∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_10 いじめの導火線
初夏の日差しとは裏腹に、校内の風景は鉛色に重く、淀んで見えていた。それは単に菊千代の心が沈んでいるという理由ばかりではなく、この学園を包んでいるレイヤーそのものが異変をきたしているかのように思えた。
生徒達の表情は皆一様に刺々しく、理由のわからない苛立ちに満ちている。それはこの学園を影で支配している何者かが、彼らの生命力を今まで以上に吸い上げているという証拠でもあった。霊磁気の枯渇した浮き舟たちが、その搾取に対して無意識レベルで憤りを感じている。菊千代にはそう思えた。
「おい、お前ら。今日からこいつのことを《ばい菌》と呼ぶ。もしこいつと接触したら、ばい菌感染としてそいつもばい菌になるから憶えておけ」
教室全体に響く大声で、生徒の一人が怒鳴るように言った。林流源である。ばい菌と呼ばれているのは地場登だった。違うクラスの男子が数人、いつものように林を取り囲んでいる。それはいつも見ている光景だった。だがクラスにはいつになく緊張感が漂っていた。
それ以前にもいじめは存在し、クラスの皆はそれを知っていた。今まではそれが陰で行われていたために、意識の上では“いじめは存在していないもの”だったのだ。
だが、林たちのグループはいじめの現実をクラスに露呈させ始めた。それをあえて意識させるということの意味はなんだろう?多くの生徒は林の投げかけた言葉の真意を探っていた。
考えられる理由は二つある。ひとつは多人数によるより大掛かりないじめ。もうひとつは複数のターゲット獲得、つまりは生け贄を増やすという意味だ。どちらにしても集団でのいじめはより多くの憎悪と嘆きの霊磁気が生まれ、それを必要とする何者かにとっては好都合であるはずだ。菊千代はそう思った。
それは良心を試されていると言ってもよかった。地場をばい菌と呼んで仲間はずれにするか、彼を助けて仲間はずれにされるか、そのいずれかの選択を迫られているのだ。
《言われなくたって地場に触る訳ないでしょ…》
《いやなら嫌だとはっきり言えばいいんだ。あいつマゾなんじゃね…》
《ばい菌扱いされて、いじめの対象になったら嫌だわ…》
《いじめられるくらいならいじめる側に回った方がいいかも…》
生徒の様々な思惑が彼らから発散される霊気玉から伝わって来た。
「や、やめてくれよ…」
地場の悲痛な声がクラスに響いた。数人の男子が手に黒板消しを持ち、地場の頭をポンポンと叩いている。チョークの粉で真っ白になった地場は、机にうつ伏せになりそれに耐えていた。
「ばい菌を消毒してやってんだから、ありがたく思えよ」
手にしたバタフライナイフを弄びながら、林流源が教室を見渡した。見回しながらクラスメイトの反応をみる。皆一様に視線を避け、見ぬ振りをしている。かかわり合いになって、その矢面が自分に向くのを恐れているのだ。彼はそれを見て楽しんでいた。彼らの良心を弄び、その偽善の仮面を剥ぐことに快感を得ているのだ。
「何するの、やめてよ!」
その場の均衡を破ったのは菊千代だった。いや、正確に言うなら菊千代の声帯を使ったシャローナだった。周囲の生徒がその女性的な声に驚き、彼を見た。が、もっとも驚いたのは菊千代本人だったに違いない。シャローナに声を奪われた事ではなく、目の前に展開している幻影に対してである。
菊千代は数名の女子に囲まれ、黒板消しで体中を叩かれていた。むせ返るようなチョークの粉の匂いと叩かれる感触がリアルに再現されてゆく。
実際、林達のいじめに対してシャローナが叫んだ訳ではなかった。地場に対するいじめが起爆剤となり、別レイヤーに記憶されていた彼女の記憶を誘発してしまったのだ。それはシャローナがかつて受けていたいじめの記憶だった。
《まいったな…これは》
菊千代は困惑しながらそう思った。このタイミングで叫んでしまったら、どうみても林達に喧嘩を売った事になる。菊千代は林の方を見た。林流源は一瞬驚いたように目をぱちぱちとさせていたが、その口元がニヤリと横に広がり薄笑いを浮かべた。獲物を捕捉した獣の顔である。
「よく聞こえなかったな、神楽。もう一度言ってくれよ」
林流源がユラリと近づきながら、ドスを効かせた声で言った。取り巻きグループも叩くのをやめ、菊千代の回りに集まって来る。地場とクラス全員がその成り行きに固唾を飲んで見守っていた。
