∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
Scene_1 プロローグ
最初は悪夢を見ているのだと思っていた。あたりに立ちこめるただならぬ気配。蠢く死霊の群れ。ベッドから身を起こしその気配がまだ消えぬと気づいた時「これは現実なのだ」と菊千代は実感した。ガウンを羽織り、居間へと通じるドアを開ける。充満した邪気が居間から流れ込み、ヌルリとまとわり憑く。
「これは…!」
菊千代は驚き、目を見張った。室内灯をつけても邪気の薄らぐ気配はなく、二十畳ほどの空間には何百という死霊がひしめき合っていたのだ。
菊千代は全身に気合いを込めると息を止め、濃い霧の中を泳ぐようにリビングの中央へと歩み寄った。低いテーブルの上に短冊を立て、香炉を置く。手にした線香に火をつけると、周囲に漂っていた死霊の気配が音もなく引いてゆくのがわかった。かといってそれは消えてしまうわけでもなく、香炉を中心に、それを避けるかのように広がり、部屋の隅々にひしめき合っていたのだ。
【神楽家先祖代々の霊位】
三十センチほどの短冊には墨文字でそう書かれていた。厚紙の短冊はそう書かれることによって位牌の役目を果し、先祖霊の依り代となるのである。火のついた二本の線香からは煙が立ちのぼり、短冊にからむように漂っている。その状態で菊千代は、先祖に対して感謝の祝詞を捧げた。
漂っていた煙からフラッシュに似た閃光が起こり始める。それはさながら雲間に光る雷光のようにも映った。もちろんそれは霊的に“観える”のであって、知覚できなければただの煙にしか見えない。むろん菊千代にはその能力があった。その霊眼には何千という先祖が、煙に乗った感謝の霊磁気を受け取っている、その姿が見えていた。それが雷光の瞬きとなって観えるのだ。
《すごいね、菊っち。神楽家のご先祖様って…!》
菊千代の霊聴に少女の可愛らしい声が届いた。雪丸である。実を言えば彼女も浮遊霊の一人なのだが、とある事件をきっかけに菊千代と出会い、それ以来居候を決め込んでいる、言わば先祖公認浮遊霊なのだ。
「うん、そうだね。雪っち」
菊千代もその光景を見ながら頷いた。神楽家の霊団は菊千代をぐるりと囲み、死霊たちを寄せ付けぬよう隙間無くガードをしていた。雪丸も陣内にいる。
「今夜はいつになくにぎやかだね(笑)」
菊千代は苦笑をし、さらに一本の線香を加え、感謝の祝詞を捧げた。言葉は先祖にではなく、その他諸々の霊に対するものだった。感謝の磁気が線香の煙に乗ると、周囲の無縁霊たちが一斉に食らいつき始める。そして己の気持ちが癒されると、浄化され、ひとつまたひとつと消えて行くのだった。
『しかし、この邪霊たちはどこから湧いたのだろう…?』
菊千代は邪霊たちの様子を見ながらつぶやいた。時刻は午前二時。丑三つ時といえば、まさに《物の怪》たちが徘徊しやすいレイヤーだといえる。だがそれだけの理由で邪霊が侵入できるとは考えにくかった。結界が張られたこのマンションに侵入するためには、何らかの媒体が必要になるからだ。
「ふー、おいしかったぁ。菊っちの霊気玉は最高ね」
煙に乗った霊磁気のおこぼれをもらうと雪丸が言った。雪丸も同じ浮遊霊なのだが、他の邪霊のように消えてゆく事はなかった。それは菊千代からみても謎のひとつであるのだが、過去の記憶を一切持たない雪丸からは、その理由を推し量る事は出来なかった。ただ、考えられることのひとつには…。
菊千代がその可能性を頭に描いたとき、不意に洗面所に物音がした。続いてドスドスという足音が響き、居間に通じるドアがキイと開いた。
「う〜、気持ち悪りぃ〜」
赤いパーティドレスを着た女性がドアから現れ、なだれ込むようにソファーに転がった。短めのドレスの裾がめくれ上がり、あられもない姿で大股を開いている。姉の千織である。
「菊ぅ、お水頂戴…」
千織はそう言うと腕をあげ、そのきれいな手で空(くう)をつかむしぐさをした。
「はい、姉上…随分遅くまで飲んでいらっしゃったのですね」
菊千代はキッチンで水を汲みながらそう言うと、姉の手にグラスを近づけた。が、神楽家の先祖がそれを引き止めた。彼らは一様にそれが危険であるという思念を送ってくるのだ。
《どうしたのかしら、ご先祖様たち?》
雪丸が菊千代に伝心で聞いた。彼女は自分の形状を変え、ソファーの上をふわふわと飛んでいた。白い帽子とそろいのワンピース。雪丸お気に入りのスタイルだ。
「うん…何かおかしいね」
菊千代が雪丸に向かって言った。とその瞬間、菊千代は強い力で腕を引かれ、バランスを崩しソファーに倒れこんだ。水の入ったコップが宙を舞い、透明な水が一筋の胡を描いてゆく。菊千代はソファーの上に仰向けにされ、押さえ込まれるように姉の千織を見上げた。
=パシャッ…
フローリングの床に水しぶきがあがり、ゴトリと音を立ててコップが落ちる。
「くふふふふ…」
千織は薄笑いを浮かべた。酒に酔った目で弟の顔をまじまじと見つめる。
「姉上、どうなされたんですか?(笑)」
菊千代は身動きの取れぬまま姉に向かって微笑んだ。が、押さえつけている者が姉でないことに、菊千代はすでに気づいていた。肉体はもちろん姉の千織だろう。だがよどんだ目の奥にいるのは、明らかに異質の者だった。
==憑依 狐霊か?
