∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_9 画家との再会
河川敷に揺れる白い花々。土手いっぱいに生い茂る小さな花に、初夏の訪れを知らされる。菊千代は芝の上にゴロリと寝転ぶと、大きく伸びをした。野球部のかけ声と金属バットの音が河川敷のグラウンドに響く。それを間近に聞くのは久しぶりだった。いつもなら撮影所にいる時間だ。
「姉上にはわがままを言ってしまったかな…」
菊千代は空を見上げながらつぶやいた。モデルの仕事は体調不良を理由に、しばらく休ませてもらうことにした。いや、しばらくどころか、もう仕事には戻れないかもしれない。菊千代はそう思った。
日に日に変化してゆく肉体に、菊千代は動揺を隠しきれなかった。中性であることで繋ぎ止めてきた男子としてのアイデンティティが、音を立てて崩れて行く。そんな無力感を感じずにはいられなかった。
実のところ、女装することを恥じているわけでもなかった。今でもそれほど抵抗はない。だが肌を露出する類いの水着やミニスカートには、以前に無かったリスクが伴うことに気づいたのだ。シャローナの放つフェロモンのような霊磁気が、男性の性的興奮を誘ってしまうのである。
性対象として見られるスタッフの視線。彼らの発する生霊が、菊千代の霊体にまとわりつき彼を苦しめた。霊力や守護の低下も結界を弱める原因のひとつだった。シャローナの憑依がこれほどまでに自己の波動を落とすとは思いもよらなかったのだ。
《誘っているのは僕自身なんだよね…》
彼らに罪は無い。菊千代はそう思うことで彼らの放つ思念を許そうとした。ついこの間までの和気あいあいとした笑顔が、今ではとても懐かしかった。突如生まれた彼らとの溝、そしてもう後戻りできないという無常感。女性化し続ける己の浮き舟が、菊千代にはとても恨めしく思えた。
《先生も彼らと同じように僕をみるのだろうか…?》
菊千代は片岡に逢いたかった。会っていまの自分を支えてもらいたかった。子供のように照れた彼の笑顔を見たかった。大きくて暖かな手、タバコとコーヒーの香り。
《怖い…とても》
菊千代は両腕で己の体を抱きしめた。シャローナの色香に翻弄され、彼が変わってしまうことがあったなら…菊千代はそれを恐れた。そんな教師を見たくなかったし、ならばこのまま逢わずに思い出にしてしまった方がいい。
「でも逢いたい…先生に逢いたい」
相矛盾する葛藤に引き裂かれそうだった。目に涙があふれてくる。その涙を通して空を眺めていると、水中を漂っているような、そんな錯覚を覚えるのだった。深い深い水の底に身を横たえた自分。回りで聞こえていたはずの音がいつの間にか遠ざかり、辺りはとても静かだ。
「神楽…」
「はい」
「そろそろ、帰るか…」
「はい」
聞き覚えのある男性の声と懐かしい女性の声が耳元で響く。不思議な事に目をつぶっていても二人の姿ははっきりと見て取れた。芝生の上に腰を掛けた一組の男女。それは片岡とシャローナの姿だった。憑依しているシャローナがそれを見せているのだと、菊千代にはすぐにわかった。流れて来るまま、そのイメージに身を委ねていると、しばらくして辺りが大きく揺らぎ始めた。シャローナの追憶…?菊千代はそう思った。
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片岡照義はシャローナよりも二十歳年上で、美術担当の教師していた。彼を一目見た瞬間「たぶん私、この人と結ばれる」少女はそう直感した。なぜ、そう思ったのか、彼女自身にもわらなかった。好きだという感情さえ持たず、ただ「結ばれる」という言葉が頭をよぎった。
外見で見る限りそう思える理由はどこにも見当たらなかった。教師は熊のような巨体で、ボサボサの髪で、無精髭を生やし、セブンスターを吸っている。無口ではないが多くは語らない(時々見せる、笑顔がすてきな)風変わりなおじさん。三十六歳だったが年よりも老けて見えた。シャローナは親子ほども違う美術教師に、興味を持った。
彼は他の教師とはあまり付き合おうとはしなかった。いつも一人で、スケッチブックを持ち、授業が終わると近くの河川敷へ出掛けて行った。彼女は教師の後を少し離れてついてゆき、一時間ほど歩き回り、そして更に二時間ほど彼の脇で時を過ごした。お互いに話しかける事もなく、彼は黙々とスケッチし、彼女はただそれを眺めていた。そして、日が傾きかけると、教師は生徒を振り返り、こう言った。
「神楽…」
「はい」
「そろそろ、帰るか…」
「はい」
二人の会話は、これだけだった。が、シャローナは、これだけで満たされた気持ちになった。そして「はい」と答える自分の言葉に、もしかしたら、彼も同じ気持ちでいるのでは…と密かに期待していた。
