∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_11 恋心
初夏の日差しが木々の葉からこぼれ、キラキラと光っていた。今日も暑くなりそうだ。菊千代は河川敷を歩きながらそう思った。時々吹く河からの風が気持ちよかった。
「体育の授業…サボっちゃったな。これで追試は確定か…」
(午後の授業は必ず出ろよ!神楽)
担任教師の怒り狂った顔が菊千代の脳裏に浮かび、少年は憂鬱になった。(そんなことを言われても水泳の授業なんか出られる訳がない。水着になったら、女だということがばれてしまう。ましてやトップレスなんて…)
「なぜ両親は僕を女子として育ててくれなかったんだろう。その方がどれだけ気が楽だったか…」
菊千代はそうつぶやきながら、いや…と思い直した。本当は男子の方が気は楽なのだ。女はいろいろと面倒なことが多い。生理も面倒だし、化粧もそうだ。モデルで女装するといつも思うのだが、スカートをはくと男性の視線がとても気になってしまう。強い風が吹くと捲れないように押さえなければならないし、緊張感がいつも絶えない。男の方が絶対に気楽だ。
「でも、こればっかりはどうにもならないなぁ…」
菊千代は答えのでない問答をいつものように巡らし、深いため息をついた。朽ちかけた茶色い倉庫が目に入る。片岡のアトリエだ。誘拐された後輩のことが頭に浮かぶ。
河川敷の土の上にはたくさんのタイヤの跡がついていた。家の前にはおびただしい数のクツ跡。きっと刑事たちのものだろう。いまはもう人の気配もなく、あたりはひっそりとしている。強者どもが夢の後…そんな言葉が似合うような気の早い蝉が遠くで鳴いていた。
菊千代はアトリエのドアに手をかけようとし、少しためらった。どうせ中には誰もいない。それもわかっていた。後輩の絵もきっと持ち出されていることだろう。
《僕の絵はどうだろうか…?》
少年の胸にほんの少し好奇心が湧いた。思い切ってドアノブに手を伸ばす。その瞬間、あたりの景色がユラリと一変し、菊千代は驚きのあまり声をあげそうになった。まるで初夏から初秋へとタイムスリップしてしまったかのようだ。
《これは…》
菊千代は魔法か何かにかかったようにその場に立ち尽くし、目の前に流れる映像を見せられていた。もちろんシャローナの憑依だということはすぐにわかった。彼女の回想イメージ。彼女も同じように教師のアトリエの前に立っていた。
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《彼、どんな顔をするだろう》
シャローナはアトリエのドアに手を掛けると、教師の表情を想像した。きっとタバコをくわえているに違いない。そう思った。キイと音を立てて、重い鉄の戸を開く。ムッとする部屋の空気が体を包む。油絵の具の匂い。ついこの間のことなのに、とても懐かしい。
「先生、ただいま!」
弾む声が倉庫のような空間に広がる。共鳴する声の響きが自分の耳に返って来る。そして…静寂。近くの木々にツクツクボウシの鳴き声だけが物悲しく聞こえている。語るような泣き声がシャローナの心を映しているようにも思えた。
《よお、神楽、いつ帰った…》
そんな彼の暖かな声が聞きたかったのに…。シャローナは肩を落とし、ドアにもたれ掛かった。
多忙なモデルの日々。それが教師との時間を奪っていた。夏休みに入れば毎日のように教師に会える。そんな淡い期待も崩れ去り、雑誌の撮影、ポスター、様々なオーディション廻り。母の立てた殺人的なスケジュールに追われ、スケジュールに三日間ほど穴が空いた頃には夏も終わりを告げようとしていた。母は今出張で留守にしていた。
この三日間は自分だけの時間なのだ。シャローナは神様の与えてくれた時間に感謝した。
《先生とふたりだけで過ごす時間…》
少女は顔を少し紅潮させ、ゆっくりと部屋を歩き出した。カツンカツンとサンダルを響かせ、アトリエの中を(ひょっとしたら、物陰に隠れているかも知れない)そんなバカな期待を抱きつつ、かがみ込んで、イーゼルが立ち並ぶその脚の透き間に彼を探す。
扇状に立て掛けられたカンバスの壁。何枚ものカンバスが、皆、内側を向いて小さな部屋を作っている。
《もう出来たのかしら、わたしの絵》
