∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_13 エピローグ
『今日の昼頃、JRのY線A駅にて、無職の男性、山田和男氏五十二歳が電車に飛び込む死亡事故がありました。男性は務めていた会社を先月首になっており、警察では生活を苦にした自殺と断定しました。なお、電車に乗り合わせていた主婦の女性、西田由美江さん三十九歳が急ブレーキをかけた際に転倒し、顔面強打で死亡いたしました。ほか数名の乗客が軽傷を負いました。電車はおよそ十分程度の遅れを出しましたが、ダイヤには大きな乱れはありませんでした…』
午後のニュースは今日の出来事を短く伝えていた。浮き舟界にとってそれは些細な出来事であり、他人に取っては記憶にすら残らない日常の断片なのだろう。異次元レイヤーにおいて、どれほどのことが行われていたかなど“浮き舟”たちには知る由もないのだ。あの場にいた者たちでさえ、裏世界で行われていたことに気づく者はいない。それを知る一握りの能力者を除いては…。
「ねえ菊ぅ、あんたのブラ借りるけどいーい?」
舌足らずな甘えた声が隣の部屋から聞こえてきた。姉の千織である。
「構わないですけど、スポーツブラしか持ってないですよ。姉上」
菊千代はリビングルームから返事をした。雪丸はこの家に居候を決めこみ、同じようにソファーに寝そべっていた。
「うん、なんでもいいの。洗濯さえしてあれば…」
千織の嬉しそうな声が聞こえた。が、少したつとその声は驚きに変わり、寝室のドアが勢いよく開いた。
「ちょっとあんた、いつからこんな大きなサイズしてるのよぉ!」
「え…かなり前からだけど」
菊千代がやや困惑して言った。
《ねえ、菊っち。このお姉さんさっきの人と顔が違うよぉ〜》
雪丸が驚いたように伝心した。
《さっきはスッピンだったからね(笑》
菊千代が苦笑いしながら伝心で答えた。
「高校の時はあんなにペチャパイだったくせに、これってCあるでしょ」
千織はそう言うと菊千代の胸をムンズと掴んだ。
「ちょ…姉上」
「信じられな〜い。もう弟のくせにこんなプリプリしてぇ。姉のサイズを超えたら許さないんだからね〜」
千織はひとしきり菊千代のあちこちを触りまくると、パタパタと寝室に戻って行った。
《ねえ、菊っち。あなた本当は男の子なの?》
雪丸が不思議そうな顔をして聞いた。
「うん、戸籍上はね」
菊千代はあっさりとそう答え、つづけた。
「本当は男でいたかったんだけどね、気楽だし…」
《でもどうして女の子になったの?》
雪丸が聞いた。
「浮き舟が勝手に女性を選んでしまった…とでもいうのかなぁ。僕にもよくわからないんだ(笑 」
菊千代は自分の身体的欠陥について思いをめぐらせた。生まれた時点では男子と告げられ、役場にもそのように登録された。その後の診断で両性具有者ということが判明し、どちらかを選択しなくてはならなかった。結局両親が望んでいた男子を選ぶことになり、中学生まではそれで無事過ごしていたのだ。身体的な機能としては完全な両性ではなく、部分的に男性だったり女性だったりと、裸体にならなければわからないようなものだった。高校に入り、ある事件をきっかけに急激に女体化が進み、それ以降女性としてカミングアウトし、今日に至っているのだ。
「でも女性っていうのもなかなか難しいわ…」
菊千代はわざと女性っぽく言ってみた。中性的な声質に違和感がなかった。
《高校生のときに何かが起こった訳ね…恋をしたとか?》
雪丸がいたずらっぽく聞いてみた。
「うふ…それはヒ・ミ・ツ・よ」
《ええ〜、そこまで言っておいてずるーい。教えてよぉ菊っちぃ…》
雪丸がそう叫び、菊千代の頭の上をふわふわと舞った。
「菊ぅ、誰と話ているの?ねぇ背中のファスナー上げるの手伝ってよ」
隣の部屋から舌足らずの甘えた声がした。菊千代はハ〜イと答え寝室へと入って行った。
雪丸はその姿になんだか微笑ましい気持ちになった。マンダラ界ではあんなに超人的なのに、浮き舟界ではごく普通の女性なのだ。そして何よりも嬉しかったのは、心から話し合える友達ができたことだった。
本当は菊千代の秘密にもすごく興味があった。いつか隙あらば、彼女のセフィロトに潜って“霊気の花”を覗いてみたいとも思った。でも今はこの時間を大切にしたかった。そして、霊体でありながらも、生かされている事を実感出来た今回の体験を…。雪丸はいま、すべてのものに“ありがとう”と言いたい気持ちでいっぱいだった。