∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_12 受難
《女性として生きるってどういう事だろう?》
菊千代は校庭のあちこちで戯れる女子生徒を眺めながら、そうつぶやいた。水飲み場、階段の隅、下駄箱の脇、どこであろうと女子が二人以上集まると(ねぇねぇ知ってる?、もぉ〜信じらんない)などと始まる。女性というのは一人でいることがほとんどない、というのも特徴的だった。大抵二人以上のグループで行動する。もしも一人でいる女子がいるとすれば、それは相当な変わり者だと思っていい。さらに彼女達を観察してみると、まずその会話のとりとめの無さに驚かされる。テレビで観たドラマに泣けたかどうかから始まり、でもその男優(大抵はアイドルなのだが)の私生活は乱れているとか、彼氏にするには抵抗あるけど眺める分にはあのくらいの刺激が欲しいだとか…。話題に発展性がなくなると突如として、どこそこのキャラクターグッズが超可愛い件について語りはじめるのだ。彼女達の脳の構造というのは、きっと別次元のレイヤーに繋がっているに違いない。菊千代はそう思った。
「僕は本当に女としてやっていけるのだろうか…?」
菊千代は頭の中でそれをシミュレーションしてみた。体つきはすでに男子としては不自然な位に女性化している。男性器こそあるが女性器も存在し、生理がある事実からたぶん妊娠も可能なのだろう。化粧をしなくても女子に間違われることはしばしば、電話に出ても女性言葉を使えばそのまま女性で通用する。生体に関して言えばすでに女性であるといって差し支えなかった。
しかし、もっとメンタルな面において、菊千代には女性としての実感が湧かなかった。何をもって女子と男子とを分けているのか、その境界が曖昧だったのだ。
「仮にこの街を離れて、女子としてどこか別の高校に転校したとすれば…僕は女子高生になれるのだろうか?」
観察すればするほど不可思議に思える女子高生たち。異性としてなら会話も可能なのだろう。が、同性としてあの輪の中に入っていくことなど、菊千代には想像もできないことだった。
《でも恋愛に関していえば…》
菊千代は片岡と交わしたキスを思い出した。いまでもドキドキと心臓が高鳴ってくる。女性として生きる事の可能性を真剣に考え始めた原因も、その一点にあるといってよかった。いままで何度となく異性とキスを交わしたことはあった。もちろんそれはあいさつ代わりだったり、アクシデントだったりだけれども、胸の高鳴りを覚えた事は一度もなかった。
=男性に恋をしてしまったのだ!
いや、それはシャローナの霊が引き起こしている心的なシンクロであり、本心ではないのかも知れない。
=けれど好きなのだ!
どうしようもなく好きになってしまったのだ。彼のこと以外に何も考えられず、何も手につかない。まったくの重症だった
菊千代は深いため息をついた。自分が女性であるならばそれは初恋と呼べる。だが、男性としてならばそれは何と呼べばいいのだろう。くすぶり続ける炎のような気持ち…菊千代はその背徳感を拭えなかった。
「ふふふ、顔色が悪いな。神楽」
菊千代の背後からヌッと覆い被さる影が太陽の光を遮った。数名の男子が取り囲むようにベンチに近づき、腰掛けていた菊千代を見下ろした。話しかけて来たのは林流源だった。いつものように不敵な笑みを浮かべ、手にはカチャカチャとバタフライナイフを弄んでいる。
《背後を取られてしまうとは情けない…》
菊千代は自身の不甲斐なさに溜め息をついた。普段であるなら張られている結界に掛かり気づくはずなのだが…。そう思いながら彼らに向き直ると、取り巻きの後方に地場登が立っていた。地場は菊千代と目を合わせないように下を向いていた。
「何か心配事でもあるような顔つきだな(笑)」
相手の不安を掻立てるように林がほくそ笑む。菊千代も返すように微笑んだ。
「僕のことを心配してくれているの?林君」
菊千代の言葉に林の眉間にしわが寄る。