彼女は絵に興味をそそられた。今までのブルーな気分が好奇心と入れ替わり、少女はカンバスとカンバスの間から、中を覗き込んだ。長い髪が頬を撫でる。絵の中に描かれたもう一人の自分がシャローナを見下ろす。無言のままその間をすり抜け、絵と向き合う。二歩さがり、そしてもう一歩さがる。シャローナの瞳が驚きに輝いてゆく。
扇状に囲まれた小さな美術館。彼女はちょうど中心に置かれたディレクターズチェアに腰掛け(きっと彼もここに座って眺めたはず…)自分の絵を眺めた。自分自身の様々な表情。今にも動き出しそうな少女達から彼の優しい思いが伝わってくるようだった。
=カチャリ…
ドアノブを回す音。その後に、キイという音が聞こえた。
《彼だわ!》
シャローナはサンダルを脱ぎ、カンバスに駆け寄った。息を止め、顔をそっと覗かせる。彼が…紙袋を抱えた教師がそこに立っている。胸の奥から熱いものが込み上げて来る。
照義は立ち止まり、カンバスに揺れる美しいブラウンヘアを見つめた
《絵から少女が抜け出て来た…?》
そんな錯覚に、二度三度瞬きをし、少女と目と目を見つめ合わせる。込み上げる嬉しさに笑みが零れる。
「よお、神楽…いつ帰った」
教師は嬉しそうに言った。シャローナも笑顔を見せようとした。が、その声を聞いた瞬間、笑みは泣き顔に変わり、体は彼の胸に飛び込んでいた。彼がいる、本物の彼が!タバコの匂いが染み込んだシャツ、暖かくて広い胸。
照義は、彼女の背中にそっと手を回した。ワンピース越しに少女の華奢な骨格が、手のひらに伝わってくる。ブラウンの髪。サラサラとした絹のような感触。シャンプーの香りがほのかに漂う。
《いとおしい、力いっぱい抱き締めたい、私はお前が…》
《いけない…》
頭の片隅で制止する声。
《いけない、私はこの子の教師なのだ》
感情とは裏腹な理性の声。もう一度、自分に言い聞かせ、両腕の力を緩める。そして教師は生徒に言った。
「どうした神楽、泣いたりして、おかしな奴だな(おかしくなんかない。自分に素直なだけだ…)」
シャローナは教師を見上げ、彼の目を覗き込み、涙を拭いてから、笑顔を見せた。
「そうだよね、泣いたりなんかして。先生の声聞いたら急に懐かしくなっちゃって、エヘヘ…シャツ濡らしちゃったね」
シャローナは一歩下がり、手を後ろに組んだ。それから床に屈み、彼の落とした紙袋を手に持った。
「先生、何買って来たの」
「ああ、それか。駅前で、ちょっと見かけてな。神楽に似合うんじゃないかと…」
教師は照れたように頭を掻いた。それは遠目には白く見えるほど、淡い青地に紫と紺のあやめをデザインした浴衣だった。それから紅色の帯。
「これ、私に…」
「手伝ってくれただろ、絵のモデル。そのお礼にな…いや、そんなに高いもんじゃないんだ」
「ありがとう先生。うれしい。ここで着てもいいですか?」
「ああ、構わんが…」
教師は、部屋の中を見回した。個室になっているのは、風呂場とトイレだけだった。
「じゃあ、そっちの…」
「ううん、ここでいい」
シャローナはカンバスで仕切られた扇状の小部屋に飛び込み、ライトグリーンのワンピースを肩から脱いだ。イーゼルの透き間から、少女のスラリとした脚が太ももまで覗く。教師は目のやり場に困り、背を向け、セブンスターをくわえた。
「先生の絵、見せてもらいました」シャローナの弾む声が、カンバス越しに聞こえた。
「そうか」
教師はそう言い、少し間を置くと「で、どうだった?」とためらいがちに聞いた。
「あのねぇ…うふふ」
「…何だ、正直に言ってもいいんだぞ」
「先生、よく見てるなって、私のこと…」
腰紐を巻く手が止まり、少女は、目の前の絵をしばし見入った。
「先生、ありがとう」
「そうか」
少女のその言葉がすべてを語っていた。教師はタバコに火を点け、うまそうに吸った。
「先生、どうかしら」
シャローナの声に、教師が振り向く。ブラウンの髪をアップに束ね、かんざしの替わりに絵筆を髪にさしている。
教師は言葉を失った。フランス人の血が混ざっていても彼女なら似合う、照義はそう思っていた。そして、浴衣を着た彼女は紛れもなく日本人だった。母親の血がシャローナにそれを教えているのだ。
「似合う?」
生徒はクルリと一回りし、ポーズをとって見せた。それから目をつぶり、リズムを取るように、クルクルと回ったり、ユラユラと揺れたりしながら浴衣の感触を味わっていた。
