∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_12 亡霊の河
「由美江さん、由美江さん…」
西田が由美江に声をかけていた。由美江は先ほどまで鬼のような形相でマサシの髪の毛を掴んでいた。それが急に押し黙り、夢遊病者のようにフラフラと席を立ったのだ。近藤も由美江の行動に、どう対処しようか戸惑っていた。西田の手前、あまりしゃしゃり出ても怪しまれるからだ。
マサシはやや疲労の色をみせてはいたが、意識はとてもはっきりしていた。彼は霊的レイヤーでの出来事を夢か何かのように思い出していた。が、ふと車両前方を振り向くと、その方向をジッと見据え、意識を向けた。
「あの人…もうすぐ飛ぶよ…」
マサシが独り言のようにつぶやいた。電車の速度がしだいに緩やかになる。
菊千代は少年のその言葉に、背後を振り返り、列車の前方に意識を飛ばした。A駅の構内に列車を待つ乗客の列が見える。その列とは無関係に、一人の男が線路に向かって歩いているのだ。プラットホームのギリギリのところまで来ると、男は入って来る電車の方を見つめた。
泣いている。怒りながら泣いている。まわりの客が不振な目を男に向けていた。由美江の怒りに誘発された犠牲者のひとり…。菊千代は男をみてそう思った。遠隔で人を狂わす程に、由美江の怒りは凄まじかったのだ。菊千代は座席の側面に背を預け、身を屈めると衝撃に備えた。
「バカヤロー!」
男はそう叫ぶと列車の前に飛び出した。
キイィィィィイイ…
ドン…!
列車が急ブレーキをかけると同時に、鈍い衝撃音が伝わってきた。菊千代の体に強いGがかかる。持っていたサバイバルナイフが手から離れ、車内をツーっと滑っていった。浪人風が目でそれを追い、意識がそれに追いつこうとしていた。が、次の瞬間、彼の表情は驚きへと変わった。前方から川が流れてくるのだ。大量の血液。血の川が車両前方からドッと押し寄せ、目の前を流れてゆく。彼は霊的なレイヤーを見ていたのだ。
「痛い、痛いぃぃぃいいい…!」
顔が潰れ、血だらけになった男が、叫びながら流れて来る。先ほどの男だった。何かを掴もうと手を伸ばし、もがいているのだ。菊千代とマサシもそれを見ていた。
「なに?…なんなのこれ?」
由美江が血で染まった手をみながら言った。急ブレーキで前のめりに転んだ由美江は、真っ赤な川の真ん中でぺたりと座り込んでいた。前方から男が流れて来る。
「いや…来ないで!」
由美江が男に向かって叫んだ。
「助けて、助けてくれぇ…」
獲物に食らいつくワニのように、男の手が由美江の手を掴んだ。その瞬間、数百もの腕が川からヌウと飛び出した。
「痛い、痛いよぉぉお…」
「私を助けてよぉ…」
顔のない死霊たちが無念の言葉を由美江に投げかけてきた。それはこの駅で身を投げ、成仏しきれないでさまよう死者たちの残留思念だった。
「いやじゃ、やめてけろ。オラに触るなぁあ!」
由美江が死者を振り払うようにもがき、騒ぎだした。
「なんだぁ、だらしねなぁ由美江…銭子ば取ってんなら最後まで仕事ばしれぇ」
「んだんだ、オラたちを殺っておいて、ひとりさ逃げよたってそはいかねぇ」
「また、オラたちの相手ばしえれ、由美江ぇ」
「由美江…由美江…」
由美江に殺された村の男たちが、死霊に混じり口々にそう言った。男たちは由美江の服を剥ぎ、丸裸にして女を抱き始めた。顔の潰れた自殺者は由美江のきれいな顔を剥ぎ、自分の顔に貼付けようとしていた。数百の亡霊が彼女を川の中へと引きづり込み、自らの欠けた体の部位を由美江から奪って行く。それはさながら、ピラニアの群れに投げ込まれた子羊のようであった。
《菊っち…大変!パンドラが崩れて行くわ…》
雪丸が由美江の中から叫んだ。スクリーンに亡者たちがあふれ、パンドラエッグの中へとなだれ込んできていた。知識の樹から腐った果実がボタボタと落ち、壁が溶け始めている。雪丸はパンドラキューブの中を覗き込んだ。そこには寄生魔の姿はなく、由美江の魂も見当たらなかった。キューブのあった樹の中央には大きな穴が空いている。
《あの人はどこへ行ったのかしら…?》
雪丸がつぶやいた。
「セフィロトに戻って行ったのではないかな?幹の水路を通って…」
妖精の姿で菊千代が言った。雪丸はその姿を見ると嬉しそうに手を振った。
「生命の樹に?神社に行ったのかしら…」
雪丸が菊千代に聞いた。
「パンドラは“浮き舟の死”と共に崩れて行くからね。魂は心の神社に戻り“マンダラびと”と共に“浮き舟界”の垢を落として、それぞれの世界へと帰ってゆくんだよ。普通はね…」
菊千代はそこで言葉を区切った。普通であるなら供養され成仏も可能である。だが寄生魔に取り憑かれ、魂座まで喰われてしまった魂が、成仏できるかといったらそれは不可能に近いのだった。
「それぞれの世界か…」
雪丸が独り言のようにつぶやいた。自分には何故“マンダラびと”が迎えに来てくれなのだろう。もしかしたら、この人たちのように取り残されているのかも知れない。そう思うと雪丸は、ちょっと寂しくなった。
知恵の樹には行く宛のない亡者があふれ、天を目指して我先に登っていた。だがそれは虚しい行為だった。枯れるように崩れるパンドラの樹と共に、彼らは再び奈落へと落ちていったのだ。
「さ、雪っち…僕らも行くよ」
そう言うと菊千代は、雪丸の手を引き、フワリとスクリーンの方へと飛んだ。スクリーンは車内の様子をしばらく映していた。
「由美江さん、しっかりしなされ、由美江さん…」
西田が倒れた由美江に声をかけていた。
「奥さん、大丈夫ですか?しっかりしなさい」
車掌が由美江に声をかけ、そのまわりに人だかりができていた。担架が運び込まれ、救急隊員が駆けつけた。脈を取り、瞳孔を確かめると隊員は静かに首を横に振った。
菊千代は耳につけていたオニキスのピアスにそっと手で触れた。その中に雪丸の霊体を移すとゆっくりとドアの方へ向かった。背中に視線を感じ、振り向くとマサシがこちらを見ていた。
「がんばりなさいね…」
菊千代の唇がそう動き、笑みを見せた。
「ああ…まかせな」
マサシは親指を立てて、白い歯を見せた。彼の心はもはや、あの幼い少年ではなかった。
菊千代は車両を出ると天を仰いだ。目の覚めるような青い空が、ビルの谷間に広がっていた。昼下がりを過ぎたのだろうか、駅には人が増え始めていた。