∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_8 初花(はつはな)
白装束に身を包み横たわる少年が、薄らとそのまぶたを開いた。少年を中心に四方に竹が立てられ、紙垂(しで)の垂れた細縄が彼を囲むように張られている。光源は太めのロウソクが一本。八畳ほどの和室を照らし出すにはそれで充分だった。
「気がついたようじゃの…」
祖母の絹が菊千代を見ながら言った。絹は気絶した孫が学校から運ばれて来ると、ただちに結界を張りその中に菊千代を寝かせた。シャローナが憑依していることはすでにわかっていた。
「大丈夫なの菊?ここがどこかわかる?」
姉の千織が心配そうに覗き込み、細縄の中に手を差し伸べた。瞬間…ロウソクの炎がユラリと揺れ、菊千代は猫のように身構えた。威嚇するように《ハァアア…》という息を漏らし、鋭い視線が千織を睨みつける。
「な、何よぉ人が心配しているのに…!」
いつもと違う菊千代の様子に、千織は面食らった。
「千織、これは菊千代ではないぞ」
祖母の言葉に千織が目を丸くする。絹は目を細め、一つ頷くと続けた。
「これはな、シャローナじゃ。だが彼女も今は正気を失っておる…可哀想にのう」
絹はそう言うと、結界の外から菊千代の目を覗き込んだ。菊千代は第一霊体をシャローナに支配されていた。その為に肉体の自由こそ利かないが、精神をすべて支配されているわけではなかった。瞳の奥にはシャローナとは別の意識、菊千代本人の意識が感じられるからだ。
「菊よ、しばらく辛抱せい。じきに自由になるでな…」
そう言うと絹は線香を焚き、先祖に対して感謝の言葉を捧げた。専業祈祷師や呪術師は大袈裟なお経を唱えるものだが、絹の祝詞は太陽神の名前と感謝の言葉を唱えるだけのシンプルなものだった。が、その効果は絶大であった。何よりも先祖霊がその祝詞に共鳴し、霊団となって手助けをしてくれるからだ。もちろんそれは霊的に“観える”のであって、霊的レイヤーを知覚できなければただの煙にすぎない。霊能に無縁な千織には、祖母の言葉はいまひとつピンと来なかった。
「まずはシャローナ自身を清めねばならんの…穢れた場所に長く居たせいで、異界の汚れを着込んでおる」
シャローナの霊体には無数の悪鬼が食らいつき、それらがシャローナを狂わせていると絹は見ていた。悪鬼とは今風に言えばコンピューターウイルスの様なものだと思えばいい。それらが霊的な意識を狂わせるのだ。
絹はそれらを洗い流すように清らかなイメージを言葉に込めた。漂っていた線香の煙が雷光のように光りはじめる。と、煙は唱えた言葉を織り込むように、スルスルと菊千代の口へと入っていった。四つん這いに構えていた菊千代が身震いするように上半身を反らし、その顔が天を仰いだ。
=ゴボリ…
大きく開いた菊千代の口から黒々とした霊気玉が飛び出した。次の瞬間、先祖霊が金色のベールとなってそれを一斉に包み込む。祖母の目には無数の悪鬼が白い泡となり、虚空へと消えてゆく姿が映っていた。霊能のない千織でも、何かが起こっていることぐらいは理解できたのだろう。ラップ音がピシピシと鳴るたびに、千織はビクリと体を震わせていた。
=ヒュー…
菊千代が大きく息を吸った。張りつめていたものが抜け、へなりと首がうなだれる。目に正常な光が戻ってきたのを見て取ると、絹は結界の中へ入り菊千代の肩へと手を置いた。
「戻って来たようじゃな…」
そう言うなり孫の頬を、祖母はピシャリと平手で叩いた。菊千代の白い頬に赤い手形が張り付く。再び体を支配しようとするシャローナを制し、活を入れ、菊千代を呼び戻す為だ。端で見ていた千織は驚き、目を点にしたまま固まっていた。
「…痛ひ」
しばらくすると菊千代の口から言葉が洩れた。祖母に礼を言おうと口を動かすのだが、馴れぬ体にろれつがうまく回らなかった。
「浮き舟の舵をあの子に取られるとは、菊もまだまだ甘いの」
祖母はカラカラと笑いながら言った。
「…シャローナ…は成仏…出来たので…しょか?」
たどたどしい口調で菊千代が聞いた。祖母は菊千代の目を覗き込み《ふーむ》と唸った。
「しとらんな…」
「じゃあ、シャローナはまだ菊の中にいるの?」
祖母の言葉に千織が尋ねた。
「あの子はまだこの世に未練があるようじゃ。それをやり遂げるまでは菊千代から出る気はないらしい」
絹はそう言うと、白装束の胸元を開いて千織に見せた。弟の白肌がのぞき、桜色の乳首が突起して見える。男性とは明らかに違うそれをみて、千織は弟の肉体変化を見て取った。菊千代はそれを恥じるように肌を隠し、後ろを向いた。
「あの…お手…洗いに」
腹部に激痛が走る。菊千代は慌てて立とうとしたが、足がもつれ、前のめりに突っ伏してしまった。股間を手で押さえるが間に合わず、温かい物が手のひらに広がって行く。白装束の尻の部分に真っ赤な染みが現れると、絹と千織の見ている前でそれは牡丹の花のように咲いていった。
「菊…血じゃないの、それ?」
千織が顔色を変えて叫んだ。
「千織よ、案ずるでない。これは初花じゃ…」
「初花…?」
祖母の言葉に千織が聞き返した。
「菊もとうとうオナゴになってしもうたか…今日は赤飯を炊かねばなぁ」
絹は溜め息まじりに微笑んだ。女系家族に初めての男子と喜んでいたが、血には逆らえぬと絹はつくづく思った。
