそうに眺めた。和風とも洋風ともとれる大正風デザインは回りの住宅からは浮いた印象だったが、日の傾いた夕暮れによく映え、その内側に身を置くとレトロな雰囲気に懐かしさを覚えるのだった。
「姪っ子?…おほほほほ。まぁそうよねぇ」
みどりは(実は姪っ子ではなく甥っ子なんですよぉ)と喉まで出かかるのをなんとか堪えながら、愛想笑いでお茶を濁した。菊千代にああいう格好をさせると、叔母のみどりでさえ、彼の性別を疑いたくなるのだ。
《シャローナが生きていれば丁度あんな感じなのだろうなぁ》
みどりは亡くなった娘と菊千代を重ね合わせた。実際シャローナと菊千代はどこか似ているところがあったのだ。フランス人ハーフであるシャローナに共通点があるというのもおかした話だが、もしかしたら父方の先祖に西欧人がいたのかもしれない。菊千代はそういう顔立ちをしていた。
「でもなんだって水着で帰って来たのかしら、あの子?」
冗談を連発する運転手に少々チップを弾んで帰ってもらうと、みどりは頭を振りながら腕組みをした。
「ねぇ、ちょっと菊千代。わけを聞かせて頂戴。最近の男子高校生はそういう水着を着るのが流行なの?」
玄関口の方から菊千代の耳に叔母みどりの声が届いてきた。菊千代はそれには答えずに、バスルームを出て二階へと上がった。素肌に洗い立てのバスローブが心地良い。
「叔母様、ずいぶん元気になったみたいだ…」
菊千代は彼女の声を聞きながらそう思った。従姉妹のシャローナが亡くなって三年の歳月が過ぎようとしていた。モデル事務所のマネージメントをやめてからつい最近になるまで、何もする気になれないと泣いてばかりいた。ところが突然(あの子が帰って来たような気がするの)と言い始め、家のあちこちを掃除し始めたのだ。もしかしたら自分に憑依した彼女の気配を感じているのかも知れない。菊千代はそんな気がした。
室内履きのスリッパをヒタヒタと床に響かせ自室へと向う。薄暗い間接照明が今の気分には適している、と彼は思った。シャワーを浴び、気の滅入りも和らいだと思ったが、少し気を抜くと林達から受けた仕打ちの記憶が頭をもたげてしまう。裸にされ、いたずらされ、制服を切り刻まれ…。明日はどんな惨めな目に遭うのだろうと、まだ来てもいない未来の仕打ちに恐怖している。菊千代は踊り場の柵に寄りかかると、ドクドクと脈打つ心臓の音を聞き入った。自分の心は自分で決められるのだと、つい昨日まで考えていた自分の甘さを思い知らされた。さらにシャローナの受けた過去の痛み。それが足枷となり、自分の心を縛っている。
「僕はどうしてしまったのだろう?こんなことって…」
いつもなら祖母から教えられた感謝の祝詞を繰り返し唱えれば、生霊や邪霊はたちどころに消す事ができた。つまりそれらが醸し出す恐怖や悲しみも共に浄化できたのだ。それはつらい記憶から来る恐怖や怒り、ネガティブな感情に対しても有効なはずだった。それらも過去の自分が生み出した霊磁気、つまり思念体からの憑依であるのだから…。ところが、その祝詞が今の自分にはまったく機能しない。シャローナの感じている恐怖がどうしても拭えないのだ。
「海老原先生にレイプされていたなんて…」
昼間見た強烈な追体験が生々しく蘇ってくる。菊千代はシャローナの憑依を今更ながらに重く受け止めざる負えなかった。片岡のために与えようとした、彼女にしてみれば初めての愛。踏みにじられた時のその傷跡はどれほど深かっただろう。それが十字架になり片岡への罪悪感として、彼女を苦しめていたとしたら…。その痛みを癒せなければ、彼女の成仏は望めないだろう。
「自分の心さえままならないのに、シャローナの心を救おうなんて…」
菊千代は弱々しくつぶやくと共に、負の霊磁気が体から溢れていることに気づき、ハッとした。頭を振り、頬をパンと両手で打ち鳴らして、負のレイヤーへと沈みかけている自分を奮い立たせた。
