∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_2 楽園
浮き舟は皆、その中心に《セフィロト》を持っている。マンダラ界では肉体の事を《浮き舟》と呼び、人間界ではセフィロトの事を《心》と呼んでいる。
浮遊霊である雪丸は菊千代に憑依し、今、マンダラ界にある菊千代の心に来ていた。セフィロトは別名《生命の樹》とも呼ばれ、霊的には広大な湖面にそびえ立つ大樹のように見えた。
「なんで涙が出てくるんだろう…」
雪丸はその光景に全霊が打ち震えてしまった。霊的な涙がとめどなく溢れだし、霊体がみな溶けて無くなるのではないかと心配になるほどだった。流れ落ちた涙が樹皮に吸収されると、そこに愛らしい花を咲かせ、あたり一面がクリスタルの花園に変化した。雪丸はそれほどまでに感動していたのだ。
「これが菊千代の心の世界…」
雪丸が生命の樹に訪れるのはこれが初めてではなかった。けれど、菊千代のそれは他のどれとも違っていた。なんと言えばいいのだろう。美しいとか、清らかだとか、ありきたりの表現では言い尽くせない神聖な空気が森全体に満ちていたのだ。
「ああ、なんて気持ちがいいのかしら…」
楽園という場所があるとするなら、ここはまさに楽園そのものだった。雪丸は降り注ぐ光を霊体に浴びながら、大きく伸びをし、花園に仰向けになってみた。すると蝶の羽をもった色とりどりの妖精たちが周囲に集まり、あたりはいっそう華やかになった。空は青く晴れ渡り、くっきりとした虹が上空にかかっている。生命の樹を見上げると、中腹あたりがまばゆく光り輝いているのがわかった。
「あれは…?」
雪丸は身を起こし、その光源をじっと見つめた。光源といってもまぶしい程ではなく、やわらかな光の波がとめどもなく押し寄せ、それがセフィロト全体を照らしているのだ。ここの神聖な空気は、あの源によって造り出されているに違いない。雪丸はそう思った。
「あれは神社…きっと…そうだわ、神様のいる神社よ!」
雪丸はそう直感した。以前、他の浮き舟に憑依をした時《セフィロト》のちょうど同じ位置に神社があったのだ。雪丸はその時の事を思い出した。
「あの時は神様のいない、荒れ果てた神社ではあったけれど…でもここは違うわ、きっと神様がいるはず!」
雪丸は大きく頷くと、光源を目指してフワリと飛び上がった。いても立ってもいられない気持ちだったのだ。セフィロトは大樹と表現されてはいるが、あまりの巨大さに樹には見えず、どちらかと言えば森の中にいる様だった。そしてその光源といえば、行けども、行けども、その距離が縮まる様子のないとても奇妙な光だった。
「もぉ、どうなっているのかしら…」
雪丸はとうとう息を切らしてしまい、枝の上に腰掛けてしまった。極彩色の鳥たちが枝々にさえずり、雪丸の様子を眺めている。
彼女はしばらくボーっとし、遠くの景色を眺めていた。同じような大樹があちらこちらに点在している。間近でみると巨大すぎてわからないのだけれど、遠目でみるとそれぞれの樹はマングローブのような根を持ち、樹としてのシルエットはキノコのように横に広がって見えた。みなそれぞれに水源としての湖を持ち、何万という根で霊的命を吸い上げているのだ。
土と水と大気、これらはそれぞれ第一霊体、第二霊体、第三霊体に相当する…雪丸は以前菊千代から教えられた言葉をゆっくりと口にしてみた。
「遠くにも大樹が見えるだろ。あれは同じ霊線をもった《家族や親戚の心》だよ。つまりね、人間たちの霊体と心はマンダラ界(の土と水と大気)で繋がっているんだよ」
雪丸は菊千代のやさしい顔を思い出した。
「じゃあれは誰のセフィロト?…お姉さん?」
記憶の中の菊千代にそう問いかけ、雪丸は寂し気にうつむいた。浮き舟界での出来事が頭をよぎる。菊千代はいま何者かに憑依され、病の床にふせっているのだ。
「ここで道草してちゃいけないわね…」
雪丸は顔を上げ、枝を蹴るようにして飛び上がった。まわりにいた妖精たちも面白がり、雪丸のまねをして飛び上がった。
「そうね、まずは菊千代に憑依した悪霊の正体を突き止めなきゃ…」
とは言うものの、雪丸には何をどうしていいのかわからなかった。途方に暮れていると、一匹の妖精が羽を激しく震わせ始めた。同調するように他の妖精たちも忙しく動き始める。
「どうしたのかしら?妖精さんたち…」
妖精たちの行く方向に意識を向ける。と、太い枝の下方から、フワリフワリと何かが昇ってくる。雪丸はその物体を目で追った。
《霊気玉…?》
彼女はそう思った。それは見た事もないような漆黒の霊気玉だった。クリスタルの樹皮にペタリとひっ付くと、その黒い瘤からタールのような液が滴った。昇ってくる玉はそれだけではなかった。キラキラと光る黄金の霊気玉が、追うように昇ってきてはベールで瘤を覆い、消し去ってゆくのだ。それらは次第にその数を増し、枝のあちらこちらに瘤を作っては消し去るという相殺を繰り返していた。
「この霊気玉はどこからやってくるのかしら?」
