∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_3 出生秘話
その赤ん坊を取り上げた時、医者は男の子だと母親に告げた。だがその子には睾丸が存在しなかった。その後の診察で女性器らしきものがあるとわかり、再検査の結果子宮さえも存在する半陰陽である事がわかった。男子としては不完全だが、女子としては未熟ながらもほぼ完璧な機能を有する両性具有。のちに菊千代と名付けられたその子供は二つの性別でこの世に生を受けた。
役場には男子として登録された菊千代だが、その後の結果を踏まえてどちらの性にすべきか、神楽家で話し合われた。父の竜之介は女子として再登録し、本人が成長してから自分の性を決めさせるべきだと主張した。が、母の夏美は男子として育てると譲らなかった。
夏美がそう主張するのにはわけがあった。というのも神楽家は代々女系家族で、男子が生まれにくく婿養子をもらう事で存続して来たからだ。もちろん竜之介も婿養子であった。ゆえに菊千代が男子として育てられることになったのは、いわば家系にまつわる因果の要素が強かったのである。それがのちに、菊千代に試練を与える事になろうとは、誰も想像しなかった。
菊千代に関する不思議な逸話は、幼少の頃からすでに始まっていた。その特殊能力に最初に気づいたのは、父親の竜之介であった。画家である竜之介は自宅のアトリエで、子供たちを遊ばせておくことが多かった。母親は大学病院での仕事が忙しく、ベビーシッター役は主に父の役目でもあった。
創作の筆を休め、父は二人の子供をふと振り返った。数羽の雀が窓辺にとまり、菊千代の頭や肩にも乗っていた。長女の千織は面白がって手をたたいている。ごくありふれた光景のようにも映るのだが、これは驚くべき事だと竜之介は思った。雀である。手乗り文鳥とはわけが違うのだ。用心深い自然の野鳥が逃げずに菊千代と戯れているのである。
さらに驚くべき事があった。長女が菊千代に簡単な指示を出す。すると雀がそれに従って行動するのだ。例えば「頭に乗って〜」と言えば菊千代の頭に乗り「今度は肩〜」と言えば肩に雀が乗るのだった。それは一見、姉の能力にも思えるのだが、鳥を無言で操っているのは弟の方だと父は判断していた。姉は弟に指示を出しているにすぎないのだ。竜之介はそのことにも驚きを隠せなかった。まだ一歳にも満たない赤ん坊が姉の言葉を理解していたことに…。
それ以来、父は菊千代を中心に絵を描くことが多くなった。《菊千代と鳥》《菊千代と姉》《菊千代と猫》様々なモチーフを菊千代と組み合わせるだけで、絵はひとりでに出来上がってゆく気さえした。様々な色彩が自然と湧き上がり、生き生きとした空間がキャンバスの中に浮かび上がるのだ。
竜之介に対する絵の評価も以前とは違うものになった。N展を始めとする絵画コンクールでは入賞に名を連ね、彼の開く個展には長蛇の列が絶えなくなった。この世界で今ひとつパッとしなかった無名画家の知名度は、瞬く間に上がってしまったのだ。
菊千代の秘話はこれだけに留まらなかった。母の夏美が息子の奇跡を見たのは、菊千代が一歳、千織が四歳の時だった。
「ママ、母の日のプレゼントよ…」
長女から手渡された鉢植えを受け取ると、夏美は嬉しそうに娘に礼を言った。だがその鉢はまだつぼみの花ばかりで、夏美は礼をいいながらも(おやおやと)内心苦笑していた。が、夏美を仰天させたのはそのあとだった。
「菊、お花を咲かせて…」
千織が言うと、菊千代は小さな手で花に触れた。するとつぼみだったカーネーションが一斉に咲き出したのだ。千織はパチパチと手を叩いて喜んでいたが、夏美は呆然とした。もちろん医者という立場でその事実を鵜呑みにすることは出来なかった。今にも咲く寸前だったつぼみが、息子が触れた手の体温で偶然花開いた。そう考える方が自然だった。超能力などと言うものは、彼女の中では幻想の産物でしかなかったからだ。