二年に進級すると、彼女の生活に変化があらわれた。土日の休みは相変わらずモデルの仕事に追われていたが、それでもいままでになく充実していた。
ある日の放課後、教師と生徒はいつものように河原に出掛けた。夏の野草がそこかしこに生い茂り、少女の制服も紺のブレザーから白いブラウスに変わっていた。二人は芝生の上に腰掛け、彼はタバコを一本吸ってから、スケッチブックを開き、そして彼女の方を振り向いた。
シャローナの瞳が(えっ…)と彼に問いかける。
照義は何も言わず、生徒の顔をじっと見つめ、それからスケッチブックに筆を走らせた。
少女は動揺した。彼の視線に心臓が高鳴る。目を逸らし、もう一度彼を見て、また目を伏せる。大地がグラグラと揺れる。
「神楽」筆の動きを止めずに、教師は言った。
「はい」心なしか声がうわずる。
「悪いが、私の方を、見ていてくれないか」
「はい…でも…あの…」
体が、顔が熱い。逸らした視線を戻すことが出来ない。(どうしたんだろう私、プロのモデルなのに…)シャローナは思った。
「リラックスして…ああ、肩の力は抜いて…緊張するようだったら、こちらを向くのは時々でいいから」
そう言うと、教師は笑顔を見せた。いつもの、あの素敵な笑顔だ。
「はい!」(私の中に何かが落ちた)
彼の視線を体が素直に受け止める。シャローナは教師との間にあるハードルを、一つ飛び越えたような気がした。
その日以来、教師は少女だけを描くようになった。照義は、それが彼の唯一の言葉であるように、シャローナを白い紙の上に描き続けた。立ちのぼる陽炎に、二人の景色が揺れ(セミの鳴き声)草原を吹く風は少女の髪を優しく撫でた。
シャローナは桜の木にもたれ、後ろ手に立ちポーズをとり、彼を見つめた。その瞳は撮影で見せるあどけない少女のそれではなく、恋人を見つめる乙女の眼差しだった。偉大な芸術家がその光景に出会ったら、彼らこそが真の芸術だと言ったかもしれない。それほどまでに、男女は夏の色に溶け込んでいた。額を流れる汗さえも、美しく見えた。
シャローナが教師のアトリエを訪れた時、一学期も終わりに近づいていた。どちらから言い出した訳でもなく、ごく自然に、生徒は教師の家に来ていた。使われていない倉庫のような住まい。ガランとして、壁には何枚ものカンバスが立て掛けてあり、コンクリートの床に、ベッド、ソファー、テーブル、仕切りのような本棚が、無造作に置いてあった。
「先生、ちゃんと洗濯している?」
シャローナは、ソファーに山積みされた衣服を見てから、腰に手をやり教師を見た。
「あ、ああ…」照義は頭を掻いた。
「お掃除は?」
「まあ、時々は…」
彼はタバコをくわえ、テーブルに散らばった使い捨てライターをカチカチやった。火のつく奴が見つかるまでに、5、6個のライターがゴミ箱行きになった。少女は天を仰ぎ、それから、意を決したように部屋を片付け始めた。
「なあ神楽、いいってば、どうせまた汚れるから…」
「いいの、最初からその気で来たんだもの…うふふ、ちょっとは想像ついていたしね」
少女は部屋の汚さよりも自分自身に驚いていた。(てきぱきと片付けをしている自分!)家にいる時のシャローナからは想像もつかないことだった。いつも口うるさく思っていた母の気持ちが、何となく解ったような気がした。
結局、すべて片付けるのに3日間を費やした。教師はきれいになったアトリエを見渡した。そして、落ち着かない様子でポツンとソファーに腰掛け、窓の外で揺れる自分の洗濯物を眺めた。何かのマジックを見ている気分だった。シャローナは二人分のコーヒーをテーブルに並べ、教師の脇に座った。
「すまんな、神楽」
教師は頭を掻きながら、美しいマジシャンに礼を言った。
「いいんです。いつも私のこと、綺麗に描いてくれるから。そのお礼…」
「いや、それはお前が…」そう言いかけて、照義は口をつぐんだ。
《それはお前が、きれいだから…》教師はそう言う代わりに、彼女の入れてくれたカップに手を伸ばし、それを一口飲んだ。
「ねえ、先生」
「ん…」
「先生はなぜ、結婚しないの?」
=ゴホッ、ゴホッ…
教師の口からコーヒーが噴き出た。
《何故…?》
唐突な生徒の質問。セブンスターに手を伸ばし、火を点ける。溜め息のような白い煙が部屋を漂う。しばしの沈黙。「それは…」と教師は言いかけ、再び沈黙が続く。シャローナは「それは…」に続く彼の答えをじっと待った。いつもの様に、教師の脇に座って…。
照義は思考の流れに少女の答えを探していた。答えは解っていた。
《俺はお前を待っていたんだ…》
その言葉は最初に流れて来た。が、教師はその答えを押し流し、別の理由が流れてくるのを待った。(私はなぜ結婚しないのか…)
