∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_4 神隠し
中学校を卒業する頃になっても、菊千代は姉のような二次性徴も起こらず、男子でも女子でもない中性的な雰囲気を漂わせていた。モデルの仕事も続けていたが、女子でデビューして以来、モデルのキャリアは女性のままだった。ちょっとしたメイクでも簡単に女性になれてしまうので問題はなかった。
事務所の方もいまさら男子でしたと公表するわけにもいかず、頭を悩ませていた。スポンサーも現場スタッフも菊千代を女性として扱う事で一致し、それは暗黙の了解となっていた。菊千代の着た衣装はことごとくヒット商品になる。そのジンクスが彼を特別扱いさせる結果にもなっていたのだ。
とはいえ、戸籍が男子である以上通学までも女装させるわけにもいかず、関係者はさらに頭を痛めていた。菊千代には専属のマネージャーが付けられ、現実の世界とモデルの世界を完全に区別して取り扱われることになった。素顔がばれない程度の化粧がほどこされ、モデルプロフィールが架空のそれと置き換えられたのは言うまでもなかった。
千織が高校を卒業したその年、菊千代は姉と同じ高校へと入学をした。中高一貫なので実際には同じキャンパスへ三年間ほど通っていたことになる。が、シャローナとはついにその機会が訪れなかった。菊千代が中学へ上がったその年、彼女は同じキャンパスの旧校舎で首つりを図り、自殺してしまったのだ。そのときの叔母夫婦の落胆ぶりは痛々しいばかりだった。叔母のみどりは仕事が手に付かなくなり、マネージャー業を引退してしまった。
自殺の動機にはいろいろな憶測が飛び交った。集団によるいじめ、教師との痴情のもつれ、性交の痕跡が見られた事からレイプによる他殺という噂もあった。が、そのどれも決定的な決め手に欠け、真相は闇の中だった。
聖サリティア学園は川沿いに広がるベッドタウンの一角にあった。モダンな形の門をくぐるとその左右にイチョウの木、正面玄関にはチャペルがある。元々は中高一貫のカソリック系女子高校であったが、少子化の波にさらされ、三年前から男女共学となった。菊千代は中等部の男子一期生にあたる。
一見清楚に映るキャンパスだが生徒の表情は暗く、陰鬱な空気が流れていた。というのも、ここ数ヶ月の間に二人もの女生徒が失踪事件を起こしていたからだ。その後、生徒は無事発見されていた。が、どちらも失踪時の記憶がなく、精神的にダメージが見られ、現在は自宅療養を余儀なくされていた。
シャローナが自殺して三年。生徒の間では彼女の不成仏霊が旧校舎を彷徨(ほうこう)し、生徒を神隠しに遭わせているという噂が流れていた。
「神楽先輩…」
片足立ちで靴を履こうとする菊千代の、その背後から黄色い声が聞こえた。中等部の後輩、末永サチと逢沢秀美だ。彼女たちは中等部時代からの後輩で、菊千代は声楽部の先輩でもあった。
「ん、どうしたの?ふたりそろって…」
中性的な声が辺りに響いた。答えながら菊千代は、下駄箱から溢れ出た手紙をどうしたら良いものかを悩んでいた。手紙からは求愛の霊気玉が立ちのぼり、その内容は確認するまでもなかった。それどころか開けて確認すれば、彼女たちの生霊が瞬時に飛んでくる。菊千代はその対応に苦労していた。
「あの…そのゴミの廃棄、手伝わせて頂いていいですか?」
後輩たちは“ゴミ”という言葉を強調し、菊千代にきたファンレターを指差した。
「いや、これはたぶん…」と言いかけた菊千代の言葉をスルーすると、後輩ふたりは手際よくそれをかき集め、スーパーの袋に入れてしまった。それからタイミングを合わせたように、菊千代の両腕にヒシとしがみついた。少女たちの腕からピンクの霊磁気が菊千代の腕へと流れて来る。
「先輩、いっしょに下校してくれませんか?」
末永サチが目を潤ませ見上げるように言った。
「横山先輩みたいに神隠しに会うのが怖いんです」
逢沢秀美も同じように目を潤ませた。二人ともかなり練習をしてきたらしい。恐怖は彼女たちの体からみじんも感じられなかった。
「え…横山さん、もう帰って来たはずだけど。神隠しというよりは単なる家出だったって噂だし…」
菊千代は少女達にそう返してみたが、その真剣な顔つきには思わず笑みがこぼれてしまった。
「でもでも、聞いた話では本人は全然覚えていないっていうし、それってやっぱり神隠しの特徴ないですかぁ」「じゃないですかぁ」
彼女達はそう繰り返し、更に強く腕にしがみついた。菊千代は根負けした。
「わかった、わかった。じゃあ今日は一緒に帰ろうか」
とそう言いかけた瞬間、菊千代はそれに続く言葉を飲み込んだ。背後から凍りつくような気配が菊千代に張り付いた。それはこの学園全体を流れる陰鬱な空気とどこか共通するところがあった。
==闇小路静香
振り向くまでもなく、その視線の主を菊千代は頭に描いた。
「せ、生徒会長!」
末永と逢沢はハモルように声を上げた。しがみついていた菊千代の腕を同時に離し、手を後ろに引っ込める。少女たちから溢れていたピンクの霊磁気が、一瞬にして凍り付いたようだった。
「あなたたち…」
