∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_5 謎の美術教師
「闇小路静香が…?」
菊千代の目にアイラインを入れながら姉の千織が言った。卒業後、千織はモデル事務所に就職し、菊千代専属のメイクアップと衣装を担当していた。もちろんモデルとしても活動しているのだが、千織としては菊千代のファッションプロデュースをしたいと内心思っていた。
「ええ、シャローナの除霊に立ち会ってもらいたいと言われました」
唇がルージュに染まると、菊千代はティッシュをパクっと口にはさんだ。白いティッシュにピンクの口型がコピーされる。
「どう菊、こんな感じで良い?」
手鏡に映された自分の顔を見て、菊千代は「はい」と答え、恥ずかしそうにうつむいた。鏡に映る自分の顔に、近頃では気恥ずかしさを覚えてしまう。モデルとしての性と男子高生としての性。そのギャップが日増しに大きくなるのを感じてしまうのだ。このままモデルとしての自分をいつまで保てるのだろう。そう思うと菊千代は不安を隠せなかった。
「ったく、失礼な話ね。悪霊よばわりされたらシャローナも浮かばれないよ。そんなの迷信に決まってるじゃん」
千織が憤慨したように言った。
「姉上は旧校舎にあるシャローナの絵をご存じですか?」
菊千代は姉に尋ねた。噂ではその絵からシャローナが抜け出て、夜な夜な旧校舎をさまようと言われているのだ。
「うん、知ってるわよ。シャローナが死んだ年に、美術教師の片岡が学校に寄贈したんだって。死者を弔う意味で…」
「片岡先生という方が描かれたものですか…」
中等部から上がったばかりの菊千代には、高等部の教師にはなじみがなかった。
「シャローナがお熱だった教師。あいつ、警察の調べで家宅捜査された時に、シャローナを描いた絵を大量に持っていたのよ。片岡はモデルになってもらっただけだって言い張っているけどね」
千織は遠くを見るような目で語った。美術教師の片岡はシャローナの死後、教師を辞め、自宅のアトリエに引きこもっていた。画家として生計を立てているらしいがそれも定かではなかった。
「片岡先生はどこにお住まいなんですか?」
興味ありげに菊千代が聞いた。
「A川の河川敷に倉庫を建てて住んでいるって聞いたけど…菊、あんたまさか会いに行くつもりじゃないでしょうね」千織は菊千代にセーラー服を着せながら言った。「言っておくけど、あいつ変態なのよ」
「変態…ですか?」
菊千代は千織の言葉を繰り返した。
「あいつの家にあったシャローナの絵だけど、ヌードとかもあったの。信じられる?現役の教師が生徒を裸にしていたなんて…彼にふられたことが自殺原因だって噂もあるくらいだし…」
そう言うと千織は菊千代の頭にヘアピースを被せ、軽くブラッシングをした。
「死んだ時にも性交の痕跡があったって…ただ精液が彼のDNAと一致しなかったから起訴は免れたらしいけどね。でも私はあいつはくさいって睨んでいるの」
「どうしてですか?」
姉の言葉に菊千代が首をかしげ尋ねた。
「今年に入ってサリティアの女生徒が二人失踪してるでしょ。その二人の絵も見つかっているのよ。あいつのアトリエから…」
「え!それじゃあ…」
菊千代は目を大きく見開いた。千織はコクリとうなずき弟の肩に手を置いた。
「いい菊、片岡には近づいちゃだめよ」
そう言いながら姉は、弟の頭をコツンとたたいた。
「モデルさんの準備はいかがでしょう?」
スタッフの一人がドア越しに確認に来たので、二人は会話を中断し、スタジオセットへと向かった。メイクルームを出るとき、等身大の姿見に自分の姿が映る。セーラー服を来た《マール》がそこにいた。それを見て菊千代は、モデルとしての自分にコクリと頷いてみせた。
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「お疲れ様でした〜」
スタジオ撮影に続き野外撮影もアップすると、スタッフはねぎらいの言葉を掛け合った。良い仕事ができたときの充実感は人々を笑顔にさせる。菊千代はいつもこの瞬間が好きだった。
「野外撮影ってよいね〜天気がよい日は」