「服を着替えなきゃ…」と思い立ち、部屋のドアノブに手をかけながら、廊下の突き当たりの、そこに漏れるぼんやりとした光に、菊千代は視線を流した。そのまま二歩三歩灯りの方へ歩を進めると、部屋のドアがわずかに開いている。そこから細い光が漏れていた。
「シャローナの部屋から…?」
ドアを開けると、誰もいないはずの部屋に薄灯りが灯っていた。和紙と竹細工で出来たスタンドに目をやる。窓の外を見て、いつの間に日が沈んだのだろうと思いながら、菊千代は部屋に入り、彼女の部屋を見回した。藤で出来たベッド、チェアー、テーブルが、和紙の暖かな光に照らされている。三年たった今でも部屋は当時のまま、だが掃除は行き届いていた。
壁のハンガーには彼女の着ていたサリティアの制服が掛かっている。菊千代は彼女のベッドに腰を下ろし、しばしそれらを眺めていたが、ふと立ち上がりクロゼットを開いた。なぜこんなところを開くのだろうと、自分でも不思議に思えたが、開けてみてなんとなくその理由が分ったような気がした。
「この浴衣…」
菊千代はそれを手に取ると自分の肩に合わせ、部屋の角にある姿見に映してみた。それは遠目には白く見えるほど、淡い青地に紫と紺のあやめをデザインした浴衣だった。シャローナが教師と過ごした最後の晩に着ていた浴衣だ。
「シャローナ…」
菊千代には彼女がそれを着たがっているのだとすぐにわかった。
「OKわかったよ」と小声で返事をし、菊千代はバスローブを脱いだ。脱いでみてから、まだ下着もつけていない事に気づく。すこしためらった後「ま、いっか」とそのまま浴衣の袖に手を通した。
「あ…これってどう着たらいいんだろう?」
着付けを知らなかったことに改めて気づき、菊千代はペロリと舌を出して苦笑した。まあ、正確に着付けなくてもいいかと開き直り、適当に羽織ってみる。防虫剤の匂いがフワリと鼻を突いた。
「浴衣はね、まずすそ線を決めるのよ」
肩越しから叔母みどりの優しい声が聞こえた。
「叔母様…」
「そのままにして…」
振り向こうとする菊千代の肩をそっと抱くと、みどりは浴衣のえり先と、背縫いを持ってゆかたを少し持ち上げた。
「よくこうしてあの子にも着せたなぁ、浴衣…。」
叔母は懐かしそうにそうつぶやくと、上前幅を決めるために浴衣を左右に大きく開いた。白い裸体が露になり、菊千代は「あ」っと声を出してしまった。
「ほらほら、気にしな〜い。男の子でしょ〜(笑)」
カラカラと笑うみどりに「もぉ、いじわるだなぁ」と菊千代が少しすねて、それから彼も笑った。さっきまでの沈んだ気持ちがほぐれてゆく。上前を合わせ、腰ひもが左寄りに片花に結ばれる。襟に衣紋を抜きながら、叔母は馴れた手つきで浴衣を着付けていく。胸紐がきりりとちょうに結ばれ、くるりと前に回る。浴衣を着るというだけの事なのに、それが形になるだけで、日本人としての何かが呼び覚まされるような、そんな不思議な思いを菊千代は抱いていた。
「やだもぉ、完璧に女の子じゃないよぉ。あんた女になったほうが絶対いいわよ…」
紅色の帯で羽根を作り、文庫に結び終わるとみどりが言った。心無しか声が震え、泣き声のようにも思えた。菊千代は少し照れたように笑い、姿見を見た。鏡には浴衣姿の少女が立っている。瞬間、内側から何かがスッとやって来る気がして、菊千代にはそれがシャローナだとすぐにわかった。いつものように意識が遠くに追いやられていく。彼女の抱く無念の思いが胸いっぱいに広がる。
「ママ…」
菊千代は叔母に向かい合うと、そう口にした。驚いたように見つめるみどりを、肩の上からそっと抱き寄せる。つかえていたものが一気に吐きだされるように、みどりはワァとその胸に泣き崩れた。菊千代の目にも止めどなく涙が流れた。