「ってわけではなさそうだね(笑)」
「てめえはまじムカつく!」
林が吐き捨てるように言った。彼は菊千代の見せる笑顔が大嫌いだった。心を見透かすような澄んだ目。哀れみをかける目。この目を見るたびに、いつかこいつを俺の前で跪かせてやりたい。思い切り泣かせてやりたい。林はそう思い続けて来た。だが、いままで手を出せなかったのは、菊千代がその隙を与えなかったのと、妙に近寄りがたい独特な雰囲気のせいだった。
だが…ここ数週間で何かが変わって来た。言葉では表しにくいが、あえてするならば奴が《同じ場所まで落ちてきた》ということ。
「かかか…神楽ぁ!」
林流源は歓喜に打ち震えながら叫んだ。
「海老原先生が室内プールでお待ちだぜ」
取り巻きの二人が菊千代の腕を掴んだ。強い日差しで押し付けられた影が、マリオネットのように操られる。菊千代がコクリと頷くと、すべてがスローモーションのようにゆっくりと動いて行った。校庭のあちこちでは女子たちの笑い声が聞こえている。映画のワンシーンを見るように、菊千代は淡々とそれらを眺めていた。
《なぜ人は独りきりではいられないのだろう。少し離れてついて来る、いじめられっ子の同級生…彼もまたこの群れの中に身を置く事で孤独を忘れようとしているのだろうか?》
そんな問いが菊千代の頭をよぎり、ふと後方を振り返る。地場登と視線が合い、地場が一瞬立ち止まる。彼は驚いたように目をパチパチとさせていた。
《な、なんだよ。なぜそんな目を僕に向けるんだよ…》
地場登は菊千代から目をそらすと心の中で繰り返した。心を見透かすような哀れみを込めた目。地場は拳を強く握りしめた。力みすぎて体中の毛穴から冷たい汗が一斉に吹き出すような気がした。
体育館に隣接した、近代的な施設が地場の目に入る。放課後の室内プールには、数名の生徒がいるだけで、閑散とした印象が感じられた。あと一時間もすれば水泳部の部員がやってきて、水しぶきの音やかけ声や笛の音が室内に響くのだろう。
それまでの間、ここで繰り広げられるであろう《いじめ》について、地場は想像した。想像は難しくはなかった。いつも自分が受けていることだからだ。男子用のシャワールームで冷たい水を嫌と言うほど浴びせられ、裸に剥かれて、恥ずかしい格好をさせられる。肛門に異物を挿入させられたり、自慰を強要させられたりするのだ。地場は苦い経験を思い出し、息を荒くした。いつもの《修行》が始められる時の(彼らはそれを修行と呼んでいた)絶望感やら喪失感やらがごっちゃになって襲って来る。目の前がくらくらとしてよろけそうになる。
が、しばらして地場は目を大きく見開き、顔をあげた。前方を歩く林や取り巻きの背中をジッと眺める。
《ちがう、今日の標的は僕じゃない!なぜ僕が怯えなきゃならない…》
地場はいじめの対象が自分でない事に今初めて気がついた。いや、頭では分っていたのだが、実感できなかった。すでに体が条件反射になっていることを憤ると共に、肩すかしを喰らったような、動揺して損したような気分に地場はなった。
《そうだ、今日の生け贄は神楽君なんだ…》
地場は二度ばかりそれを反芻し、林達に囲まれている同級生を見た。彼に動揺している様子はなく、むしろ彼らを同情しているような、深い眼差しをしていた。それが林達をムカつかせ、そしてまた地場自身をもいらつかせるのだ。
《世の中は君の思っているようなきれいごとじゃ済まされないんだ!》
地場の憤りが頂点に達しようとしたとき、不意に旧校舎の地下室での光景が、地場の脳裏に思い出された。菊千代の言った言葉が蘇る。
==林君たちのいじめは確かに辛かったと思う。でもその過去に縛られていてはいけない。過去を恐れ、映像化して、繰り返しいじめを再現する。そんなことを許してはだめなんだ。
==不安な心も安心した心も共に霊気玉を創りだす。その種が未来の枝に付着して、花を咲かせる。するとそれが実現してしまうんだよ。だからこの瞬間の心を傷つけてはいけないんだ。未来は自分の心が創りだしているんだよ。