「地場君をいじめるのはやめなよ、ってことかな…」
菊千代は覚悟を決めてそう言った。いや、そう言うしかなかった。それにいじめに対しては前々から気になっていた事でもあった。ここで白黒つけるのも悪くはない。菊千代はそう思った。
「つまり、神楽はばい菌感染ってことになるよな(笑)」
取り巻きの一人が言った。
「今日からお前もばい菌の仲間入りだな」
「良かったな地場、仲間ができて(笑)」
菊千代を挑発するように別の男子が言った。菊千代は挑発の言葉を霊的に避けようとしたが、それは無駄に終わった。シャローナの発する負の霊磁気が彼らの言葉を引きつけてしまうからだ。いつもならば先祖霊の加護が結界となってくれるのだが、シャローナの波動が低すぎて先祖が近寄れないのだ。
「あんたたち、バカじゃないの?このクラスのばい菌はあんたたちじゃない!」
「なんだとこのヤロー!」
シャローナの言葉に男子の一人が大声を上げた。別の男子が菊千代の髪の毛を掴み、引っ張り上げる。菊千代は数名の男子に羽交い締めにされ、身動きが取れなくなった。 林流源は美少年の苦しむ姿を眺めて悦に入っていた。その体からはダークイエローの霊気玉が沸々と浮き上がっている。
「神楽って間近で見ると女っぽいよなぁ。体つきとかもさ…」
林の言葉に菊千代は思わず身を固くした。その霊気玉の色から流源は性的に興奮をしているのがわかった。林は片方の手で菊千代のあごを持ち、顔を近づけた。蛇のような視線が菊千代の胸の辺りに注がれる。
菊千代には現実の出来事とシャローナの映像とがごっちゃになり、どこまでが現実であるのかが分らなくなっていた。シャローナはクラスの女子にブラウスを脱がされ、胸をわし掴みにされていた。その痛みが菊千代にも伝わってきた。
「お前本当に男なのか?もしかして女だったりしてな(笑)」
林流源はそう言うと、菊千代のシャツのボタンにナイフを差し入れた。
==ブツリ
鈍い音と共にボタンが弾け飛ぶ。女生徒の《きゃあ…》という声があちらこちらから聞こえ、クラス全体がざわめき立つ。林の手から霊気玉が菊千代に流れ込み、彼の思念が伝わって来る。
(こいつ見れば見るほど女に見えて来るな…)(男にしておくのはもったいないぜ)(裸にしてみたら案外女だったりしてな…)(こいつを裸にしたら腐女子どもが大喜びだぜ)
矢継ぎ早に流れ込む林の思念に、菊千代は恐ろしくなった。地獄霊特有のサディステックな思念が菊千代の霊体に突き刺さり、それだけでも痛いほどだった。
《まずい…裸にされたら僕が両性だということがばれてしまう》
なべシャツを着てごまかしているが、それを脱がされたら乳房が露呈してしまう。それはなんとしても避けなければ…。菊千代はもがきながら、男子グループから逃れようと抵抗してみた。が、腕力の強い彼らに購うことは不可能だった。
林はクラスの前で菊千代を裸にむきたいという衝動にかられていた。女子生徒のアイドルを目の前で辱める事ができる。その快感に酔いしれていた。女子の多くが「やめなさいよ」と言いつつも、好奇心に満ちた目をしていることに林は気づいていた。やはり美少年の裸には興味があるのだ。
「触らないでよ、このゴキブリ!」
菊千代を完全に乗っ取ると、シャローナが林を睨みつけた。次の瞬間、菊千代の頬に赤い手形がくっきりと張り付いた。林が頬をビンタで殴りつけたのだ。菊千代は目の前に火花が散ったように感じた。
その光景はまるで、学園の背後にいる何者かが、林達のグループを操り、菊千代を底なしの地獄に引きずり込もうとしているようでもあった。この教室の別レイヤーは明らかに異次元に繋がりつつあった。
「コラ!何をしとるんだ。お前達」
勢いよく開いた扉の音にクラスの視線が集中した。続いて、聞き慣れた声が教室いっぱいに響き渡る。担任教師の海老原が林と菊千代を睨みつけた。
「ちっ…」
林は残念そうに舌打ちをし、教師の方を見た。続いて仲間に目で合図をした。少年グループは菊千代から手を離し、何事も無かったようにその場から退散した。林流源は菊千代を一瞥すると、憎々し気に睨み教室から出て行った。
「神楽…ちょっと職員室まで来い。警察がお前に用があるそうだ」