「ごめんなさいママ…ごめんなさい」
菊千代の唇を借り、シャローナが言った。何度も何度も…。みどりは菊千代に頬ずりをし、キスをして我が子を抱きしめた。
「シャローナ…シャローナ…」
そう繰り返すみどりの体からは、止めどなく霊気玉が溢れ出していた。体から飛び出さんばかりの死者の魂と、互いに溶け込み混ざり合ってゆく。その有様を菊千代は意識の片隅で眺めていた。そして「これで良かったんだ…」と、心の底からそう思った。
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「こりゃまぁ、随分と重いものをまとっておるのぉ菊…」
玄関口で菊千代を出迎えると祖母が言った。もちろん着ている浴衣のことを言っているわけではなく、彼にまとわりついている霊磁気を指してのことだ。
「はい、お婆さま。申し訳ありません…」
戸口で立ち止まったまま、菊千代は困ったように答えた。何かが邪魔をして先に進めないのだ。それを見ると祖母は、短く祝詞を唱え、彼の回りでパンパンと手を打ち鳴らした。家の結界に菊千代の霊磁気を馴染ませる為である。
不意に、壁になっていたものがスッと消え、抵抗がなくなる。菊千代は家の中に向って一礼し、太い敷居をまたいでみた。今度は難なく家に入ることができ、菊千代はひと安心した。
祖母の住む離れは、庭を挟んで母屋とは反対側に位置する純和風な家屋であった。母屋よりも浴衣姿が馴染む。菊千代はそんな気がした。
「おなごの浴衣はなんぎじゃろ」
敷居をまたぎながら、浴衣の裾を持ち上げるその様を見て絹が笑った。菊千代はやや照れながらコクリと頷いた。
「お恥ずかしい限りです。いつもこんな姿で…」
「恥ずかしがる事なぞあるものか、よう似合っておるぞ。また一段とべっぴんになりおったな」
頬を赤らめる菊千代を絹は暖かく見つめた。もうかつての孫でないことも祖母は理解をしていた。シャローナの憑依以来、ますます彼女に似て来るのは仕方のないことだ。絹はそう思った。
しばらくして絹は茶を立て始め、菊千代は黙ってその作法を眺めていた。祖母の立てる茶の香りにはいつも深いやすらぎを感じさせる。気持ちが落ち込んだ時、菊千代は祖母の元に訪れ、彼女の入れる茶に元気づけられた。
大きく開かれた障子の向こうに縁側が見え、蚊取り線香の煙がポツリと揺れていた。ときより吹く涼しげな風がその香りを運んでくる。生活の中の何気ない風景なのだが、この空間に身を置くだけで、次第に気持ちが和らいでくる。菊千代はそう感じていた。
「学校でなんぞあったのか、菊?」
孫の気分が落ち着くのを見計らって、唐突に絹が尋ねた。菊千代は戸惑うように顔を上げると、力なく「はい」と答えた。やはり祖母には隠し事はできない。そう思った。
「ほほう、弧霊が悪さをしておるのか」
菊千代から発する霊気玉を手に取り、それを覗くと絹が言った。
「大物でもないが古狐じゃ。こういう半端狐が一番たちが悪いの」
彼女には多くの説明は必要なかった。学校でのいじめも、シャローナに対する教師のレイプも、その背後にいる物の怪の存在もみなその中に記されているからだ。
「のう菊…」祖母は入れたての茶を孫に勧め、間を置いてから続けた。「おぬしに教えた感謝の祝詞がなぜ功を奏さなくなったのか、わかるか?」
「それは…つまり」
絹の問いかけに、少し間を置いてから菊千代が答えた。答えは明白だった。祝詞を唱える者が意識の外に追いやられてしまうことが一つ。憑依霊であるシャローナの負の霊磁気が強すぎ、自らの霊的意識が低い次元に繋がれてしまっていることが一つだった。それ故にシャローナの怒りや悲しみを自分から切り離せずに、あたかも自分の感情であるような錯覚に陥ってしまっている。祝詞の力を最大限に発揮させる為には、供養する者とされる者が明確に分かれている必要があるからなのだ。