==今だけを見るんだ。この瞬間は何も起きてはいないだろ。この瞬間の気持ちが大切なんだ。最初のきっかけは彼らだったのかも知れない。でもこの瞬間に自分の心をいじめるのか、それとも楽しませるのかは自分に決定権があるんだよ。自分の心は自分で決められるんだ。
地場には菊千代の言った言葉の意味がまったく理解ができなかった。いじめの原因がまるで自分にあるかのような、そんな理不尽な理屈など到底理解できるはずもなかった。
「君みたいな人気者に僕の気持ちが分ってたまるか!」
地場の言葉に取り巻きの一人が怪訝そうな顔を向けた。興奮のあまり声に出てしまったことにヒヤリとして、地場は目を伏せた。取り巻きの少年はフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。冷たい汗がシャツの下を流れるのを感じながら、少年は前の集団に視線を戻した。
《調子に乗ってかっこつけるからだよ、神楽君》
クラスでばい菌よばわりをされ、助け舟を出したばかりに彼らの標的にされたクラスメイト。地場はその行為を《英雄気取り》だと思っていた。クラスの賛同を期待した人気取り、だがその期待に反して誰もが口を閉ざし、挙げ句転落してしまった《落ちた英雄》。
《君の言っている事が本当なら、それを証明してくれよ、神楽君…》
脱衣所に連れ込まれる同級生の背に、地場は暗い視線を投げ掛け、そうつぶやいた。
「へへへへ、神楽。水泳の授業をまたさぼったんだってなぁ。海老原がえらくご立腹だったぜ。おかげでこっちまで呼び出されてお手伝いしなきゃならない。お手伝いをさぁ」
林流源は楽しそうにそう言うと、取り巻きに合図をした。シャワーの冷たい水が菊千代の頭から勢いよく注がれる。制服が見る見るうちに濡れてゆき、足元に水たまりができてゆく。シャツが体に張り付き、菊千代の柔らかなラインを浮き彫りにした。取り巻きの生徒に一瞬ざわめきが起こる。
「神楽…」林は一瞬言葉に詰まったが、すぐにその目は好奇の色合いを帯びた。
「服を脱げよ。それとも俺たちが脱がそうか(笑)」
林流源の性的に興奮している様子が菊千代にも伝わって来た。拒否しようとすればさらに興奮させてしまうに違いない。林に憑依しているシャッコウ様が本性を現してしまえば、どんな状況を招いてしまうのか。時として、高校生の起こした刑事事件がメディアをにぎわせたりするが、地獄のレイヤーに繋がってしまえば想像を遥かに越えた事態などいとも簡単に起こり得るのだ。
「わかった…自分で脱ぐよ」
菊千代はそう言うとネクタイに手をかけた。相手の発する負の霊磁気を避けながら場のレイヤーをコントロールする。怒りや恐怖心はそれを食する物に餌を与えてしまう。それゆえに自分の心を静観できる意識の高さが必要なのだ。
「シャワーの水、止めてもいいかな?」
菊千代はシャツのボタンを外しながら聞いた。「ああ」という林の言葉が返って来ると、菊千代は彼らに背を向け、蛇口の水を止めた。ツンとした塩素と汗の混ざり合う匂いが鼻につく。髪をつたう滴が、少年のうなじに幾本ものスジを作り、ワイシャツからツルリと現れた両肩をつたい、流れはその先へと消えてゆく。濡れたシャツが肌に張り付く。もどかしそうに脱ぐ少年の手に、欲望に満ちた眼差しが注がれる。なべシャツの裾に手をかけ、ゆっくりとバンザイをすると、菊千代の半裸が彼らの前に露出した。「うぉっ」という声を背中に聞きながら、ベルトを外しスラックスを下ろすと、興奮しきった彼らの霊磁気が肌に当たり、パチパチ弾けるのがわかった。
「こっちを向けよ神楽、はやく…」
興奮した林の声が背中をせっついた。白い肌の上を玉のような滴がツーと流れる。菊千代は覚悟を決めて彼らと向かい合った。手持ち無沙汰な右腕が自然に胸のあたりを隠す。乳首にはニプレスが貼付けてあるが、その膨らみはもう隠しようがなかった。男達は食い入るように菊千代の裸体を眺めた。
「パンツはこのままでいいかな?水着持って来ていないんだ」