シャローナは続きの言葉を知っていた。「それは…」に続く彼の言葉。「俺はお前を待っていたんだ」と、彼の顔に描いてあった。
少女は「うふふ…」と笑った。困ったように頭ばかり掻いている教師が可愛く思えた。照義は3本目のタバコに火を点け、生徒の顔を見て、照れたように笑った。
「なあ、神楽」
「はい」
「今度、カンバスで描きたいんだが、付き合ってくれないか」
「はい、先生」《これでまた、ここに来る理由が出来た》
教師は数日の間に、何枚もの下絵をカンバスに描き込んだ。120号の白いカンバスに、様々なシャローナが描かれてゆく。人によっては一枚づつ描く人もいるが、これが彼のスタイルだった。モデルは(特にシャローナのようなモデルは)その時々によって違う表情を見せる。それを逃さず、カメラマンがシャッターを切るように、カンバスに残してゆくのだ。何本ものイーゼルが部屋に立ち並び、教師は驚くスピードで色を織り込んでゆく。少女の情緒にはいくつかのパターンがあることを輝義は気づいていた。描いている最中に感情が変化すると、すぐに別の絵に移り、彼女にポーズを取らせる。何枚ものパレット、何十本もの筆が、そこかしこに散乱する。
彼女はそれを見ながら実感していた。「どうせすぐに汚れるから…」そう言った彼の言葉は正しかったと…。
「先生、絵…見ていい?」
一息入れた所で、コーヒーを入れながら、生徒が聞いた。
「いや、完成するまでは、見せられない」
教師はカンバスを見ながら言った。
「いつ頃、見れるかしら?」
「そうだな…休みに入ってからかな」
「夏休み、待ち遠しいな。そしたらここに泊まることもできるよね」
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《シャローナ…》
悪戯っぽくウインクをするシャローナの顔を、菊千代は懐かしそうに眺めた。その脇で片岡が目を丸くし、困ったように頭をかいている。脳裏を流れるイメージを見ながら(シャローナは何故、僕にこれを見せるのだろう?)と菊千代は考えた。
《僕を通じて先生と話がしたいのだろうか…?》
祖母の言っていた、シャローナのやり残したこの世の未練…それはたぶん、教師との関係だったに違いない。菊千代はそう思った。
《だが、憑依された今の状態で僕に何ができるのだろう。このまま彼に会ったとして、それが問題の解決に繋がるのだろうか…?》菊千代は考えた。
不意に子宮の辺りがズキリとうずく。頭に浮かんだそのイメージに、菊千代はハッとして身を起こした。心臓がドキドキと高鳴っている。
「だめだよ、シャローナ。そんなことできないよ」
菊千代は頭を強く振ってそのイメージを追い払った。鏡を見れば顔が真っ赤になっているに違いない。急いで立ち上がると、菊千代はアトリエとは逆の方向へ歩き出した。
「先輩!」
元気のいいその声に、菊千代が驚いて振り返る。そこにいたのは後輩の末永サチだった。その傍らには熊のように大きな男が、紙袋を持って立っている。
《先生…!》
菊千代は心の中で叫んでしまった。片岡が幻でも見るようにこちらを見ている。菊千代は視線をそらそうとしたが、何故かまばたき一つできなかった。シャローナが自分の目を通して教師を見ているのだ。片岡もその視線にシャローナの存在を見ているに違いない。二人は菊千代という媒体を通じて、霊的な次元で見つめ合っているのだ。
心臓は体が揺れるほどドキドキと脈打ち、それが自分の動揺なのか、それともシャローナのものなのか菊千代には区別がつかなかった。
「神楽先輩…」
末永サチの声を聞き、菊千代がまばたきをした。教師から目をそらし、後ずさりをする。
「ごめんサチ、ちょっと急用があるんだ」
菊千代はそう言うと、後輩に背を向け走り出した。何かいたたまれない気がして、その場から消えてしまいたかった。女装も化粧もしていない素顔の自分を、教師にさらけ出すのが恥ずかしかったのか?
「いや、彼が素顔の僕を知っているわけないじゃないか…」
菊千代はそう自分に言い聞かせ納得しようとした。と同時に、自分の中のある感情に気づき菊千代は愕然とした。
《もしかして僕は、彼に女性として見られたかったのだろうか…》
そのことは菊千代に大きなショックを与えずにいられなかった。
《だとするならば、あそこから逃げ出したかったのはサチに対する嫉妬?》
菊千代はしばらくすると走るのをやめ、河川敷を歩きだした。とりとめのない想像が頭の中でループしている。沈みかけた太陽があたりを赤く染め、空に美しいグラデーションを見せていた。
《僕は身も心も女になろうとしているのだろうか…》
菊千代は深いため息と共に、地面に映るシルエットを眺めた。夕日を切り取った長い影は、柔らかなシルエットをしていた。