「理はわかっておるようじゃの…」
祖母は期待通りの答えに満足し、微笑んだ。絹が知る限り、これほど出来の良い教え子はまれであると言ってよかった。
「ではどうしたらよいか、答えは簡単じゃろ」
「わかりませんよ。お婆さま…」
菊千代はキョトンとした表情で答え、苦笑した。絹もキョトンとした表情で孫の顔を見た。
「はっはっは、分っていれば苦労はせんか…」祖母はカラカラと笑い、一息いれて茶をすすった「では手がかりを与えよう。ご先祖様に感謝を捧げる時、何を立てる?」
「位牌としての短冊、それからお線香です」
菊千代は楽しげに答えた。また祖母の謎掛けが始まった、と菊千代は思った。彼は幼い頃から、このようなやりとりで祖母に親しむことが多かった。
「そう、霊位と記した短冊が必須じゃな。それはなぜじゃ?」
「つまり…供養のための線香があっても、高位霊以外にはその感謝が届かないからです。その他の霊が寄れるためには依り代としての短冊、つまり霊位の文字が必要ということです」
そこまで言うと菊千代はハタと思いついたような表情を見せた。が、そのアイディアは現実的ではないと、顔をしかめた。
「ふふふ、何か気づいたようじゃの」
祖母は孫の反応を楽しむように笑い、その先を続けるよう菊千代に促した。
「しかし、依り代がない状態で供養すると、霊は苦し紛れに供養者に憑いてしまう。憑かれた者が供養できないのは道理ですから、いまの僕に必要なのはシャローナと自分を分けるための依り代が必要だということになりますが…」
菊千代の解答に絹は満足げに頷いた。が、菊千代は硬い表情のまま続けた。
「でも短冊を立ててもシャローナがそれに寄りつくでしょうか?」
「短冊では無理じゃな」
「そうなんですよね、実のところそこで引っかかってしまうのですよ。僕の浮き舟そのものが彼女にとっての依り代なのですから…」
菊千代はそこまで言うと、冷めかけた茶を一口すすった。縁側の方からちょろちょろと水のながれる音がする。菊千代は考えるのをやめ、しばらくその音に聞き入っていた。虫の鳴き声と木々のざわめき、自然な音以外は何も聞こえて来ない不思議な空間。菊千代は幼い頃から祖母とここで過ごす時間が好きだった。ここには霊的な驚きや発見がたくさんあるからだ。
「発想を変えてみるのじゃ、菊。霊を寄らせるのではなく、自らが寄る足場を己の中に築くというのはどうじゃ?(笑)」
絹は菊千代の驚く表情を楽しむように言った。
「…と、申しますと!」
「この国土の太陽神様の名前を御呼びするのじゃ、それがおぬしの依り代となる」
絹はそう言うと菊千代の耳元に顔を近づけ、何かを囁いた。菊千代の顔がパッと明るくなる。祖母は孫の目を覗き込みながら続けた。
「じゃが、その名前を決して人前で言うてはならぬぞ。一人きりの時か、人がいる場合は心の中でつぶやくのじゃ。自らの信ずる神の名を相手に知られてはならない。それを肝に銘じておけよ、菊千代」
絹はそこまで言うと、またニコニコと笑顔を見せた。菊千代は「はい」と返事をし、少し照れたように目を伏せ、再び祖母を見た。絹は相変わらず菊千代の目を覗き込んでいる。菊千代には、目を覗く祖母の視線が何か別の者を見ているような気がしてならなかった。
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雪丸はドキリとして目をパチパチとさせた。老婆がこちらを見ながら笑っているのだ。まるで自分の姿が老婆には見えている。雪丸にはそんな風に思えた。
《あたしが見ているのは霊気の花に記録された菊っちの記憶だもの、おばあちゃんがあたしに気づくわけないわよ!偶然に決まっている…》