無駄だと思いつつも菊千代は一応そう聞いてみた。
「だめだ、それも取れ」
林の声が間髪を入れずに返って来る。菊千代が女であることを彼は確信しているようだった。菊千代は抵抗をあきらめ、黒のボクサーパンツに手をかけた。やや横向きに体をひねり、前屈みに、脚を上げ、下着を下ろした。左手が自然に下がり陰部を隠す。男達の荒い息づかいが波のように聞こえて来る。
「お、おい、海パンどうするよ?」
「そのへんに落ちてね?忘れた奴」
「つか、女子更衣室で探してくるべき??」
あまりの衝撃に取り巻き達は皆舞い上がっていた。いままで同性だとばかり思っていた生徒が、実は女性であるかもしれないという事実は、取り乱すのに充分な理由だった。
「マールちゃんだ!」
地場登が弾けたように飛び上がり、ハッとして回りを見回した。自分では大声のつもりだったが、回りの生徒に聞こえた様子もなく、実は心の声だと気づいて地場は内心ホッとした。
「マールちゃんだ。間違いない…」
今度は気をつけながら小声でつぶやくと、地場は全裸になった菊千代をまじまじと眺めた。化粧をしていないからいままで気づかなかったが、体のラインは彼女のそれと同じ、いや地場の知っている以前のマールよりもラインは更に柔らかかった。メジャーなモデルではないからよほどのマニアでもなければ気づかないかもしれないが、彼にはピンと来たのだ。彼女の写っている通販カタログの写真はすべてスクラップして保存してある。毎夜彼女をネタに自慰をおこない、夢にまで見ていた自分のアイドルが、なんと同級生だったのだ。しかもいま目の前で全裸になって手の届くところにいる。地場は恍惚とした表情でそれを眺めていた。
「なるほどな、俺の授業を受けたくない理由がこれでわかったよ、神楽」
肩越しに聞こえた男の声に、地場は驚いて振り返った。担任の海老原だった。教師の姿に気づくと、菊千代は緊張の色を顔に現した。とことんコケにされた男の怒りが、すでに頂点に達しているのは、彼から発する霊磁気を見れば明らかだった。
海老原は生徒たちを押しのけるように菊千代に近づくと、全裸に剥かれた教え子を勝ち誇った目で見下した。と同時にその脚線の美しさに目を見張った。
《いい体してやがる…こいつ。なんでいままで気づかなかったんだ》
海老原はサディスティックな興奮に心躍る気がした。むらむらとした欲望が頭をもたげ、いつも感じていたあの感覚が体を支配してゆく。自らを内側から支えてくれている力の源。海老原はその感覚を《やってくる者》と自分で表現していた。教師は手に持っていた紺の布を彼の足元に放って投げた。
「水着?…ってこれ!」
床の上で広がった布を見て生徒の一人が叫んだ。女子用のスクール水着。男達の視線が《?》のままそれに集まり、それから教師に向けられた。
「ふっ、手回しがいいだろ(笑)」
海老原は生徒達にそう言うと、ドヤ顔で笑ってみせた。(神楽が女だって事ぐらいわかっていたさ)教師の顔はそう言いたげだったが、実際はまったくの想定外で、単に罰を与える為の小道具として用意したものだった。
「拾え、神楽…」
海老原の顔が威圧的に菊千代に近づけられた。「いやなら、素っ裸でプールに入ってもらうがな」教師の右顔面がヒクヒクと痙攣する。口臭が人間のそれから獣臭に変わった。
《来る…》
菊千代は教師から弧霊の気配を感じると、思わず身構えた。視線を通じて弧霊の分霊が飛んで来る。彼の視線を外す。弧霊の邪視を見続けるとその分霊に憑依される危険があるからだ。菊千代はスルリと身をかわし、足元の水着に手を伸ばした。
《え…?》
伸ばした手が教師の手で掴まれる。菊千代は教師の顔を見た。空洞の瞳から再び分霊が飛んで来る。視線をそらすと大きな手が少年の首を掴んだ。そのままグイと持ち上げられる。苦しさのあまり菊千代の両の手が教師の腕を掴む。
「えぇ…!」
生徒達が一斉に声を上げた。菊千代の陰部に全員の視線が集まった。
「お、男…?」