夏美は菊千代の起こす様々な現象について、その一切を保留にすることに決めてしまった。花のつぼみが一斉に咲く、死にかけていた魚が息を吹き返す、一度枯れた植物から新芽がでる。その他あり得ないことを目の当たりにしても“保留”と言うレッテルを貼ってしまう事で精神の安定を保つことを選んだのだ。だが皮肉と言うべきか、幸いと言うべきか、そういった脳の逃避システムに関する論文《脳は安定の為の現実を選ぶ》を発表すると、その反響は海外にまで及んでしまい、本人が一番驚く事となった。逆の意味で、母は菊千代からの恩恵を受けることになったのだ。
夏美の姉、みどりが遭遇した秘話は、そういった超常的な類いものではなかった。みどりには一人娘のシャローナがいた。名前の由来は父親がフランス人であったためだが、その可憐さからモデル事務所に声をかけられ、シャローナは幼いながらも仕事を持つようになった。だが自尊心が強く、気分屋な少女はマネージャーである母を手こずらせる事が多かった。
ある日のこと、一日だけ子供たちを預かってくれるよう妹から頼まれ、みどりは菊千代と千織を撮影現場に連れてゆくことになった。千織とシャローナは歳も近く仲もよかったのだが、その日のシャローナはいつにも増して不機嫌だった。従姉妹たちと遊びたいというのが本音だったのだろう。シャローナは仕事をしたくないと駄々をこね始め(またかよ…)という顔でスタッフは互いに顔を見合わせた。ハプニングが起きたのはその時だった。
六歳の菊千代がスタジオのセットにツカツカと歩み寄り、スタッフに愛らしいポーズを取って見せたのだ。カメラマンはすぐにその被写体にレンズを向けた。これは絵になると思ったのはプロとしての直感だったのだろう。スタッフも面白がり、照明や小道具をセットし始め、本番さながらに盛り上がり始めたのだ。
男の子だと分ってはいたが、メイクは菊千代に女の子の衣装を用意した。服を着せられた菊千代は少女以上に少女らしかったのだ。そしてシャローナと遊んでいた千織も楽しそうだと言って弟に加わり、いつしかシャローナを含め三人の写真撮影になってしまった。
驚いたのは母のみどりだった。シャローナがいつになく生き生きと笑っているのだ。彼女のこんな笑顔を見るのはどのくらいぶりだろう。と、みどりは思った。シャローナは今年で十一歳、モデルとしては7年のキャリアがあり、売れっ子だった。だが子供としては遊びたい盛り、それを我慢して仕事をこなして来たのだ。我が子のわがままな性格は、それを強要して来た自分に責任があると、みどりは心を痛めていた。
菊千代はみどりにとって救いの神となった。何よりも菊千代を起用した商品の売れ行きは群を抜いていたのだ。スポンサーは大喜びし、モデル事務所はすぐにでも子供たちと契約したいとスカウト話を振って来た。
みどりは菊千代と千織を自分に預けてくれないかと夏美に頼み込んだ。夏美は当初、竜之介の手前それは困難だろうと思っていた。彼もモデルとしての菊千代を必要としていたからだ。だがその後、みどりの願いはあっさりと叶うこととなった。
父、神楽竜之介が蒸発したのは、その件があってしばらくのことだった。実を言うと蒸発はこれが初めてではなく、十二年間の結婚生活の間に三度程あった。妻の夏美は《またあの人の悪い癖がでた…》と思う程度で、それ以上の詮索はしなかった。
《旅に出て自分を見つめ直す》というのが竜之介の口癖だったからだ。実際、竜之介はある種のジレンマを抱えていた。菊千代ばかりをモチーフに描き、いつしかそれは《菊千代を描くから絵が評価されるのでは?》というコンプレックスに変わっていた。