雪丸は自分にそう言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとした。
そう、今見ているのは過去の出来事なのだ。姉の千織に潜み、菊千代の浮き舟に乗り換えた侵入者。菊千代はその何者かに憑依され、いま病の床に臥せっている。そいつから菊千代を救う為に自らもログイン(つまり憑依)をして、マンダラ界にいるその悪霊を追いかけて来たのだ。雪丸はこれまでに起こった様々な出来事を頭の中で整理した。
マンダラ界には菊千代の《心》である生命の樹があり、その森にある霊気の花には彼の、いや今は彼女の過去が記録されている。雪丸はそれらを辿ってここまできたのだった。
《ようやく犯人にたどり着けそう…》
そう思うと、雪丸は先を急ぎたい思いでいっぱいになった。手元には妖精たちのくれたスナップ写真がある。それは菊千代の高校時代の記憶に登場する人々なのだが、その中の一人に限りなく黒い人物がいるのだ。担任教師の海老原信二。雪丸は彼に憑依している弧霊が、現在の菊千代に憑依している悪霊ではないかと推理していた。
「でもこれからどうしたらいいのかしら…?」
例えば過去の憑依者と今の憑依者が同じ弧霊だったとしても、それで菊千代をどう救えばいいのか、雪丸にはまだその解決方法が見当たらなかった。
「菊よ、お前も十六歳になるか」
老婆が再び話始めたので、雪丸は菊千代の聴覚に意識を戻した。
「そろそろお前に教えても良い頃じゃろうな…」
「なんでしょう。お婆さま」
祖母の神妙な顔つきを見て、菊千代は膝を正した。
「来たるべき世界の話じゃ」
絹は茶を一口すすり、そう切り出した。
「この世界が浮き舟界と呼ばれている事は知っておろう。もちろんそれを知る者たちだけの呼び方じゃが…」
「はい、お婆さま。存じております」
菊千代の言葉に、雪丸もウンウンと相づちを打った。
「そしてあの世の事はマンダラ界と呼ばれておる。まあ、一括りでそう呼んではいるが、実際は多次元の層に別れた世界のことじゃ。死者達の住む霊界、いや、この言い方には語弊があるの。向こうではれっきとした生者なのだから(笑)」
その意見には雪丸も同感だった。自分は霊ではあるけれども死者だという自覚は持っていなかったからだ。絹は話を続けた。
「神々の住む神界…妖怪たちの住む幽界…地獄界…魔界。それらありとあらゆるマンダラ界がやがて消えると言ったらおぬしはどうする?」
「え…」
雪丸と菊千代はキョトンとして絹を見た。二人には話の意味が理解出来なかった。
「はっはっは。これはのぉ、わしが以前マンダラ界を訪れたときに、眷属神から教えられた秘話なのじゃ。すべての霊的次元がこの浮き舟界一つに転写して、この世が主役になるというものじゃ。そのうち菊にも正神からの使いが訪れて、聞かされるかも知れんがの」
眷属と言う言葉に雪丸は《ポーポウ》を思い出していた。燃え盛る炎をまとった恐ろしい獅子のことだ。しかし高校生の菊千代は、まだポーポウに出会っていないのかも知れない。話の内容から雪丸はそう思った。
「ここ十数年の間に社会全体が大きく変化して来たことに気づかぬか?菊」
考えあぐねている孫の表情を見ながら絹は続けた。
「凶悪犯罪、いじめ、幼児虐待、鬱病、引き蘢り、自殺、男女の逆転、同性愛…これらはみなマンダラ界の、主に幽界の縮小と連動しておる現象なのじゃ。同じ波長をもつ浮き舟が同調する物の怪に憑依され始めているのじゃよ」
「では今回の弧霊も幽界縮小と関連があると…」
「さよう」
菊千代の言葉を受け、祖母が頷いた。やがて地獄界も天界も縮小を始め、すべて浮き舟界へと収束していく。それが事実だとするならば、世界は混沌の渦に飲み込まれるのは必至だ。菊千代と雪丸は同時に息をのんだ。