「ああ、似合うよ。とっても…」
教師はしばらく少女を見つめてから言った。が、次の瞬間。彼の表情が、教師から画家のそれに変わってゆくのが、シャローナにははっきりと分かった。
「神楽、描いてもいいか」
少しためらった後、教師が言った。
シャローナはそれには答えず、うふふと笑って見せた。彼女には彼がそう言い出すこと分かっていたし、実際その通りになった事がおかしかった。教師は彼女の返事を待たずに新しいカンバスをイーゼルに乗せた。
「ソファー、いや、テーブルの上に座ってくれ…そう。右手を着いて、顔は少し斜めに…」
教師が手短に指示を出す。絵を描くときの彼は子供のようだった。真剣で、情熱的で、少しも照れたりしない。この勇敢さが普段の彼にもあったなら…シャローナはそう思った。
生徒は、言われるままに「はい」と答え、木製の低いテーブルに腰掛け、脚を組んだ。浴衣の裾がはだけ、少女の左足が露になる。少女はそれを直さず、少し大胆に、ポーズを取った。たぶん彼女自身、その性の魔力気づかずに…。
突如、少女の中に沸き起こったもう一つの顔に、照義の視線が一瞬止まった。まだ見せたことのないシャローナの新たな顔。甘い香りで蜜蜂を誘う花のような視線。きっと少女の生まれるずっと以前から、女たちに受け継がれて来た何かに、教師は今、遭遇していた。包み込むような甘美な糸が、照義の全身に、そして本能に絡み付く。教師は戸惑い、少女から目を逸らし、カンバスを見つめた。
《闘いになるな…》
教師はそう直感した。教育者としてのモラルを言っているのではない。そんな社会の決め事は他の教師が守ればいい。そんなものは糞喰らえだ!
《そうじゃない…これは画家として、本能と、芸術との闘いなんだ》
画家はモデルの中から、アフロディーテを呼び覚まし、モデルは画家の中にヒメロスを呼び起こす。その欲望に目覚めていなければ、作品は単なる卑猥な絵へと堕落してしまう。ならば受けて立つしかない。照義はそう思った。
「神楽、帯を取ってくれ」
教師は決意を固め、そう言い、生徒の反応を待った。シャローナは目を閉じ、深い呼吸を一つした。再び目を開き、そして教師を見上げた。
「はい」
赤い唇が、はっきりとそう動いた。
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菊千代は夢から覚めるように辺りを見回した。教師のアトリエだった。彼女のいたテーブルの上に腰掛け、彼女と同じポーズを取っている。まるでシャローナの記憶をトレースするように…。菊千代は自覚のない行動に深い溜め息をついた。
「また浮き舟を取られたか…」
回想が途切れると同時に辺りの映像は消え、すっかり暗くなった部屋が突然目の前に現れる。窓からは月灯りが漏れていた。
「シャローナ、こんなに幸せだったのになぜ…」
菊千代は月光を眺めつつ、シャローナを死に至らしめた原因に思いを馳せた。同級生からいじめられていた事は前に見たビジョンで知っていた。だが片岡という心の支えがある状態で、いじめを苦に自殺するとは思えない。原因は他にあるはずだ。痴情のもつれだと言う人もいるが、このビジョンをみる限りそんなことは考えられない。
《もしあるとすれば…》
=カチャリ…
ドアノブを回す音。その後に、キイという音が聞こえ、菊千代はハッとして身を固くした。
「誰かいるのか?」
声の主が言った。警戒しているようだったが、声には暖かみが感じられた。画家が戻ったのだ。
「先生、あの、私…です」
思わず《僕》と言いそうになりながら、菊千代は言葉を呑み込んだ。
「おお、マール、来ていたのか…どうした灯りもつけずに」
片岡は嬉しそうにそう言うと、部屋の灯りをつけようと電灯に近づいた。
「先生、つけないで!」
菊千代があわてて言った。教師は手を止め、月の光を切り抜いたそのシルエットをみつめた。少女は以前よりも女性らしくなっているように思えた。
「月灯りがきれいだから…部屋はこのままで」
菊千代は女装も化粧もしていない自分の素顔を見られるのをためらった。素顔を見せてもたぶん彼は女として扱うだろう。けれど男子生徒の制服を着ている自分をどう説明していいものか分らなかった。
「聞きました、誘拐事件の事。先生…大変でしたね」
話題をそらすように菊千代は言った。