海老原は《警察》という言葉をわざと強調して言った。生徒たちのザワという声がさざ波のようにクラスに広がってゆく。こういう些細な言動が青少年の心をどれだけ傷つけるかとか…この体育教師には、配慮というものをまるで持ち合わせていなかった。(むしろ)あからさまな敵意を菊千代に対して持っていた。
(こいつは俺に恥をかかせやがった)(俺の目の前で静香にキスをしやがった)(みんなの前で、闇小路静香の前で)(俺をなぐった)(ちくしょう…ちくしょう)(許さない、決して許さないぞ)
「はい…」
菊千代は疲れたように身を起こし、担任教師を一瞥した。霊力はかなり落ちていたが、海老原から発せられる怒りの霊気玉と内容は、その霊眼にもはっきりと映っていた。
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「え…末永サチが行方不明に?」
刑事から説明を聞き、菊千代は驚きの表情を見せた。
「昨日の夕刻、A河の河川敷で君と末永サチを見かけたと言う情報を得ているのだけれどね…」
若い刑事は手帳を覗き込みながらそう言うと、額にかいた汗をハンカチで拭った。取り調べに使われた視聴覚教室の窓は閉め切られていた。むっとするような淀んだ空気と教室の独特な匂いが部屋全体に満ちている。
「神楽、包み隠さず正直に答えるんだぞ」
菊千代の背後で腕組みをしていた海老原が威圧的に口を挟んだ。若い刑事は担任教師を制するように手をすこし上げ、それから菊千代に尋ねた。
「その時、誰か他にいなかったかな?」
「他、と言いますと…」
菊千代は刑事の質問の意図に気づき、ハッとして目をそらした。画家の片岡が末永サチといっしょにいる姿が頭に浮かんだ。
「いえ、僕はなにも…」
「嘘をつけ!」
菊千代の言葉をかき消すように、海老原が怒鳴り声を上げた。
「俺はちゃんと見たんだ。お前と末永、そしてあいつがいっしょにいるところをな!」
担任教師は怒りに震える声で、そう言い放った。その怒りは菊千代に対してというよりも《あいつ》と呼ばれた者を強く意識していた。元サリティアの美術教師、片岡照義である。
「海老原先生…」
刑事は興奮する担任教師を菊千代から遮りながら、落胆した様子を見せた。せっかくの貴重な証言も、脅迫して得たのでは証拠としての価値が無いではないか。若い刑事はこの担任教師の無能さに溜め息をつくと共に、生徒に対しての同情心のようなものを覚えた。
「まあ、そういうことなんだけど…別の刑事が片岡照義の自宅を捜査しています。末永サチの肖像画らしき絵もあったようで、重要参考人になることは間違いないでしょう」
若い刑事は短くそう言うと「また何か思い出したら知らせて下さい」そう付け加え、視聴覚教室を出て行った。重い空気に耐えかねて、菊千代もその部屋から出ようと席を立った。が、担任教師はその前を遮り、菊千代の肩を掴んだ。
「待てよ…話はまだ終わっていない」
絞り出すような声が教師の口から漏れた。海老原の様子が先ほどまでと違う事に、菊千代はその口調から察することができた。教師は顔に薄笑いを浮かべ、ときおり右顔面をヒクヒクと痙攣させている。そして獣臭が男の体から漂って来た時、菊千代はハッと身を固くした。
==憑依
菊千代の霊眼に海老原と重なった弧霊の姿が、ふいに浮かび上がった。弧霊というのは狐の霊を差すのではない。精霊が狐の形状を模して存在しているもの、それが弧霊なのだ。狐憑きと言われる現象の多くは、弧霊の憑依が原因だと言われている。
「なんでしょう?海老原・先・生…」
菊千代は冷静を装い、担任教師にそう問いかけた。あえて“先生”と区切って呼ぶ事で教師である事を意識させ、憑依者からの呪縛を弱めさせる意図もあった。教師はハッとしたように気づき、掴んでいた菊千代の肩から手を離した。が、菊千代の顔をジッと睨みつけると再びその顔面がヒクヒクと痙攣し始めた。一つの浮き舟の中で、彼らは互いにその主導権を握ろうとしているかに見えた。
「シャローナ…」
海老原の口からうわ言のように言葉が漏れた。それは教師であるのか、憑依者であるのか分らなかった。が、そいつは自分の中にシャローナの存在を意識しているに違いない。菊千代はそう思った。
「僕はシャローナではありませんよ、先生…」
菊千代はやや焦りを感じながらそう言った。早くこの場をやり過ごさなければならないとも思った。教師の言葉が呼び水になりそうな気がしていたからだ。内側から膨らむような強い感情が湧き起こってくる。