千織はそう言いながら、缶ビールを菊千代の首筋にくっつけた。ヒヤリとした感触に思わず肩をすくめる。
「僕は飲めませんよ。まだ未成年ですし…」
菊千代は言いながら苦笑した。今年高校を卒業したばかりの千織も未成年だったからだ。代わりに炭酸ジュースを飲みながら、菊千代は河川敷に咲く桜の花を眺めた。桜はすでに花よりも葉の方が多くなり始めていたが、人々はまだその花を楽しんでいるようだった。
「今回の撮影ってなんですか?カタログの仕事じゃなさそうだし」
菊千代は姉に尋ねた。セーラー服を着るのは今回が初めてではなかったが、それを着たままで野外に出るのは初めてだった。女装が気づかれていないとしても物珍しげに見物するギャラリーの前では気恥ずかしい。ましてや河川敷には同級生や後輩も来ないとも限らない。内心はドキドキだった。
「A川区の広報ポスターみたいね。いじめ撲滅キャンペーンだったかしら…」
「広報ポスターって、学校とかにも貼られるんでしょ?…大丈夫かな?」
菊千代は姉の言葉に驚き、そう言い返した。カタログモデルの仕事は不特定多数に向けているからいいとしても、同じ地域で配られるポスターに載るのは抵抗があった。
「大丈夫よ菊、姉のメイク技術を信じなさい。誰もあんただって見破れっこないから(笑)」
そう言うと千織はカラカラと笑い、弟のプリーツスカートを捲り上げた。黒のボクサーショーツが露になる。
「ちょ…姉上!」
菊千代は手でスカートを押さえると、回りを見回した。スタッフが手をたたいて喜んでいる。回りのギャラリーも見ていたようだ。菊千代は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
「いいねぇ、マールちゃん。今度そっちの写真も撮らせてよ」
カメラマンの須藤がからかうように言った。“マール”というのは菊千代のモデル名である。モデルプロフィールからは本名は削除され、仕事上はこの名前で統一されていた。
「あ、あの僕、これで失礼しますね。おつかれさまでした!」
変な方向に話が発展するまえに、菊千代はそうそうに撤収することにした。その慌てぶりが可愛らしく、さらにスタッフの笑いを誘う。何をやっても絵になってしまうのは菊千代の天性らしい。菊千代はスタッフと姉に挨拶するとスクールバックを手に取った。
「あ、あの…!」
小走りで去ろうとする菊千代を、待ち構えていたかのように少年が呼び止めた。その声には何か必死な思いが込められていた。振り返りざまに紺色のブレザー、聖サリティアのエンブレムが目に入る。嫌な予感が菊千代の胸をよぎった。
《地場くん…!》
菊千代は思わず名前を声に出しそうになり、慌てて口に手をやった。同級生の地場登がうつむきながら立っていたのだ。菊千代は一瞬、秘密がばれたかと思い冷やりとした。が、彼には自分が同級生だということすら気づいていないようだった。
「と、突然で申し訳ないのですが…あ、あの」
地場はガクガクと震え、今にも倒れそうだった。体からはダークブルーの霊気玉が溢れ出し、彼の恐怖の強さを物語っていた。菊千代は漂って来る霊気玉に手を触れてみた。数人の高校生に囲まれ、脅されている地場の姿が菊千代の脳裏に浮かんだ。取り囲んでいる男子たちはみなサリティアの学生で、その中心人物は同級生の林流源だった。
「お願いがあるんですが、ぼ、僕といっしょに来ていただけませんか!」
生徒は必死の思いでそれだけを告げた。彼らにしてみれば地場をからかうことが目的なのだろう。無理難題を突きつけては彼の嘆き苦しむ姿を楽しむ。できなければそれを理由に殴る。菊千代には地獄霊に取り憑かれた少年たちの姿が見えていた。自分が断れば、彼は地獄霊たちにどんな目に遭わされるのだろう…。
「ええ…いいわよ。お友達がいっしょなんでしょ」
菊千代が女口調でそう答えると、地場は驚いたように目を丸くした。少し離れた場所から飢えた獣の気配を感じる。たぶんあの陸橋辺りだろう。菊千代はそう思った。