菊千代はそう思った。姉は何者かに憑依されている。それならば突如として部屋に湧いた死霊の意味も理解ができた。千織が媒体となり、結界の中に霊を引き込んだのだ。
「菊千代、お前…さらに綺麗になったな」
絞るような声が千織の口を通じて吐かれた。先祖霊たちがオーブとなって千織の体にまとわりつく。
「…ありがとう。でもあなた、誰だったかしら…?」
菊千代はわざと女性っぽく聞いてみた。が、憑依者はその質問に答えずに、そのきれいな指先で菊千代の衣服の帯をスルリとほどいた。ガウンがはだけ菊千代の白い肌がのぞく。朱に塗られた爪がツーっと肌をなぞり、白いボクサーショーツの上で千織はその手を止めた。
「ふたなり…だったな」
千織は目をつり上げながらそう言い、まとわりつく先祖霊たちを振り払った。そして弟のそれをいたずらしながらこう続けた。
「ふふふ、男性機能は相変わらず止まったままだな。使った事はあるのか(笑)」
姉は弟を見下ろしながらクスクスと笑い声を上げた。その冷笑はあたかも、菊千代のそれが男としては使い物にならないと言わんばかりだった。たしかに菊千代の性器は勃起させた状態でも、チョークほどの大きさにしかならなかった。しかも両性具有の体には睾丸さえもなかったのだ。憑依者は股間の更に奥まで指先をすべらせ、感触でそれを確かめた。
「欲しかったんだよ…両性具有の“浮き舟”オレはこの日をどれほど待ちわびたか…」
千織は興奮した口調でそうつぶやくと白目を向き、大きく口を開けた。菊千代はその口から這い出た物を見て息をのんだ。黒々とした憑依者の本体が液状の固まりとなって流れ出してきたのだ。もちろん知覚できるものだけに観える霊現象である。
「菊っち、早く逃げて!」
傍らで心配していた雪丸が叫んだ。だが菊千代の体は憑依者の怪力で押さえつけられ、身動きがとれなかった。瞬間、神楽家の先祖霊たちが光となって一斉に憑依者を包み込み始める。黒い固まりはたちまち金箔のベールで包まれ、繭のようになった。
「邪魔をするなぁぁぁああ!」
憑依者は吐き捨てるように叫び、菊千代に唇を重ねた。大量のゼリーが無理やり口へと注がれる。そんな感触と共に食道の中を黒い固まりが流れ込んでくる。が、菊千代はそれに対し抵抗をしなかった。むしろ積極的に飲み込もうとさえしていた。
《これで姉から憑依者を取り除くことができる…》
彼女はそう思っていた。菊千代は姉を正気に戻す為、あえて憑依を受け入れたのだ。
「この感じ…」
菊千代は己の身に気だるさを感じた。しびれるような快感が足の先まで伝わってゆく。
「これと似たような経験を前にもしている…」
菊千代はそう思った。もう五年ほど前の…菊千代がまだ高校生だった頃の…そして彼女ではなく、まだ彼と呼ばれていた頃の記憶。菊千代はスナップ写真のように散りばめられたイメージの数々を思い浮かべた。
「菊っちィ…」
雪丸は目の前で憑依されてゆく親友を見て泣きそうになった。菊千代の思い描くイメージが思念となって流れて来るのだ。
《雪丸…心配しないで。僕は大丈夫だから…》
菊千代は雪丸に伝心でそう伝えた。憑依されるといってもたかだか動物形象の悪霊にすぎなかった。ちょっと重い風邪を引くのとたいして変わらないのだ。多少体の自由は利かなくなるが、祖母から教えられた祝詞があれば、完全に乗っ取られることはまずあり得ない。何よりも神楽家のご先祖様が、霊団となって悪霊を包み込んでくださっている。菊千代はそう楽観していた。
=ヒューッ
体から悪霊が抜けると、千織は大きく深呼吸をした。ぼんやりとしていた視界に焦点がもどり、目の前の映像が徐々に鮮明になるのを感じた。不意に、抱いていた弟の感触が手に伝わり、その重みで前のめりになった。
「ちょ…菊千代、どうしたのよ!しっかりなさいよ」
突然の展開になかば戸惑いながら千織が言った。どういう成り行きで弟を腕に抱いているのかさっぱりわからなかったのだ。
「姉上、正気に戻られたのですね…よかった」
菊千代はそう言うと姉の腕の中で目を閉じた。
《そう言えば姉上…同窓会に出かけていたんだ…》
薄れ行く意識の中で菊千代はそう思った。そして目を閉じたままつぶやいた。
「男遊びもほどほどにしてくださいね…姉上(笑)」
菊千代はくすりと笑みを浮かべ、そして崩れるように気を失った。
「な…なんであんたがそんなことを…って、やだこの子、すごい熱!」
千織は驚き、声を上げた。雪丸も心配そうに千織の肩越しに覗き込んだ。神楽家の先祖たちはオーブとなって菊千代の体に集まっていた。
《菊千代…死なないで!》
雪丸はそう叫ぶと、妖精のように小さく変化し、親友の耳に飛び乗った。そしてもう一度呼びかけると、菊千代の浮き舟へとダイブした。
その姿を見ながら守護霊たちは顔を見合わせ、互いに微笑んでいたのだが、彼女はそれに気づかなかった。
ただ、何度試みてもできなかった菊千代への憑依が、あっさりとできてしまったことに驚いていた。そして彼女の《セフィロト》へ潜ることに少しばかり興奮していた。