「知っていたのか。まったく訳がわからんよ。これで何人目の犠牲者が出たんだ。しかも全員絵のモデルになってくれた生徒たちばかりだ」
片岡はそう言うと、ライターをカチカチやり、タバコに火をつけた。独特な香りが菊千代の元まで漂って来る。
「そのたびに俺は重要参考人にされて、刑事に根掘り葉掘り尋問されなきゃならん。俺に恨みを持った奴の仕業なのかと疑いたくなる…」
教師の声は怒りに満ちていた。それは重要参考人にされたことに対してではなく、こうも卑劣な犯行を繰り返す犯人に対してだった。その怒りと生徒達への思いは、彼の吸っている煙草の煙に乗って菊千代に届いていた。
「片岡…輝義…」
教師の名前が口から出た時、菊千代は彼女がすでに来ている予感がしていた。体から力が抜けてゆく。かといって倒れてしまうわけでもなく、シルエットになった体がユラユラと影絵のように揺れている。菊千代は意識の片隅に追いやられ、わずかながらの五感に意識を集中させていた。
片岡はその姿に釘付けになった。画家の感性が菊千代の心の変化を捕らえていたのだろう。くわえていたタバコを灰皿でもみ消すと構図を頭に思い描いた。
少女はリズムを取るように、クルクルと回ったり、ユラユラと揺れたりしながら、教師の傍らに近づいた。そしてその手を前にのばすと片岡の髪に触れ、そっと前髪をかきあげた。
「シャローナ…」
教師は無意識にそうつぶやいていた。河川敷で再会したときからすでに、魂の領域では彼女の存在に気づいていたのだ。
「すまん。つい昔の生徒を思い出して…」
教師の理性が魂を追いやろうとする。が、その言葉が言い終わる前に少女の唇がその口を塞いでいた。静寂が部屋に訪れる。教師はもう何も考えずに少女を抱きしめた。少女の華奢な骨格が教師の巨体に伝わって来る。強く抱きしめたら折れてしまいそうで、教師はさらにそっと抱きしめた。
教師の中に過去の時間が流れ出していた。シャローナと別れた最後の夜の…。
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「神楽、帯を取ってくれ」
教師は決意を固め、そう言い、生徒の反応を待った。シャローナは目を閉じ、深い呼吸を一つした。再び目を開き、そして教師を見上げた。
「はい」
赤い唇が、はっきりと、そう動いた。
少女はテーブルから立ち上がり、前を向いたまま、浴衣の帯をほどいた。襟元が、スルリと肩を滑り、ショールのように両腕で止まる。白い乳房が露になる。少女は顔色を変えず、再び同じポーズを取った。
教師は軽い衝撃を感じ、そして自らの内に、精神を集中させた。少女の股間に生えそろった毛。シャローナは下着を付けていなかった。最初から教師に挑んでいたのだ。彼女なりの決意で、密やかに、女の愛を懸けた挑戦を…。束縛を好まぬ青き舟、それをつなぎ止めようとする赤き港。それは二つのことなった価値観を賭けて一つの行為へと誘う挑戦と言えた。
画家はカンバスに木炭を走らせた。内側から沸き起こる竜のごとき野生。彼女の輪郭を描くたびに、熱い何かが、教師に襲い掛かる。それを振り払い、また線を引く。
=シャッ、シャッ、シャッ
音を立てて、カンバスを走る木炭。シャローナは、その音を聞くたびに、全身を、彼になぞられている気がした。下腹部のあたりが熱い。素肌に感じる、教師の鋭い視線。いつもの優しさは微塵もなく、格闘する男の眼差し。
《ああ、こんな感覚、初めて…》
撮影中、ファインダー越しに体中を覗かれても、こんな風に感じたことは一度もなかった。シャローナは駆け抜ける性衝動に耐えきれず、思わずその視線をそらした。満月の丸い光が彼女の目に映る。
「お月様が…きれい」
漏れるような言葉がシャローナの口をつく。彼女の言葉に輝義は筆を止め、窓の方を見た。夜のとばりがアトリエを包み、小さな照明だけが部屋を照らしている。
「ああ、もうこんな時間だったか…」
教師は絵を中断し、ドリップに熱い湯を注ぎ始めた。シャローナは浴衣の合わせを閉じると軽く腰紐を締めた。窓際まで歩き、大きく伸びをする。体のあちこちが痛かった。
「あのな…神楽」《今晩、泊まれないか…》
照義はそう言いかけ、その言葉を飲み込んだ。
「…もう遅いから、家まで送くろう(私はこの子の教師なのだ…)」
