∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_7 悪霊の前夜祭
霧に覆われた旧校舎は(それを取り囲む敷地そのものが)外界の干渉を拒むかのような異世界を思わせた。塀を隔てて一歩その外に出れば、平穏な住宅地が広がっているというのに、その内側に身を置くだけで隔絶された空間を感じさせるのだ。色あせた灰色の景色が異世界であるのなら、その中心である旧校舎は一体なんの象徴であるのだろうか。
「いつ来ても薄気味の悪いところね、ここは…」
生徒会長の闇小路静香が数名の男女に向けて言った。菊千代は初めて見るその建造物を見上げ、その妖しげな外観にただならぬ気配を感じていた。それは霊能者ならずとも、集まった全員が感じていたに違いない。
聖サリティアの旧校舎。それはヨーロッパの修道院をモチーフに造られた古い建造物であった。シスターを養成する為に発足したこのカソリックの施設は、闇小路カンパニーの会長、闇小路智蔵からの資金援助を受けた際に、事実上は買収され(私立高校として再登記)現在に至っている。かつて主な学び舎であったこの旧校舎も建物の老朽化と共にその役目を終え、現在の新校舎へと移っていったのだ。
「こんなものが取り壊されずにいつまでも存在することの方が、オレにとっては驚異だがね」
ジャージ姿のイケメン男がそう言い、閉ざされた旧校舎の扉に懐中電灯の光を当てた。歴史的な建造物という価値は確かにある。だが重要文化財でもないこの建物を、維持する経費というものもバカにはならないだろう。体育教師の海老原はそう思っていた。
かつては旧校舎を取り壊し、そこに新校舎を立てる計画もあったようだ。が、工事責任者の病死、解体業者の倒産などが相次ぎ、いつしか業界内でのタブーとしてどの会社も請け負わなくなってしまった。近隣の土地が買収され、不自然な形で増築された新校舎にはそういう経緯もあったようだ。
「ちっ、海老原の奴。生徒会長の前だと威勢がいいよな」
数人の男子グループが集まり、その中心人物らしき少年が言った。林流源である。担任の海老原が闇小路静香に惚れているという噂は、生徒の間では有名な話だった。が、実際にそれを広めているのは海老原本人だという説もあった。
「静香姫のご機嫌とりに、なんでオレたちまで付き合わなきゃならねーんだ」
林の取り巻き達は口々に文句を言った。
《旧校舎きもだめし》と称された今回の除霊。参加メンバーを募った際に担任教師の海老原に促され、林とそのグループはしぶしぶ参加に同意したのだった。クラスメイトの菊千代が参加を表明しているのに、同じクラスのリーダー格が臆病風に吹かれたと噂されるわけにはいかないからだ。林流源は同級生の菊千代には少なからずライバル心を抱いていた。
「良いですか、皆さん。ここは長い間閉鎖され使われていません。校舎内は危険な場所もありますので、くれぐれもお気をつけ下さい」
初老の男性が集まった全員に忠言した。ここの管理を任されている何代目かの主任司祭カミーユである。今回は悪霊払いの任を受け、生徒会に付き添って来たのだ。菊千代の観たところカミーユに特別な霊力はないように思えた。カソリックの様式に乗っ取った鎮魂を彼は目的としているのだろう。
《けれど、あの司祭様なぜあんなに怯えているのだろう》
司祭から沸き立つ霊気玉は彼の怯えを示していた。それはこれから行われる除霊に関してなのか、それとも別の何かが…。
菊千代がそんな疑問を抱いた時、ドンという音が不意に響いた。振り向くときれいな花火が夜空を色どっている。聖サリティアでは明日の文化祭に向け、前夜祭で盛り上がっているようだ。当然新校舎に泊まる生徒も多いのだろう。グラウンドではファイヤーストームが焚かれ、生徒たちの活気ある声がここまで届いていた。旧校舎の冷気に満ちた静けさとは対照的だ。葉桜の季節だというのに、こちらはいまにも白い息が出てきそうなほどだった。