「世界は大きく変化することじゃろう。幽界に繋がる間違った集団や教えはそれを信じる者達を搾取し始め、彼らを不幸にしてゆく。もちろんそれを元にした風水や占星術、マントラももはや機能しなくなっておる。地球の極が入れ替わり、太陽からの霊光が地球に多大な影響を与えはじめておる…」
絹は淡々とした様子で語っていった。
「ではマンダラびと達はどこへゆくのですか?」
浮き舟、つまり肉体が死んだあと、その霊はどこへ帰ったらいいのだろう。菊千代は思った。絹はしばし沈黙したあとで、孫の問いに答えた。
「マンダラ界の先祖たちは霊的な遺伝子となって浮き舟に取り込まれ、今を共に体験していくことになる。もちろん、それは少し先の話じゃ。まだまだ霊界は機能しておるでの。今は幽界だけが先行しているという話じゃ」
それを聞いて雪丸は少し安心した。浮き舟もなく、霊界もなくなるのではこの先どうしていいのか、途方に暮れてしまう。
「様々な伝承に大洪水の話が残っておるじゃろ」
「はい、旧約聖書などがそうですね」
祖母の言葉に菊千代が付け加えた。
「これが大洪水の本当の意味じゃ。これからそれが始まる。すべてを飲み込む大洪水。ありとあらゆるものが一つの次元に収束してゆくとき、人の本性が試され、それに応じた霊に飲み込まれてゆく。その時、拠り所となるのが《感謝の心》、それが箱船となり人を救ってくれよう」
菊千代は祖母から教えられた太陽神の名前を心に描いた。そして感謝の言霊を…。この二つが箱船を強くしてくれる。菊千代はそう感じた。
「よいか菊。世界の混乱を恐れてはならぬ。どんなことがあろうとも、心(生命の樹)を痛めつけてはならぬぞ」
「はい、お婆さま」
菊千代は力強く答えた。生きてさえいればいいのだ。どんないじめに遭おうともそれを受けきればいいのだ。辛いのはその一瞬だけだ。菊千代はそう決意をした。
《よかった。菊っちの元気が出て来たみたい…》
それはマンダラ界にいる雪丸にも伝わって来ていた。過去のことであるはずなのにあたかも今に連動しているように、雪丸には思えた。
「ほんと不思議ね。生命の森(セフィロト)って…」
「過去とか未来という括りはのぉ、浮き舟だけが持つ特別な感覚なのじゃよ」
不意に話しかけられ、雪丸はドキッとして後ろを振り返った。霊気の花の光る部分から思わず手を離す。それまでの映像が瞬時に消えた。
「お、おばあちゃん…なんでここに!」
振り返るとそこに先ほどの老婆が立っていた。
「はっはっは。まあ、気にするでない、お嬢ちゃん。わしぐらいの年寄りになるとな。浮き舟とマンダラの区別はあまりないんじゃよ」
「じゃあ、ずっと知っていたの?あたしのことを…」
驚いたように目を丸くする少女を見ながら絹はにっこりと笑った。
「ほら、今いる生命の樹を想像してごらん。根っこの方へ行くほど過去になる。そして天辺が未来じゃ。過去の記憶は下の方に生えておる枝じゃが、その枝とてそこで終わっておる訳ではない。幹の成長と共にその枝も、つまり過去も成長しておるはずじゃ」
「うん…」
絹の説明に雪丸は頷いた。感動と驚きで言葉にならず、涙がぽろぽろと流れて来る。絹はハンカチを出して雪丸の涙をそっと拭った。
「おぬしの見ていたのはわしは過去じゃが、幽体に過去も現在もない。だからマンダラ界を経由すればどこへでも行き来できるのじゃよ」
絹は雪丸にそう教え「おぬしもがんばっておるのぉ」と笑顔を見せた。雪丸は思わず「わぁ」と泣き出してしまった。さっきまでとても心細かった。一人でどうすることもできずに途方に暮れていた。だが今。とても大きなものに、とても暖かいものに雪丸は触れている気がした。
「ありがとう、お婆ちゃん。ありがとう」
絹の胸に抱かれながら雪丸は何度もそう繰り返していた。