雪丸は太い枝(もしかしたら運動場よりも広い)の端まで飛んでゆき、そこから下界を覗いてみた。遥か下方に湖面が見え、そこから霊気玉が昇ってくるのがわかった。たぶん湖底にわき出した霊気玉が、湖水をユラユラと昇ってくるのだろう。
「そっか、黒い霊気玉は侵入者の霊磁気なんだわ。黄金色は多分ご先祖様ね」
雪丸はそう納得し、二種類の玉の行動を観察した。
「湖底というのは土だから菊っちの第一霊体…憑依者は現在そこにいるんだわ!」
第一霊体に憑依したそいつは湖に浸透し、第二霊体をも憑依しようとしているように思えた。
「その後は大気に移り、セフィロトを支配…」
雪丸はそう考え、愕然とした。このままでは菊千代の心まで乗っ取られてしまうではないか。大気を伝わり他のセフィロトまで飛んでゆけば、家族の霊線にまで影響を与えかねない。そう思った。
=ポフン
雪丸の後ろで何かの弾ける音がした。
増え続ける黒い霊気玉のその消去が間に合わなかったのだろうか?取り残した瘤の一つから黒い胞子が飛び散った。すると胞子の落ちた地面から芽が生え、茎が伸び、花がポンと咲いたのだ。漆黒の花びらを持つ花である。
「…そんな」
雪丸はその光景に言葉を失った。黒い花を中心に、回りの花々が萎れ始めたからだ。もちろん黒花も同様で、黄金のベールに包まれては萎れてゆく。しかし徐々にではあるが、黒花がその数を増し、優勢なっているようにも思えるのだ。
「ど、どうしたらいいのかしら…」
雪丸は困惑して言った。このままでは楽園が黒い花で埋め尽くされてしまう。雪丸は泣き出しそうになった。妖精たちもその顔を心配そうに覗き込んでいた。そのうちの一匹が雪丸の目の前でクルリと円を描いた。と、雪丸の脳裏に映像が流れ始めた。それは菊千代が送って来た想念のひとつだった。高校時代の記憶である。
「あたしにこの映像を見せてどうするの?」
雪丸は首をかしげ妖精に尋ねた。すると妖精たちは一匹、また一匹と円を描き始めた。やはりその度に過去の映像が流れてくる。映像にはそれぞれ、菊千代といっしょにある人物が映っていた。その人物がよく写るアングルで映像を止め、さらにくるりと回って見せる。その姿が煙のようにポンと消え、ひらひらとした紙に変化した。
「なあに、これ?」
雪丸はその紙を覗き込んだ。それは女性のスナップ写真だった。他の妖精も次々に円を描き、雪丸の手には男女さまざまなスナップの束ができた。
「う〜ん、わからないわ。この人たちが憑依者だとでも言うの?」
雪丸は謎掛けにも似た妖精の行動に戸惑っていた。が、この事態を招いている原因が、過去の菊千代と何らかの関連があることは理解できた。
「そうね、こうなったら焦ってもしかたないわ。霊気の花を一つ一つ見て行きましょ」
雪丸は手にしたスナップを見ながらそうつぶやいた。霊気の花とは一種の記憶媒体で、過去の経験がこのセフィロトで花となって生まれ、記憶はその中で永遠に繰り返されている。その映像は実際のリアリティを持ち、音や感触、その時の感情さえも忠実に再現されているのだ。
「でも…あたしひとりで大丈夫かしら?」
雪丸は少し不安だった。以前、花の中で追いかけられ、捕まりそうになった経緯があるからだ。記録された映像だからと油断はできない。そこに記憶されている者たちは感情を持つ思念体であり、実際にその世界の中で生きているのだから…。
「覗くからには絶対に彼らと接触してはいけないわ」
雪丸はそう心に言い聞かせた。
「取りあえず下の枝から様子を見ようかしら…」
そうつぶやきながら、雪丸はその大きな(大人の背の高さほどもある)霊気の花を一つ一つ観察していった。
菊千代のセフィロトは色とりどりの霊気の花に満ちあふれていた。その多くは暖色系だが、中には寒色系が密集する枝もあり、時期によって辛い時代があることを伺わせていた。更に観察すると、どの霊気の花も付け根のところが光っていることに気づいた。
「ふう…」
しばらく森を散策し、雪丸は深い溜め息をついた。その数があまりにも多すぎて、実際、どの花の中に入ればいいのか見当がつかなかったからだ。手当たり次第に見て行けば、菊千代の生きた時間分を要しなければならない。雪丸は半ば途方に暮れながら、その花の付け根を撫でた。指先が花の光る部分に触れる。
「えっ!」
雪丸は思わず声を上げてしまった。頭の中をフラッシュバックするように一瞬で映像が流れてゆく。花の中に入らなくても光る部分に触れるだけで、その記憶のダイジェストが流れてくるのだ。
「そっかぁ、ここにはまだまだ知らない事がいっぱいあるのね…」
雪丸は花を見て思わず感心した。それを知ってからいくつかの花に触れてみると、花は下方の枝にいくほど昔の記憶を宿した花が多くなり、上の枝ほど現在に近い霊気の花が咲くことがわかった。これならば道に迷う事も無い。雪丸はそう思った。
「菊っち、待っていてね…今、助けにいくから…」
雪丸はそうつぶやくと、手にしたスナップ写真を少しの間見つめていた。そして、霊気の花を慈しむように触れ、菊千代の物語を読み始めた。