教師はともすれば動かされそうになる衝動を理性の力で押さえつけた。シャローナは、教師を振り返った。いつもならここで「はい」と答えるはずだった。
「いいんです。今日は泊まっていっても…」
《えっ…》
教師は自分の耳を疑った。シャローナ自身も自分の口から出た言葉に驚いていた。いつもとは違う生徒の返事に、片岡は次の言葉を失い、入れたてのコーヒーのその湯気を見つめた。長い沈黙が続いた。
「いや、だめだ。神楽…帰りなさい」
教師は首を横に振った。それは自らの迷いを振り払う行為でもあった。ここで彼女を引き止めたらきっと間違いが起きる。その予感があった。
「でも…」
シャローナは何かを言いかけ、うつむいたまま「はい…」と返事をした。目には涙が溜まっていたが、教師に背を向けその顔を隠した。
「えへへ、そうだよね。教師と生徒が同じ屋根の下で一夜を共にしたら噂になるものね」
シャローナのわざと明るく振る舞うその姿が、教師にはとても健気に思えた。彼女の気持ちは痛いほど分っていたが、輝義にはそれ以上何も言えなかった。少女はカンバスの陰で浴衣を脱ぐと、ライトグリーンのワンピースを手に取った。
「じゃあ、またね。先生」
着替え終わった生徒は元気にそういうと、ドアを開け、振り向こうと一瞬立ち止まった。が、少しためらったあと振り向かずにドアを閉めた。「送って行くから…」と言いかけた教師の言葉は、閉まるドアの音にかき消され、少女には届かなかった。そして、それがシャローナにかけた最後の言葉となった。
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「シャローナ、君を引き止められなかった…臆病な俺を許してくれ」
教師は目に涙をためながら、少女につぶやいた。教師の太い腕がシャローナの、いや菊千代の華奢な体を強く抱きしめた。その体からドクドクという心音が教師の胸に響いて来る。次第にそれが早くなる。ハァハァと荒い息を繰り返している。
「先生、痛い…」
菊千代の中性的な声が教師の耳元に届いた。
「す、すまんマール」
教師は慌てたように腕の力を緩めて言った。いとしさのあまりつい力が入ってしまった。片岡は自分の馬鹿力のせいで、大切な人を傷つけてしまうことを極端に恐れている様子だった。
「いいんです、先生。私の方こそバカなことしちゃって…」
菊千代は顔を赤らめて言った。教師に口づけを迫ったのは自分の方なのだ。憑依を受けていたとはいえ、同性と交わした初めてのキス。その事実に菊千代は混乱していた。もちろんシャローナからの憑依はすでに解けている。にもかかわらず、いまだに冷めあらぬこの興奮は一体なんなのだろう?タバコ嫌いな自分が、体に刷り込まれたこの匂いを甘美な物として受け止めている。菊千代はそのギャップに戸惑った。
「いや、俺のほうこそ年甲斐も無く…」
教師も動揺していた。目の前にいる少女の心。その内面の変化に戸惑っていた。数分間の幻のようなビジョンに魅せられ、明らかに彼女だと、たった今まで確信していたはずなのに…。そのシャローナが突如として消え、マールに戻ってしまった。それはまるで魔法が解けてしまったとしか言いようのない感覚だった。
「私…そろそろ帰らなきゃ」
菊千代は教師を見上げて言った。ほんの一瞬、見つめ合う。目を伏せスクールバックを肩にかける。互いの体からオーラの糸が伸びて再び絡み合う(後ろ髪を引かれる思い?)そんな感覚が襲う。
「待ってくれマール…」
ドアに手をかけた菊千代の肩を、教師は再び掴んだ。菊千代が教師を見上げる。熱いまなざしが交差する。それが自分の意志であるのか、シャローナのものなのか菊千代には判別できなかった。
「またお前をカンバスに描きたいのだが…」
教師の、真剣で、子供のようなまなざしが、とても可愛いらしく感じられた。
「私でよかったらいつでも…」
菊千代は後ろ手にポーズを取り、ニコリと微笑んだ。
「じゃあ、またね。先生」
軽い気持ちで言ったその一言に、片岡の表情がこわばった。
「家まで送らせてくれ、マール」
「え、大丈夫ですよ。先生…」
「いや、送る。断じて送る。これ以上誰も失うわけにはいかん!」
片岡の強い言葉が部屋に響く。その理由は菊千代にもすぐに分った。菊千代はこくりと頷き、教師と共にドアを出た。そして、満月に少し足りない月を見上げると、少しばかり重い空気を胸に吸い込んだ。