取り巻きの一人が半ば混乱した表情で言った。どうみても女性の体、しかしその股間には突起があるのだ。それを男性器と呼ぶにはあまりにも未発達で、男性ならそこにあるはずの睾丸も菊千代には存在しなかったのだ。ツルリとした女性の股間に、幼児のオチンチン…見てはいけない物を見てしまったときの居心地の悪さが、一同の間に広がった。
「お前、ふたなりだったのか…?」
教師は乾いた声でそうつぶやくと、手の力を少し緩め、残った手で菊千代の乳房を掴んだ。少年の体が抵抗を示すと再び首が絞められる。教師の指が胸に張り付いたニプレスを剥がす。女性の乳首がピンと盛り上がると、林たちの「おぉ…」というざわめきが聞こえてきた。そのまま指を下半身に這わせ、男性器を撫で、教師はさらに奥まで指を滑らせた。
「いやあぁぁぁ…!」
菊千代が女のように悲鳴を上げた。教師の挿入を拒むように体をくの字に折り曲げる。負の霊磁気が体中に溢れ出すと、菊千代はシャローナの意識に憑依されてゆくのがわかった。肉体から発せられる色香が加速的に増してゆく。場のレイヤーが幽界のそれにシフトし始める。
《まずい…》
菊千代は希薄な意識の断片に、霊的な足場を探そうと試みた。踏みとどまらなくてはここにいる全員が獣と化してしまう…。すでに弧霊の分霊が憑依し始めたのか、取り巻き達の表情に変化が出始めていた。
「どうしたのぉ〜」
「女生徒の悲鳴が聞こえたみたいだ」
「男子更衣室の方か?」
男女の声が遠くから彼の意識に届いてくる。(人が来る…助けて…誰か…)菊千代は声にならない叫びを彼らに投げかけていた。瞬間、回りの風景がユラリと揺れ、菊千代は別の世界(それはたぶんシャローナの世界)にはじき飛ばされていた。
「いやあぁぁぁ…!」
シャローナが再び悲鳴を上げる。海老原がシャローナの顔を殴る。口の中に血の味が広がり、目の前がくらくらとした。よろけながらも再び少女が逃げようとする。
「かはははは、どうしたシャローナ、早く逃げてみろぉ」
海老原の下品な笑い声が部屋いっぱいに響く。広く暗い空間に二つの足音がひたひたとこだまする。逃げ惑うシャローナはすでにスカートを付けておらず、ボタンの弾けたブラウスからは下着が見え隠れしていた。教師はネズミを弄ぶ猫ように、わざと逃がしてはまた追いつめる、それを繰り返し楽しんでいた。
《ここはどこなんだろう?》
意識の片隅で菊千代は考えた。室内プールの更衣室ではなさそうだった。等間隔に灯された壁のろうそくが目に入る。重いドアを開け、中へ逃げ込もうとするシャローナ。教師の腕がヌウと伸び、華奢な体が抱えられる。彼女のショーツに教師の手がかかった瞬間、菊千代の意識に少女の恐怖が流れ込んで来た。
「いや、お願い先生…やめて!」
シャローナは懇願するように叫びを上げた。が、わずかな願いも叶わず、小さな布は肩に担ぎ上げられると同時にはぎ取られてしまった。そのまま部屋に運ばれ、ほぼ全裸にされた少女が床の上にポンと投げ出される。おびただしいキャンドルの光に照らし出され、シャローナは力なく男を見上げた。
「お前は俺の誘いを拒み、あの男を選んだ!」
海老原の叫びが、広々とした空間にこだました。仰向けになったシャローナの視界に高い丸天井が映る。そこに描かれた薄気味の悪い怪物、聖人たち達のフレスコ画。大きなステンドグラス、そして祭壇。シャローナは辺りを警戒しながら起きあがり、再びよろよろと歩き始めた。
《ここは…礼拝堂?》
菊千代は旧校舎のその印象的な光景を思い出した。
「俺は知っているんだ。あいつのアトリエで裸になったお前をな(笑)」
教師はケタケタと笑い声を上げ、少女から奪ったショーツを頭からかぶった。
「なあ、あいつとやったんだろ?答えてみろ」
教師が奇声を上げ、逃げ惑うシャローナを追いかける。転んだところを捕まえ、体を愛撫し、また逃がす。海老原はそれを何十回と繰り返した。シャローナはすでに体力の限界だった。祭壇の大きな十字架まで逃げ、ペタリとしゃがみ込むと、シャローナは動けなくなってしまった。弛緩した体を教師に抱きかかえられ、祭壇の上に少女が横たえられた。ゼイゼイと肩で息をしたまま動かなくなった少女を、教師は見下ろした。