「まったくいい気なものね。生徒会の苦労も知らないで」
副会長の岡田マユが溜め息まじりに言った。生徒会長がこんなことを言い出さなければ、楽しい前夜祭だったはずなのに…本心では皆そう思っていた。今回集められたメンバーは合計十三名。主任司祭、生徒会顧問、黒めがねの男性、生徒会長、副会長、書記長、会計、その他一年生六名である。
「ほら、君たちはここまでだよ。中学生は泊まり込み禁止だからね」
会計の飯島さとしが中等部の女子二人に向かって言った。
「え〜、神楽先輩といっしょに行こうと思っていたのに」
不満げな声を漏らしたのは末永サチだった。憧れの先輩とスリリングな一夜を過ごそうと夢見て、親友の逢沢秀美とこっそりついてきたのだ。
「ここは危険な場所だからね。君たちはほら、あっちの世界にお帰り」
菊千代は二人の頭を撫でるとファイヤーストームを指差した。末永と逢沢はいつものウルウルした目を見せたが、しばらくしてコクリと頷き笑顔を見せた。
「さて、みなさん。今回お集り頂いたのは他でもございません。この学園における連続誘拐事件を収束させるためです」
闇小路静香はそう話すと、言葉を切り、全員をゆっくりと見渡した。ここでのリーダーは自分であり、自分の指示に従い行動するように…闇小路の言葉にはそういう暗示が込められていた。
菊千代の霊眼には、髪の毛のような霊気が少女から出ているのが観えていた。それが人の霊体に絡み付くように付着し、本人の自覚も無しに人を操るのである。彼女の生まれながらにして持つ才能のひとつなのだろう。
「ここに居りますカミーユ神父は、西方における伝統教会より派遣された由緒のある司祭様でございます。この旧校舎に巣食う悪霊の噂は皆さんご存じかと思いますが、今後このような神隠しを起こさない為にも、カミーユ神父にエクソシストとしての悪霊払いを行って頂きたいと思っております。皆さんはそれに立ち会い、彼に力を貸してあげて下さい」
生徒会長はそう締めくくると、司祭に旧校舎の開場を促した。悪霊払いという言葉に、みな改めて緊張した面持ちになる。生徒の一人が悲鳴を上げそうになり、男子グループのひとりが慌ててその生徒の口を塞いだ。泣きそうになったのは地場登だった。地場は半ば脅迫されてここに連れて来られたのだ。これから林たちにどんな目に遭わされるのか、それを思うと地場は恐怖で狂いそうだった。
重い扉が開くと、月灯りに照らされた集団の影が、一足先に礼拝堂へと流れ込んだ。入れ替わるように、止まっていた時間が外へと流れ出す。薄暗い電灯がつけられ、その後で司祭が室内に備えられた燭台に灯をともしてゆく。
「うわぁ…」
感嘆の声が生徒の間に沸き起こった。高い丸天井に描かれた怪物と聖人たち達の世界。薄気味の悪いフレスコ画。大きなステンドグラス。その暗示的な造形に生徒たちは思わず目を見張った。
「おい見ろよ、地場。あのでかい十字架…あとでお前は磔の刑な」
林流源がニヤニヤしながら地場の耳元でそう囁いた。地場は祭壇の奥にあるそれを見て顔面が蒼白になった。それは実際に磔にできるほどの大きな十字架だった。
「彼女、ここで首を吊って死んだそうよ…」
闇小路静香が十字架を見上げながら言った。生徒たちはその言葉にざわめきたった。林は両手で輪っかを作り、ベロを出しながら首を吊るしぐさを地場に見せた。卒倒しそうになった地場を男子グループが支えた。
「大丈夫だよ、お前達。これだけの人数がいるんだ。霊の方だって驚いているさ…はははは!」
担任の海老原が笑い声を上げた。その声がいつまでもこだまし続け、かえって不気味さを増す結果となってしまった。
「シャローナ…」