父の蒸発は起こるべくして起こり、それはたまたまみどりの願いと重なった。夏美はそんな風に思っていた。夏美にとっても姉の申し出はありがたいことだった。竜之介のいない今、子供の面倒みてくれる者が必要だったからだ。
T大学付属病院で准教授をしていた夏美だったが、発表する論文はどれも独創的で、海外でも広く注目されていた。各方面でひっぱりだこの彼女は多忙を極めていたのだ。さらに地方や海外での講演が日増しに増え、子供たちの面倒をみるのが困難だったのも理由のひとつになった。
父が旅に出たという事実は菊千代と千織に多少のショックを与えた。が、新しい生活の前にそれもすぐに薄らいで行った。菊千代と千織は叔母夫婦に預けられ、シャローナを含め生活はいっそうにぎやかなものになった。菊千代が何よりも嬉しかったのは、祖母の絹と暮らせることだった。祖母も菊千代に対しては特別な感情を抱いていた。
ここでも菊千代の逸話は絶えなかったのだが、絹はそれに驚くこと無く、特別な事として扱わなかった。菊千代が鳥や動物と会話をしても、植物や魚を生き返らせてもニコニコとそれを眺めているだけだった。そして菊千代と二人だけになると彼にこう言った。
「ええか、菊。人様の前であまりそれやったらいかんよ」
絹はゆっくりと菊千代に言った。
「どうして?おばあちゃん」
菊千代は聞いた。おばあちゃんだって本当はできるのに…。菊千代はそう思っていた。
「それはの、ここが浮き舟界だからじゃよ。菊の力はマンダラ界のもの。向こうの力をこちらに持って来ちゃいかんのじゃよ。でないと浮き舟たちが驚くでなぁ」
絹はゆっくりと言い聞かせた。今でこそただの老婆だが、祖母はかつて大霊能者として知られた存在だった。その力で多くの人を助けたりもしたが、マスコミがそれを嗅ぎつけ、あちこちの新興宗教からしつこく勧誘されだすと、絹はその能力を封印し二度と使わなくなった。
「血は争えんの…」
孫に受け継がれたその力を見て絹は思った。そして自分の二の舞を踏ませぬよう、菊千代には能力者としての心得を教えてゆこうと考えていた。
実際この祖母の存在がなかったら、たぶんノイローゼになっていたと、後に菊千代は回想した。モデルの仕事で人々の注目を浴びだすと、生霊の問題が発生するからだ。
菊千代は男子として育てられてはいたが、仕事では女子の服を着せられる事が多かった。通販カタログが主なので一般的な知名度こそなかったが、それでも人目に触れれば人の思念が生霊となって飛んで来る。それが性目的であったならなおさら深刻だ。菊千代は得体の知れない生霊に囲まれ、悩まされることが多くなった。その上彼は死霊さえもごく普通に見えてしまうのだ。
「おばあちゃん、この人たちは何者なの?」
しつこく憑きまとう生霊を前にして菊千代が言った。
「これはな、生霊さまと言って、浮き舟から飛び出てしまった四つ目の霊体じゃよ」
絹はそう言うと、短冊を前に線香に火をつけ、霊に向かって感謝の言葉をつぶやいた。それを見て菊千代は、思わず声を上げてしまった。祖母の体から金色のシャボン玉が溢れ出して見えたのだ。
「おばあちゃんの体から出て来るきれいな玉、これはなんなの?」
菊千代は嬉しそうに聞いた。その玉に触れると回りにいた生霊が、スウッと消えてゆくのがわかるのだ。
「これはな、霊気玉というものじゃよ。嬉しい気持ちでいるとこんな色になるんじゃ。ほら、菊もやってみれ」
絹はそういうと、孫に火のついた線香を一本手渡した。菊千代は小さな手にそれを持つと、香炉に立て手を合わせた。
「なんて言ったらいいの?」
菊千代が祖母に聞いた。
「感謝の言葉ならなんでもええよ。生かしてくださってありがとうございます。ってなぁ」
絹がそう言うと、菊千代は祖母の言葉を繰り返すようにつぶやいた。すると何とも言えぬ気持ちが体の中から湧き上がり、手のひらから金色の玉が、湯気のように湧き上がって来くるのがわかった。