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陸橋下の朽ちかけた倉庫近く、少年グループは自転車を止めて集まっていた。リーダー格の林流源を入れて四人。他の三人は別のクラスの生徒だった。三人は菊千代の姿を見ると、一瞬戸惑いの表情を露にした。地場が本当に連れて来るとは思わなかったのだろう。林だけは不敵そうに笑いを浮かべ、手に持ったバタフライナイフをカチャカチャと弄んでいる。首に下げているのは高倍率の双眼鏡のようだった。
「お友達?」
菊千代が地場に聞いた。
「あ、いえ違います。知らない人たちです…」
地場は嘘をついていた。というよりも、あらかじめそう言えと言われているのだろう。
「あ…あのあの」
同級生の額には汗が滲み、その体が次第に震え始めた。言わなければならない台詞に、かなりの抵抗があるのだろう。彼はそれを必死で口に出そうと努力しているようだった。
=タンッ
林の手が素早く振られ、隣の木にバタフライナイフが突き刺さる。地場はビクリと震え、堰を切ったようにしゃべり始めた。
「あの、マールさんで抜かせてもらいます。すみません。本当にすみません」
自分がマールであることはどうやら知られているらしい。地場は壊れた人形のように何度も謝りながら、菊千代の目の前でズボンとブリーフを下ろした。少年グループにドッと笑いが起きる。地場は取り憑かれたように自慰を始めた。
「ねえ、やめなよ。そんなこと…」
菊千代は少年を見つめながら言った。念仏のように謝り続ける地場の姿が哀れに思えた。こんなことを続けていたら心の中にいる神様が悲しまれる。菊千代は本気でそう思った。
「あなたたちでしょ。彼に命令をしているのは」
菊千代が不良グループに向かって言った。少年たちはニヤニヤと笑いながら、素知らぬ振りを決めている。彼らの体からは粘着の霊気玉が沸々と湧き上がり、それは次第に情欲の色に変わりつつあった。ミニスカートから伸びるスラリとした脚線に、少年たちの視線が集まる。
「人聞きの悪い事言うなよ。それとも何か証拠でもあるのか?ん〜」
最初に口を開いたのは林流源だった。言葉に乗せながら林の霊的なナイフが飛んで来る。
彼には地獄霊特有のネチネチとしたオーラが影のように重なっていた。彼の場合は先祖霊にシャッコウ様が憑いているのだろう。それが類友を強力に引き寄せるのだ。もちろん本人はそれに気づいてはいない。それは凶暴な自我の一部として認識されているだけなのだ。
菊千代は地獄霊の影響を受けぬように、丹田に意識を集中し始めた。そこを中心に結界が広がってゆく。地獄霊の見えざる触手が矢のように降り注ぐ。が、菊千代の結界に触れると瞬時に消滅していった。
「痛てぇ!」
少年たちが頭を押さえた。林流源も喉を押さえゲホゲホと咳き込む。何事においてもそうなのだが、この浮き舟界の出来事と言うのは、その裏で動いているマンダラ界によってすべて左右されている。そこで行われた霊的駆け引きの相殺が浮き舟界という現実に作用するのだ。結界に弾かれればその強さの分だけ反作用を受けることになる。
林は直感的に何かが起きている事に気づき、菊千代に対して警戒心を露にした。それは彼に憑依している先祖霊《シャッコウ様》による警戒だったのかも知れない。別次元のレイヤーにおいて、林のシャッコウ様と菊千代の先祖霊が対峙している姿が、菊千代にははっきりと“観え”ていた。が、その均衡は思わぬ方向から破れる結果となった。
「おい、人の庭先で何をしている!」
背後から怒鳴りつけられ、少年の一人が自転車から転げ落ちた。他の少年も一斉に声の方を振り向く。
「やべぇ、グリズリーだ!」
林流源がそう叫び、少年たちは蜘蛛の子を散らすように走り出した。
「この糞ガキども!」
熊のような巨漢が菊千代たちの前に現れ、地場はわぁっと大声を上げた。男の手には手斧が握られている。地場はそれでちょん切られるとでも思ったのだろう。あわててブリーフを上げ、それを隠した。が、下ろしたズボンに足を取られ、つんのめってしまった。
「ごめんなさい。これにはわけがあって…」
菊千代は地場をかばうように男に言った。少年はブリーフ姿のまま、何度ものめりながらその場から逃げ出した。グリズリーは追い打ちをかけるように「うぉおおおお」と大声をあげた。可哀想な同級生はさらに大きな悲鳴を上げ、河原の土手を駆けて行った。