菊千代はただひとりその十字架に近づき、天を仰ぐように両手を広げた。彼の霊眼には十字架で首を吊ったシャローナの姿が見えていたからだ。瞬間、数名の生徒が驚きの声をあげた。霊感の強い者にはそれが映ったのだろう。
「そ、それに手を触れてはいけません…!」
神父が怯えた様子で声を上げた。クロスをにぎる手が震えている。生徒たちは菊千代の奇行に一瞬言葉を失った。
「あ…申し訳ありません」
菊千代はあわてて手を引っ込め、神父にわびをいれた。気づかぬ内に引きつけられていた自分に彼自身も驚いていた。それから再び十字架を見上げたが、そこにシャローナの姿はもうなかった。
「も、もうたくさんだぁあああ!」
悲鳴を上げながら、地場が走り出した。
「あ、ちくしょう!」
地場に振りきられた生徒が叫んだ。
「地場、どこへ行くんだ。戻りなさい!」
教師は走り出した生徒に向かって叫び、林達のグループに指示をだした。
「お前達は地場の後を追いかけるんだ。オレはこっちの通路から追う。まったく世話を焼かせやがって…」
礼拝堂から通路に出ると、暗がりの中に教師の足音が遠ざかって行った。突然のアクシデントに神父は狼狽し、胸に十字架を掲げ握りしめていた。異常なまでに怯える神父の姿に、周囲の顔にも不安がよぎる。
《この司祭様は何かを隠している…》
菊千代にはそう思えた。
「あの、僕も彼を探しに行きます…あとのことはそちらにお任せしますね」
菊千代がランプを手にしながら言った。
「あなたもお気をつけなさい…」
静香が声をかける。菊千代が去ると、周囲の温度が急に下がったように思え、静香は腕組みをした。
「さあ、司祭様。わたくしたちも除霊の準備を…あの娘の絵はどこに?」
生徒会長の言葉に神父は頷き、緊張した面持ちで歩き始めた。
林たちのグループが旧校舎の上に向かったのとは逆に、菊千代は地下への階段に向かっていた。地場の走り去った後には、恐怖に満ちた彼の霊気玉が点々と浮遊し、菊千代はその後をたどるだけで良かったのだ。
「地場君、どこにいるの?」
中性的な声があたりに響く。手にしたランプが揺れるたびに、菊千代の長い影が影絵のように動いて見えた。幾重にもこだまする靴音に、自分以外の何者かがその階段を逆に昇ってくる。そんな錯覚を覚えながら…。
「もう僕に構わないでくれよ!」
重いドアを開けると、地場の悲痛にも似た叫びが菊千代の耳に届いた。幾つものベッドが並ぶその部屋の一角に、地場はうずくまるように隠れていた。部屋は使われていなかったにもかかわらず、蜘蛛の巣もカビ臭さもさほど感じられなかった。当時の時間がそのまま残されている、そんな風にも思えた。
菊千代はクラスメイトを怯えさせぬようにゆっくりと近づいた。肩にさげたショルダーバッグの中からある物を取り出し、床の上に並べる。それは線香と香炉、そして短冊であった。
【神楽家先祖代々の霊位】
30センチほどの短冊には墨文字でそう書かれていた。厚紙の短冊は《霊位》と書かれることによって霊の依り代となるのである。短冊を備え、手前に香炉を置く。手にした線香に火をつけ感謝の言葉を捧げると、地場に憑依していた数体の霊が、短冊に吸い寄せられてゆくのが菊千代の目に映った。祖母直伝の鎮魂術である。依り代を立てずに線香供養だけを行うと、霊は依り代として供養者を選ぶことがあるので注意が必要だ。
《しかし、なぜこれほど多くの死霊がさまよっているのだろう?》
旧校舎は元々礼拝堂である。専属の神父が日々祈りを捧げ、死者の霊を癒しているはずではないのか。そんな疑問が脳裏をかすめる。しかも、どの死霊も無念の霊磁気を発しているのだ。
『神楽君、僕は…僕は…』
霊の憑依が解けると地場は肩を震わせて泣き出した。が、彼が悲しみに包まれると負の霊磁気が沸き起こり、死霊は再び寄って来る。同種の霊磁気は引き寄せ合うのだ。