祖母の落胆が伝わってくるようで、菊千代はそれが申し訳なく、やるせない気持ちでいっぱいになった。男子として生きて来た自分、それを拒もうとする浮き舟。二つの肉体と二つの心。菊千代はその狭間で揺れ動いていた。
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初潮を迎えて以来、菊千代の体は二次性徴の変化が目立つようになった。特に乳首と乳房の成長が著しく、登校の際にはニプレスで乳首を隠し、胸を押さえるナベシャツを着用しなければならなくなった。体育の着替えは人目につかぬようにし、暑くてもトレーナーを脱ぐ事はできなかった。骨盤の発達に加えウエストラインがくびれ、体のラインを見せるだけで女性のそれと分ってしまうからだ。体毛や体臭、声の変化などはさほど無く、ゆったりめの服を着ていればどうにか誤摩化す事は可能だった。
「マールちゃん、動きが固いねぇ。線は柔らかくなったのに…」
撮影現場でカメラマンの須藤が千織に言った。いつもなら自然にシャッターチャンスをくれる菊千代なのだが、最近はめっきりそれがなくなって来ている。
「え…ええ、体調が悪いって言っていたから…そのせいかなぁ」
誤摩化すように千織は笑った。が、本当の原因は体調よりもメンタル面なのだと思っていた。初めて生理器具を付けさせての仕事である。しかもその状態で水着カタログの撮影。それをこなしているのだから千織は弟を褒めてあげたい気持ちだった。
「もういやです…」
撮影が終わり控え室に戻ると菊千代がつぶやいた。いつになく険しい表情である。千織は競泳用水着を脱がし、菊千代にバスローブを着せた。
「ごめん、無理させちゃったね。今度から生理のときは仕事を入れないようにするから…」
「ちがいます…姉上」
「え…?」
「僕は男子なんだ…それなのに女性水着だなんて!」
菊千代の目に涙が流れた。千織はそのとき、弟の涙を初めて見たような気がした。
「だって、毎年撮影していたじゃない…水着」
姉の言葉に菊千代が《わぁ》と泣き出した。頭ではわかっている。分っていても体が拒否をしてしまうのだ。中性のときには意識しなかった女装が、女性化と共に堪え難い苦痛に感じてしまうのだ。
千織は弟の姿を眺め、モデルの廃業を考えなければならないと思い始めていた。
肉体の変化に伴い、菊千代は精神的にも不安定になった。一般的には思春期の主な特徴ということになっているが、実際に起こっているのは霊的な変化であった。つまり先祖代わりが起こっていたのだ。先祖代わりとは魂の交代を意味する。菊千代の場合は先祖というよりはシャローナの魂が影響していた。
浮き舟にはリーダーとなる核の魂が存在し、その魂が産土神を介してこの世に生を受ける。だが魂は一生ひとつとは限らず、この世界で修行を必要とする他の魂が同じ浮き舟を使用することがある。それが先祖代わりとして思春期に起こり、切り替りの時期に心が不安定になるのだ。
「自分の考えがわからなくなるとな…」
祖母の絹が孫に聞き返した。日々不安定になってゆく精神状態にどう対処すればよいのか、菊千代にはわからなくなっていたのだ。
「はい、お婆さま。時々無償に腹ただしく思えたり、分けも無く悲しくなったり…」
菊千代はやや気落ちしたように言った。精神的な変化に伴い霊力の低下も目立っていた。普段見えていた霊気玉が、見えなくなることが増えたのだ。
「自殺というのはこの浮き舟界において、やってはならぬことの最たるものじゃ。それをしたシャローナは現在、地獄に堕ち神楽家の霊線を塞いでおる。いわゆるシャッコウ様になっているわけじゃな。その影響は子孫の誰かに現れるのだが…辛いか菊千代?」
絹の言葉に菊千代はコクリと頷いた。霊の味わっている地獄をそのまま引き継ぐのだ、その無常観は半端ではなかった。ちまたで賑わせている《鬱病》とはまさにこのような状態をいうのではないかと思った。
「除霊という方法もあるがのぉ、封じ込めるのでは永遠に成仏できんしな…」
絹はやや困ったように言った。子孫にシャッコウ様が降りてしまった場合、普通であるなら性格が一変してしまう。よく反抗期という言葉を耳にするが、シャッコウ様が降りた場合はその比ではない。多くの場合、家庭内暴力にまで発展する。浮き舟が完全に乗っ取られてしまうのだ。が、菊千代の場合は祖母の力と自身の先祖供養により、辛うじて意識を安定させることができていた。
「舵を取られぬようにするのも、また修行のひとつじゃて…」
「はい、わかりました。セフィロト様とパンドラ様をお守りするのですね(笑)」
菊千代はそう言うと祖母に微笑んでみせた。マンダラ界、つまりこの世とは異なる世界には、生命の樹であるセフィロトと知恵の樹であるパンドラが存在している。菊千代は幼い頃から、祖母にそう聞かされて育った。
パンドラとは浮き舟のコントロールルーム、いわゆる精神のことである。第一霊体を憑依されただけでは完全に乗っ取られるということはなく、衝動的に動かされる程度に留まる。いわゆる発作的な怒りや悲しみ、欲情などだ。パンドラを支配されるというのは、さらに深く入り込まれた状態のことである。意識的に放棄しなければ通常は起こることはない。
「どのような境遇に陥っても心の神様が笑っていらっしゃれば、それでええんじゃ」
絹はそう言うと、いつものようにカラカラと笑った。菊千代も笑顔を見せた。祖母を見ているだけで自然と勇気が湧いてくる。彼女がいなければ自分もシャローナと同じ道を歩んでしまったかもしれない。菊千代はふと…そう思った。