∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_6 シャローナ…死の謎
次の日、撮影の仕事を終えると、菊千代は再び片岡のアトリエを訪れた。
「よお、マール」
片岡はそう言うと、屈託のない笑顔を見せた。筆を止め、菊千代の立ち姿をジッと眺める。頭にある絵の構図にその姿を当てはめ、画家はモデルがポージングしやすい場所を作ろうとその辺りの物を片付け始めた。
「髪の毛、切ったのか?」
ショートレイヤーになった菊千代の髪を見て、片岡が言った。
「いえ、こっちが本物の私なんです。昨日のはヘアピース」
菊千代はそう言うと、髪の毛を指でかきあげた。本当は男子であることも告白してしまおうかと悩んだが、それは秘密にすることにした。彼に会う理由を作っておきたかったからだ。
「ほう、短いのも似合うんだな。その洋服ともマッチしている」
画家は手を休め少女を眺めた。菊千代は白いニットのワンピースに黒のニーソックスというスタイルだった。先ほどまで撮影に使っていたものだ。
「これは普段着じゃないんです。カタログモデルの仕事もしているので、ちょっと借りて来ちゃいました(笑)」
菊千代は笑顔を見せると、仕事で見せる決めポーズを作ってみせた。普段着はさすがに男性用なのだ。
《ここへ来る時には、女装しなければならないかな…この先ずっと》
菊千代はそう思うと(彼を騙しているようで)少々心苦しかった。
「よし、これでいい。ちょっとここへきて座ってくれないか」
片岡は古いロッキングチェアの上にシーツをかぶせ、菊千代に示した。少女がちょこんと座ると、画家は(丸太のような太い手で)その華奢な腕を持ち上げ、彼女に細かいポーズを取らせた。男のその真剣なまなざしに、菊千代はなぜか懐かしさを憶えていた。
蒸発したまま帰らなくなった父。片岡のその姿は、遠い日の父を思い出させずにはいられなかった。オイルと絵の具の匂い…それは父の匂いそのものなのだ。
《父上…》
菊千代の胸には、何か熱いものがこみ上げてきていた。
画家は太い指で筆を走らせながら、スケッチブックに少女の姿を描いていった。真剣な眼差しの中にも、どこか遠くを見つめる少女。その神秘的な何かを紙の上に描き記すために…。
《マール…》
画家は驚いたように呟き、その筆を止めた。少女の頬を流れる涙。その突然の変化に男は戸惑った。片岡はその訳を尋ねかけ、思い直し、口をつぐんだ。
人にはそれぞれ事情があるのだ。《それを聞いてどうする?》片岡はそう思った。そしてそれを尋ねる代わりに、画家はその思いをスケッチブックに込めた。涙しながらも微動だにしない、少女の“今”を残す為に…。
「今日はこれくらいにするか…」
しばらくして、画家は少女にそう声をかけ、筆を置いた。ドリップコーヒーの香りが部屋に流れ、ふたつのカップに湯気を立て始める。夕日に照らされた男の長い影が、床の上に影絵のように動く。
「はい…」
菊千代は乾きかけた涙のあとを手で拭うと、ニコリと微笑んだ。同じ姿勢を取り続けたので肩が凝る。菊千代は腕を大きく広げ背筋を伸ばした。伸ばした手が背後にあった何かにぶつかる。
《あ…》
黒いベールがスルリと落ちて、イーゼルに立てかけられた油絵が露になった。女性の絵…それは菊千代と同じ椅子に腰をかけたシャローナの絵であった。
「昔、ここに来ていた子の絵だよ」
片岡はそう言うと黒いベールを手に持ち、絵に掛けようとした。100号の大きなカンバスに描かれた少女は浴衣を肩から羽織っただけの半裸であった。
「先生と彼女はどういう間柄だったんですか?」《互いに好き合っていたの?》
菊千代は片岡に問いかけた。浴衣から零れた乳房、下着さえ付けていない生徒は、どんな気持ちで教師を見ていたのだろう。そして、それを描く教師の気持ちは…。菊千代はそれが知りたかった。教師はなぜ生徒の手を離してしまったのかを…。
「その子はオレの教え子だったからね。それ以上の関係ではないさ」
片岡は黒いベールを絵に掛けるとそう答えた。だがそれは嘘だとも思った。それだけの気持ちで生徒は教師の前で裸体にはならない。
菊千代は困ったように頭ばかり掻く男をみつめ「うふふ…」と笑った。少女のその顔を見ると片岡も笑顔を見せた。照れを隠すようにタバコに火をつけ、それを深く吸い込む。
男の体からは白い霊気玉が立ちのぼっていた。それを手に取れば彼の記憶が流れて来る。だが、菊千代はそれを覗く事をやめておいた。彼の態度を見ているだけで、シャローナが愛されていたことが充分わかるからだ。