菊千代は死霊を寄せ付けぬように、地場の肩を抱き寄せ、自らの結界の内に入れた。失意の霊気玉とも呼べる霊磁気が体に流れ込み、地場の受けた数々の体験が菊千代の脳裏に再現された。
「地場君、そんなに辛い事ばかり考えていちゃだめだ…」
痛みを伴う強烈な疑似体験に、菊千代は思わず身をよじった。
《首にロープを掛けられ木に吊るされる…不安定な台の上に乗せられ揺らされる》
《女子トイレの中で自慰を強要…女子が来るまで続けさせる》
《ズボンを脱がされる…ブリーヌの中に生きたままのカエルを入れられる》
《全裸にされプールの中に突き落とされる…窒息する寸前まで水に浸けられる》
人としての尊厳を失わせるいじめの数々、果てしなく続くそれらはまさに地獄の責め苦を思わせた。菊千代は地場の体から身を離し、大きく息を吸った。これ以上続けたら結界が維持できなくなりそうだった。
「神楽君、助けて…僕を見捨てないで」
せがむように地場が言った。菊千代の霊磁気は母の胎内にも似て心地よかった。抱かれていると不安な心が癒されるのだ。
「いいかい地場君、恐れは外からやって来るものじゃない。君自身が創りだしているんだよ」
菊千代は地場の目を見ながら続けた。
「林君たちのいじめは確かに辛かったと思う。でもその過去に縛られていてはいけない。過去を恐れ、映像化して、繰り返しいじめを再現する。そんなことを心に許してはだめなんだ」
「そんなの無理だよ。不可能だよ!コントロールなんてできないよ」
地場は菊千代に向かって叫んだ。
「いや、不可能じゃない。不安な心も安心した心も共に霊気玉を創りだす。その種が未来の枝に付着して、花を咲かせる。するとそれが実現してしまうんだよ。だからこの瞬間の心を傷つけてはいけないんだ。未来は自分の心が創りだしているんだよ」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、彼らにいじめられるのは僕に責任があるとでも言うのかい?僕がその現実を創りだしているとでも?」
菊千代が頷くと、地場は驚いたように目を丸くした。そして怒ったように言った。
「何を言っているのかわからないよ!」
「地場君、今だけを見るんだ。この瞬間は何も起きてはいないだろ。この瞬間の気持ちが大切なんだ。最初のきっかけは彼らだったのかも知れない。でもこの瞬間に自分の心をいじめるのか、それとも楽しませるのかは君に決定権があるんだよ。自分の心は自分で決められるんだ」
菊千代は辛抱強く霊的な真実を説明した。が、クラスメイトはすでに聞く耳を持たない様子であった。幾つもの死霊が再び憑依し始め、地場の顔が暗い表情に変わってゆく。
「君みたいな人気者に僕の気持ちが分ってたまるか!」
地場はそう言い捨てると、菊千代の体を突き飛ばした。憑依された力は恐ろしく強かった。菊千代は人形のように跳ね、ベッドの上を転がった。溜まっていた埃が舞い上がる。
「こちらです…」
重い扉がギイと音をたて、神父の声がその部屋に響いた。地場は驚きの表情を声の方に向けた。いくつもの灯りがその部屋に現れ、室内を照らし出す。地場の姿を捕捉すると、担任教師の口元が(ニッと)つり上がるのが見て取れた。
「地場ぁ、ここにいたのか…!」
海老原の裏返った声が少年の顔を引きつらせる。地場は慌ててベッドに転がる菊千代に手を差し出し、彼を引き起こした。
「ありがとう」
菊千代は何事もなかったように微笑んだ。地場はうつむいたまま何も言わなかった。
「あら、偶然ですわね」
生徒会長の冷ややかな視線が地場に向けられ、それから菊千代に向けられた。
「ここにあの子の絵があるって、よく知っていたわね」
「シャローナの絵が…?」
菊千代は制服の埃を軽くはらい、静香の顔を見た。