《シャローナ…起きてはだめだよ》
菊千代は心でそう語りかけた。ここで彼女が出て来てしまったら、ますますややこしいことになってしまう。しかし、それを制御することは今の菊千代には困難だった。体に広がる感情はとても強く、そして怒りに満ちていたからだ。
「海老原信二…」
菊千代の声帯を使い、シャローナが教師のフルネームを口にした。海老原の両の目が飛び出るほどに大きく見開かれた。目の前にいる男子生徒の口調の変化に、その表情は戸惑いを見せていた。
「未熟な桃を盗み、刃を立てて切り裂く、が、汝その実を味わう事なかれ…」
こみ上げる怒りの感情。菊千代はそれを押さえながら、自らの口が語る意味不明な言葉を聞いていた。シャローナはなぜ、こんなにも海老原を憎んでいるのだろう。彼女と海老原との間に何があったのだろう。菊千代は憑依に身を任せたまま男を睨みつけていた。海老原は一瞬怯えたように目をそらしたが、頭を大きく振って再び菊千代を睨みつけた。
「なんだ、その反抗的な目は!訳の分らんことを言って、誤摩化そうとしたってそうはいかんぞ、神楽」
先ほどまでの弧霊の気配が、不意に教師から消えた。海老原はいつもの口調で生徒を怒鳴り散らした。たぶん自分が憑依されていた事にさえ気づいていないのだろう。弧霊は男の呪縛を解き、精神の海に身を隠した後だった。
「すみません…」
菊千代は教師に謝りながら、自らもシャローナの憑依が解けている事に気づいた。反抗される事を期待していた教師は、半ば肩すかしを食らったように少年を見た。
「だ、だいたいだな…なぜ俺がこんなに怒っているのか、お前に分っているのか!」
海老原はいらいらとしながら怒鳴り散らした。声を荒気ながら、何故自分はこうもこの生徒に対してムカついているのかを考えていた。そう口にしてしまったからには何か正当な理由を示さなくてはならない。
(自分の前で闇小路静香とキスをしたからか?)
(みんなの見ている前で平手打ちをされたからか?)
教師は怒りの本質を見ていなかった。それは菊千代に対する恐れであることに。怒る事で恐れを隠そうとしていることに。とにかく怒り続けなければならなかったのだ。それがどんな理由であろうとかまわなかった。
《そうだ、それで頭に来ているんだ!ちくしょう、殴られたんだ生徒に…本来なら退学ものだろうが。ちくしょう…ちくしょう》
教師の腕がわなわなと震えだしていた。その震えを止めようと握りこぶしを作り、もう片方の手でそれを押さえていた。
「先生、どうかなされましたか?」
蒼い顔をして自問する教師に菊千代が声をかけた。その感情は霊気玉の色を見ればおおよそ見当がついた。恐れと怒りが彼の体から交互に湧き上がっていた。
「お、お前…俺の授業をよくさぼるだろう!」
「え…」
菊千代は意外な方向からの攻めに少し口ごもった。
「水泳の授業なんか一度も受けていない!一度もだ。お前、俺を舐めているのか!」
菊千代のたじろぎ方を見て教師は勢いづいた。恥をかかされたから怒っている…それでは教師としての体面が保てないのだ。
《ここはこいつの弱いところを突くのが賢いやり方だ。ほらみろ、困ったような顔をしているぜ》
海老原はいたぶるような眼差しで少年を睨みつけた。体は更に震えだし、それを隠すために大袈裟な身振りで机をダンと叩きつけた。
「午後の授業は必ず出ろよ。今度さぼったら、個人的に追試させるからな。わかったな、神楽!」
(誰もいないプールで泣くまで泳がせてやる…そうだ泣くまでだ!)
教師はほくそ笑むように何度もその姿を頭の中に描いてみた。菊千代は教師に向かってコクリと頷いた。
海老原は、その様子に満足するようにそそくさと扉の方に向かって行った。本当はもっと怒鳴り散らして生徒をいたぶりたかった。が、体中の震えが更にひどくなってきてしまい、それは断念せざるおえなかった。
(怒りに体が震えている?そうだ。これが武者震いと言う奴だ。そうに違いない)
海老原はそう自分に言い聞かせながら部屋を後にした。
「ふう…疲れた」
教室に一人残され、菊千代は崩れるように椅子に座った。嵐が去ったことへの安堵感が広がる。と同時に、別の方向から暗雲が忍び寄り、再び心を曇らせる。後輩の末永サチが誘拐されたのだ。そしてその重要参考人に片岡輝義…。
「あり得ない…先生に限って、そんなことは絶対に!」
菊千代は椅子から立ち上がり、頭を振った。