「ふっ…これでしばらく近寄らんだろ」
男はそう言うと手斧を肩に担ぎ、笑い声を上げた。
「あの、助けて頂いてありがとうございます」
菊千代はぺこりと頭を下げて男に礼を言った。その巨体から発する霊磁気の色を観て、彼が危険な人物でない事は分っていた。
「…お前、肝が据わっているな」
グリズリーはそう言うと、その少女をまじまじと眺めた。大抵の人間は自分の姿をみて逃げ出してゆく。まれに変わった人間(それは何故か女子高生に多かった)が、興味本位で自分に近づいてはくるのだが…。
「どうだ、茶でも飲んでいかんか?」
男は冗談半分にそう聞いてみた。
「はい…」
菊千代は自然とそう答えてしまった。どういう反応が返ってくるのか知りたくなったのだ。思った通り彼は驚いたような表情をした。目を丸くしたその顔がどこか可愛らしく、菊千代は思わず笑みをこぼしてしまった。
倉庫のような彼の住まいはガランとして、壁には何枚ものカンバスが立て掛けてあった。コンクリートの床に、ベッド、ソファー、テーブル、仕切りのような本棚が、無造作に置いてある。
「あんた、名前は?」
男はドリップコーヒーをいれながら言った。
「マール…です」
菊千代はモデル名を名乗った。本名でも良かったのだが、セーラー服なので気が引けてしまった。男は詮索もせずに「そうか」と答え、タバコに火をつけた。
「オレは片岡だ。見ての通り画家をしている」
男は白い煙を口から吐き出すと、ニッと笑って見せた。今度は菊千代の目が丸くなった。
《この人がシャローナの愛した…》
菊千代はまじまじと男の顔を眺め、それからキャンバスに描かれた描きかけの絵に目をやった。
「その子は最近モデルをしてもらっている、サリティアの学生さんだ」
片岡がコーヒーを口につけながら言った。その絵に描かれた少女をみて菊千代は息をのんだ。描かれていたのは後輩の末永サチだった。
《失踪した女子生徒の絵がアトリエから見つかっている…》
姉の言葉が脳裏に浮かび、菊千代は思わず背筋が寒くなった。なんという巡り合わせだろう。菊千代はそう思った。
「どうしたマール、顔色が悪いぞ」
画家は少女の表情を見て言った。変化に敏感なのは画家ならではの感性だろう。
「あ、いえ…知合いの子に似ていたもので…」
菊千代は動揺をごまかすためにコーヒーに口をつけた。
「サチという名だったかなぁ…近頃は姿を見せなくなったが…」
片岡はそういうと、菊千代の脚線美を目でなぞった。画家としての習性がすでに、その姿をカンバスに投影しているのだろう。
菊千代は彼の体から発する霊気玉を観察していた。彼が誘拐犯であるならば、その色に兆候が現れるはずだ。片岡から立ちのぼる霊気玉は白だった。それは親愛を意味している。
《誘拐犯がこんな清らかな霊磁気を発したりするだろうか?》
菊千代は疑問に思った。漂って来る霊気玉を手に受け、流れて来るイメージをみた。彼の記憶がその霊気玉を通して菊千代に流れ込んで来る。ここでモデルをしていた少女たちが映っていた。そのどれもが楽しげに笑っているのだ。末永サチも彼を父親のように慕っているように見えた。
《この人は誘拐犯などではない…》
菊千代はそう直感し、肩の力を抜いた。
「なあ、マール…」
彼は口ごもるように言うと、タバコに火をつけた。菊千代は片岡の顔を見ながら、次の言葉を待った。しばらくしてから、彼は重い口を開いた。
「もしよかったら…その」
男はそう口に出しかけ、頭をガリガリと掻き、また口を閉ざした。その巨漢に似合わず顔が真っ赤になっている。子供のようなその表情に菊千代は思わず笑みがこぼれてしまった。こんな顔をされたのでは断る事はできない。
「いいですよ。先生」
菊千代は彼を先生と呼ぶと、笑顔を見せた。
「いいって…おまえ」
「私、モデルになります。いいでしょ、先生?」
菊千代の積極的な申し出に片岡の顔がパッと明るくなった。そして再びタバコをくわえると、それをうまそうに吸った。その日から菊千代は、すでに教職を退いたその画家の教え子になった。