「片岡よりも気持ちよくしてやるぜ」
教師のその言葉の意味を悟ると、シャローナの目から、大粒の涙が止めどなく流れて来た。無念とも絶望ともいえる感情が、胸いっぱいに広がってゆく。
《輝義、助けて…》
シャローナは心の中で、その名を何度も繰り返し呼び続けていた。
「おい、しっかりしろ君!」
数人の男子が菊千代の顔を覗き込んでいた。ザブンという水しぶきの音。ホイッスルの響き。生徒たちの声が周囲に溢れている。
菊千代はぼんやりとそれらを眺めていたが、ハッとして身を起こし、自分の体を確認した。全裸ではなく水着を着ている。女子のスクール水着…菊千代は自分を取り囲む男子生徒を見ながら、置かれている今の状況を想像してみた。(彼らは水着姿の僕をどう見ているのだろう?)菊千代はそれが気になった。
「プールで泳いでいたのが急に動かなくなったから、どうしたのかと思って近づいたら気絶しとったぞ、君」
上級生らしき男子が菊千代に言った。
「あの…」
「なに?どしたの」
男子たちの体から一斉に霊磁気が発せられた。きれいなオレンジ色。
「い、いえ、ありがとうございました」
菊千代は恥ずかしそうに礼を言った。彼らから発せられる霊気玉に触れてみる。何の違和感もなく彼らは自分を女性として捉えていた。(これをきっかけに付き合えたらいいのに…)とさえ思っているようだ。
《どうやら僕が男子だとは気づいていないらしい…》菊千代はそう感じ取った。
「プールに入ったらあまり無理せんで、時々休憩とらんとな」
別の上級生がやさしく声をかける。すでに主導権争いみたいな空気が生まれていることに、菊千代は少し戸惑った。
「あ、あの、僕の他に誰かいませんでしたか?」
菊千代は《ぼく》と言ってしまったことにハッとしたが、彼らはそれを気にする様子もなく、「いたにはいたなぁ」「なんか水泳部が集まり始めたら彼らどこかへ行ってしまったが…」「あれ、体育の海老原じゃなかった?」などと口々に答えた。
《つまり僕は、意識のない間に追試を受けさせられていたのだろうか…?》
菊千代はそう推理した。言われてみれば体のあちこちが痛い。腕と脚の筋肉が疲労しきっていることに改めて気づく。海老原達にしごかれていたのだろう。
《だとすれば、追試を受けていたのはシャローナ…》
彼女のみせた回想シーンと現実との間に、菊千代は奇妙なシンクロを感じた。
「で、彼らと何してたの?」
最初の上級生が唐突に質問をしてきた。彼らの視線が再び自分に集まる。その視線が脚や胸の方にチラチラと流されることに気づき、菊千代は水着姿でいることに違和感を覚えて来た。早く制服に着替えなきゃ…そう考えた瞬間、嫌な予感が菊千代の胸をよぎった。
「いえ、大した事じゃありません…あの、ご迷惑をかけてしまってすみませんでした。じゃあ私はこれで…」
少し体力が戻ると菊千代は早々に礼を言い、その場を離れる事にした。自分を知る生徒がここに来ないとも限らないからだ。
「え…大丈夫?」
「君、何年生?」
「家まで送ろうか?」など、気遣ってくれる彼らの言葉を背に、何度も頭を下げ、菊千代は更衣室へと急いだ。嫌な予感は的中し、更衣室に戻ると、ずたずたに引き裂かれた制服が目に飛び込んで来た。何か鋭利な刃物のような物…菊千代の脳裏に林の手にしていたバタフライナイフが浮かんだ。
「いじめに遭うってこういうことなんだ…」
菊千代は裂かれた制服を手にすると、みじめさでいっぱいになった。それから水着のまま下駄箱まで行き、靴がなくなっている事に気づいてさらに落ち込んだ。目に涙があふれて来る。
==自分の心を傷つけてはいけないよ…
菊千代は自らに何度もそう言い聞かせた。それはわかっていた。が、涙は止まらなかった。自分の身代わりにしごかれるシャローナの姿が目に浮かぶ。菊千代にはそれが申し訳なく、切ない気持ちでいっぱいになった。