シャナリとした足取りで近づくと、その少女は三人の顔を覗き込んだ。濃い霧をまとったような独特なオーラ。それは周囲にいる者の意志を縛り、思考力を失わせるような威圧感に満ちていた。3mほど後方にいる修道服の男性。丸い黒めがねをかけ、影のように控えているその男はたぶん彼女のボディガードであろう。菊千代はそう思った。彼からは聖職者としての雰囲気がまるで感じられなかった。
「わたくし、その方にお話があるのですけれど、よろしいかしら?」
生徒会長は菊千代の方を見ずに、中等部の生徒二人に話しかけた。高校生とは思えない大人びた口調。菊千代はその少女の口から流れる言霊の色を見ていた。その赤い言霊は二人の後輩を壊れた人形のように操り、コクコクと頭を振らせているのだった。
「そう、じゃあ気をつけてお帰りなさいね」
闇小路にそう促されると、二人の女生徒は「失礼しました」と声を上げ、逃げるようにその場を去って行った。
「可愛いわね、中等部の子って…」
そう言うと少女は初めて菊千代に目を合わせた。赤フチのおしゃれなメガネが印象的だった。ひと目であのブランドだと分る大きなロゴマーク。その部分を指で押し上げると、少女は菊千代の顔を覗き込んだ。
「えっと…あなた」
闇小路静香はわざと言葉を区切った。もちろん相手から名乗らせるためだ。こういった細かい心理操作が上に立つ者にとっては重要なのだ。
「神楽…菊千代です」
菊千代は笑みを浮かべそう答えた。
「そう、菊千代君ていうの…」
少女も口元に笑みを作りそう答えた。フワリとした風圧のようなものが菊千代の額に届く。そこを中心に髪の毛が絡みつくような、ゾワゾワとした感触が体に広がって来る。常人であるならば、それだけで彼女の意志のままに操られていることだろう。だが目に見えぬその触手は、まだ菊千代の表面をなでるに留まっていた。
「じゃ、いきましょうか。菊千代君」
「どこへでしょう?…えっと」
「静香でいいわ、君は特別に…」
菊千代の当惑した顔を見ながら少女が言った。名前で呼ばせるというのは、彼女にとってかなりスペシャルなことでもあった。
「わたくしのお屋敷にいらしてくださる?これから…」
少女は体を菊千代に近づけ、息を吹きかけるように言った。甘い香りが菊千代を包む。だが菊千代はそれを断わらなければならなかった。実はこれから撮影の仕事が待っているのだ。もちろんアルバイトは校則に違反するのでそのことは黙っていた。
「申し訳ありません」
彼はペコリと頭を下げた。いぶかるような表情を一瞬見せ、闇小路静香は後ろに控えている男を見た。菊千代の言葉が何かの間違いではないのかと、男に確認しているようにも思えた。それから大きく息を吸い、溜め息をつくようにゆっくりとそれをはきだした。
「面白いですわ…あなた」
闇小路は何か珍しいものでも見るように菊千代を眺めると、満面の笑顔を見せた。自分の思い通りにならない人間が存在する…その事実は彼女の中に何かサディスティックなものを感じさせずにはいられなかった。
「ではここでお話しましょう」
「神楽シャローナ…もちろんご存じよね。学校内で噂になっている…」
「はい」
少女の悪戯そうな目を見ながら、菊千代は答えた。シャローナが自分の従姉妹であることなど、当然彼女には分っていることだろう。
「ここ数ヶ月の間に、本校の女子生徒が二人も失踪し、記憶の無い状態で戻って来ています。わたくしたち生徒会としてはその事実に目を背ける訳にはいきませんの。もちろん警察は“悪霊”など信じませんし、当てになどできません…」
闇小路は“悪霊”という言葉を強調して言った。一連の失踪事件はシャローナと言う悪霊によって引き起こされた“神隠し”というのが生徒会の筋書きなのだろう。菊千代はそう思った。
「そこでわたくしたち生徒会は、神楽シャローナの除霊を旧校舎にて行いたいと思っていますの…神楽君にはそれに立ち会っていただきたいのだけれど、いかがかしら?」
闇小路はそう言うと菊千代の言葉を待った。身内のことをそこまで言われれば、普通の人間ならカチンと来るはずだ。《悪霊って言い方はないんじゃないですか?》そう言いながら興奮する顔が見たい、と少女は思っていた。
「わかりました…」
菊千代は静かに答えた。
「シャローナは確かに旧校舎でさまよっています。我を忘れて人に危害を加えないとも限りませんからね。僕も従姉妹のことが気になっていたところなので、お手伝いできるならお付き合いしますよ」
「で、決行はいつでしょう?」
「え…っと」少女のキョトンとした顔。
「今週…いえ、文化祭の前夜祭がいいわ。それに合わせて…深夜0時でどう?」
闇小路は用意していた言葉を、菊千代にあっさりと交わされてしまい、落ち着きのない口調でそう答えた。本来なら従姉妹である事実を突きつけ、ジリジリと追いつめるはずであった。ところが捕らえどころのないこの少年を前に、自分の悪意がことごとく吸収されてしまうのだ。イニシアチブを取れない自分に、静香は苛立ちさえ感じていた。
「わかりました、静香様。じゃあ、僕はこれで失礼しますね」
菊千代はペコリと頭を下げて少女に背を向けた。闇小路静香は遠ざかるその姿をしばらく見つめていた。そして、軽く唇を噛みしめた。突如として起こったこの感情を、どう処理してよいのかわからなかったのだ。それは怒りでも憎しみでもない、それまでに感じた事のないものだった。