「知らないでここまで来たの?…ふふ、いい勘してるのね」
少女は少年を見つめ、クスリと笑みを浮かべた。
「で、司祭様。彼女の絵はどちらに?」
静香が司祭の方を振り向くと、カミーユは壁に掛けられた絵の前に進み出た。黒い布をかけられ、麻の細いロープで結わかれている。それは120号ほどもある大きな絵だった。
埃が立たぬように静かに布が解かれると、ランプの光に絵が照らされた。制服を着たシャローナの油絵だ。まるで生きているようなその姿に《おお…》という声が一同の口から漏れた。闇小路はその絵画を見上げ、そして菊千代を一瞥した。二つの面影を見比べるように、再び絵を見上げる。
「君を女装させたら、さぞや似合うでしょうね…」
一人悦に入るように、静香はクスクスと笑った。
「津村、この絵を運びなさい。海老原先生もお手伝い願えますか?」
影のように控えていた黒めがねの男がスッと前に出る。海老原は《やれやれ…》という顔つきでうなずいた。これだけの絵になると額の重さだけでも相当なものなのだ。
「この絵をどうなさるのですか?」
菊千代が静香に尋ねた。
「除霊のために燃やします。ファイヤーストームで盛大に…」
静香のその言葉が終わらぬうちに、床で燃えていた線香の煙が横に大きく揺れた。ただならぬ気配が辺りに広がり、霊的空間がグイとねじ曲がる。菊千代は思わず絵画を見上げた。
「シャローナいけない!」
絵が倒れるのと菊千代の叫びはほぼ同時だった。静香の視点から見るとシャローナが上から襲いかかるようにも映った。
津村が素早く動き、重い額を手で受け止める。その重量に体がズイと後方に下がる。海老原も慌てて手を貸し、絵は静香の眼前で止まった。が、次の瞬間、数名の生徒が同時に声を上げた。絵からシャローナが抜け出し、静香の体に覆い被さったのだ。もちろん霊的レイヤーでの出来事である。
「わぁあああ!」
地場が驚きのあまり叫び声を上げた。菊千代が素早く静香を抱きしめる。が、シャローナの霊は少女の口の中に入り込んでいた。
「いやぁあああ!」
闇小路静香がシャローナの憑依を拒むように身をよじった。菊千代はとっさに彼女の頭を後ろに反らせ、自らの唇を静香に重ねた。肉体に入り込もうとするシャローナを自らの体に移し替えるためだ。端から見ると、嫌がる女性に無理矢理キスをしているようにも映った。
「お嬢様!」
津村が静香に向かって声を上げた。が、重量のある絵を支えることで手一杯だった。
「コラ、神楽!きさま何をする」
目の前で展開されるキスシーンに、担任の海老原が怒鳴り声を上げた。恋人候補である自分の眼前で、キスをされたのでは面目が丸つぶれだ。海老原は憎々しい面持ちで教え子を睨んだ。
闇小路静香はやや潤んだ目で菊千代を見つめた。回りの騒ぎも静香の耳には届いておらず、目の前の少年の顔しか見えなかった。少女にとって実はこれがファーストキスだったのだ。奪われてみて初めて、静香は菊千代に対して少なからず好意を持っている事に気づかされた。
「大丈夫ですか?静香様…」
菊千代にそう囁かれると、少女はコクリと頷いた。先ほどまでの肉体の違和感は消え、シャローナの霊体はほぼ菊千代へと移っていた。逆に菊千代は子宮の中心が熱くなるのを感じていた。全身がけだるく、しびれるような快感が足の爪先から脳まで貫いてゆく。菊千代としてもここまでの深い憑依は生まれて初めてであった。頭の中がもうろうとし、シャローナの意識が手足の自由を奪ってゆくのが分った。
後日、担任の頬を往復ビンタで殴ったことを知らされるが、菊千代には夢の出来事のようにしか思い出せなかった。なぜ海老原を殴ったのか?腹の底から強い怒りが湧いて来たのは憶えていた。教師への深い憎しみ。だが、それがシャローナの憎しみであった事を菊千代はまだ知らなかった。