《彼女の事を今でも好きなんですね…先生》
菊千代は心の中でそうつぶやいた。
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「シャローナがなぜ死んだのかと…?」
祖母の絹が菊千代に聞き返した。菊千代は家に帰ってくるなり、祖母の住む離れに上がり、いきなりそう尋ねてきた。
孫はたしか男子だったはず…と白いワンピース姿に頭をひねりつつ、絹は菊千代の問いに考えを巡らせてみた。が、その答えは浮かばなかった。
「なぜじゃろうのう、あの子はわしの呼びかけに答えてくれんでのぉ…」
「お婆さまのお力でもわからないのですか?」
菊千代は祖母の顔を食い入るように見つめた。教師にあれほど愛されながら、自殺という道を選んでしまった従姉妹の行動。菊千代にはどうしてもそれが腑に落ちなかったのだ。大霊能者である祖母ならば、シャローナの魂から直接真相を聞き出せると思ったのだが…。菊千代は祖母の傍らにペタリと座り込み、少しうなだれた。
「あの子は無明をさまようておる。成仏できんのはこの世に未練を残しておるからじゃろう」
絹は虚空を見つめ、そうつぶやいた。その霊眼にはおそらくシャローナの姿が映っているのだろう。
「はい、お婆さま」
菊千代は正座をし、勧められた茶に視線を落とした。この世に残した未練…それは片岡との関係だったに違いない。菊千代はそう思った。
「このままいくと、あの子はシャッコウ様と成り果てて、家系の霊線を塞いでしまうやも知れんの」
「シャッコウ様…!」
祖母の言葉に菊千代は大きく目を見開いた。シャッコウ様とはいわゆる祟り神のことである。地獄に堕ちた霊はその苦しさゆえに、自分に縁のあるもの達に憑依し、同じ苦しみを与える悪霊になってしまうのだ。
依り代にされた者は凶暴化し、シャッコウ様の傀儡になるか、さもなければそれに抵抗し、苦しみに苛まれるかのどちらかとなる。多くの場合は苦しさに耐えきれずに前者を選び、生ける悪鬼となってしまうのだが…。
「どうすればよろしいのですか?お婆さま…」
菊千代は身を乗り出して尋ねた。
「ふむ、それは縁ある者が日々感謝の念を送り、シャッコウ様を癒して差し上げるのが最善の道じゃろうの」
「でも、それはお婆さまがすでに行っているのでは?」
「そうじゃな、わしの力不足なのやも知れん…」
菊千代の言葉に祖母は力なくそうつぶやいた。
「あるいは…」
祖母の視線が空(くう)をにらみ、何かに意識を集中させた。そして目を閉じ、続けた。
「わしの供養が届かぬのは、あの学園自体に何か仕掛けがあるのかも知れん」
「聖サリティアに?結界…ということですか?」
祖母の言葉には思い当たる節があった。あの学園に漂う陰鬱とした雰囲気。どこかこの世とは隔絶されたレイヤーに聖サリティアが存在している。そんな気がしていたからだ。
「あそこはこの浮き舟界にもっとも近い幽界、中幽界に建っているようじゃな」
「中幽界?…あの、今度の前夜祭にシャローナの除霊が校内で行われるのですが…」
菊千代は生徒会長から聞いたその話を祖母にした。中幽界などという異次元レイヤーで、除霊効果など果たしてあるのだろうか?菊千代は疑問に思った。
「まあ、気休めにしかならんじゃろ。それどころか悪くすれば…」
絹はそう言いかけ、話を中断した。菊千代の顔に視線を向け、彼の顔をまじまじと眺めた。
「ど、どうかなさいましたか?」
祖母にじっと見つめられ菊千代は少し動揺した。
「可愛い女の子じゃのぉ」
絹はそういうとニコリと微笑んだ。
「え…あの、僕のことでしょうか?」
菊千代は自分の女装姿を突然意識し、落ち着きがなくなった。が、絹が見ていたのは彼の女装姿でなかった。瞳の中に覗かせたもう一人の存在。そこには白服に白帽子を被った少女がこちらの世界を覗いていたのだ。
「菊も可愛いがの(笑)」
絹は誤摩化すようにそう言うと、にんまりと笑顔を見せた。祖母の言っていることの意味がわからず、菊千代は目をパチパチとさせた。
「誰じゃろうのぉ、もしかしたら菊が将来産む稚児(ややこ)かも知れん…」
「僕は男子ですよ。お婆さま…」
祖母のその言葉に菊千代は顔を赤らめ、ニットワンピースの裾を手でひっぱり膝を隠した。そのしぐさがまた可愛らしく、祖母はカラカラと笑い、再び白い少女を見た。瞳に映る少女も笑っているような気がした。その子が誰なのか…その時点では絹にもわからなかった。