以来、これが日々の習慣になった。父方の先祖に一本、母方の先祖に一本、そしてその他もろもろの縁ある霊に対して一本と、計三本の線香を上げ感謝の言葉で霊を癒す、それによって多くの霊障問題は解決できた。
祖母の教えに従って、能力を封印した菊千代ではあったが、不思議な現象そのものが消えたわけではなかった。シャローナや千織には彼にまつわる逸話がまだ続いていた。
叔父であるピエール神楽は日本びいきのフランス人で、その家屋も外国人にありがちな、和風感覚を取り入れた妙な洋館だった。大正風建築と言えなくもなかったが、浴室は旅館さながらの広々とした湯船があった。
そのせいもあり、風呂場は子供達の格好の遊び場となっていた。当時シャローナと千織の間で盛り上がっていたのは、体中に石けんをつけ合い、泡だらけにして菊千代にこすりつけるという遊びだった。
裸になると決まって、菊千代は姉と従姉妹の興味の的になっていた。少女たちは菊千代の男性器を面白がり、比べてみたり触ってみたりしていたのだが、それは性に対する無意識な初期衝動だったに違いない。特にシャローナにはその意識が強く、千織にもその傾向が見られた。シャローナは十二歳、千織は十歳、菊千代は七歳と同じ小学生であっても年齢には開きがあり、幼い菊千代には彼女達の不可解な行動が、理解出来なかったに違いない。
泡だらけにされた菊千代は人形のように寝かされ、少女たちは体をこすりつけるように前後運動を始めるのだ。すると彼女達の体から黄色い玉が沸々と湧き上がり、菊千代は横たわったままそれを眺めるのだった。もちろんその玉が何なのかは分っていた。祖母が教えてくれた霊気玉だ。なぜ黄色い色なのかは幼い菊千代には不明だった。
黄色の霊気玉は少女と自分の体から立ちのぼり、それらがシャボンの泡に重なるとおびただしい泡を発生させるのだ。千織とシャローナはそれを面白がり、浴室は瞬く間に泡で一杯になってしまうのだった。
シャローナ曰く、体をすばやく動かすのがコツのようだった。が、それを続けていくうちに呼吸はしだいに速くなり、泣くような声色に変化した。千織はその声に驚き、動きを止めてシャローナを見つめた。霊気玉が黄色からショッキングピンクへと変わった瞬間、シャローナは叫ぶように声を上げ、体を反らした。小刻みに震えるその痙攣が菊千代の体にも伝わって来る。自慰行為による絶頂を向かえたのだ。
更に、驚くべき事が起こった。なんと菊千代にもそのオーガズムが起こったのだ。いや、正確に言えば、菊千代の体が絶頂を迎えた訳ではなく、シャローナの肉体を使って感じ取ったと言うべきであろうか。菊千代はシャローナの視点に立ち、自身の肉体を眼下に見据えていたのだ。シャローナの視点は馬乗りになった自分自身を見上げる形になっている。つまり、二人の間に肉体交換が行われたのだ。
シャローナと菊千代は、しばし呆然と見つめ合っていた。千織は訳が分らず、キョトン二人を眺めている。しばらくして二人の意識が互いの肉体に戻ると、菊千代とシャローナは大声で笑い始めた。その話を千織が聞くと、彼女はとても悔しがり、次は自分の番だと張り切った。
その遊びは入浴のたびに行われ、千織と菊千代の間でも肉体の交換が起こるようになった。だが不思議なことにシャローナと千織の間では起こらなかった。
その後もバリエーションを変えながら、交換遊びは行われた。が、娘たちのただならぬ声は叔父のピエールに知られる事と成り、その遊びは直ちに禁止されてしまった。
シャローナは中学に上がり、肉体の二次性徴が著しくなると、二人から次第に距離を置くようになっていった。その後、禁じられた遊びは千織と菊千代の間だけで時々行われていたが、二次性徴を迎えた姉は、菊千代にも距離を置くようになり、交換遊びは忘れ去られていった。