∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_11 死闘
由美江はマサシを心底呪っていた。この子供さえいなければ、西田家のすべてが自分のものになる。そう思っていた。ゴールは目前にある。だが目の前にいる少年が、今すべてをブチ壊そうとしているのだ。
《何が起こったっていうの、こいつに…》
由美江はそれが理解できなかった。つい数分前までは物言わぬ自閉症患者だったのだ。何年もかけてそのように作り上げてきたのだ。それがまるで何かが憑依したかのように変容してしまった。それまでのひ弱なマサシとは決定的に何かが違うのだ。言葉ひとつひとつに計算があり、祖父の存在をうまく利用し立ち回っている。そのずる賢さに底の知れぬ不気味さを感じていた。
《だけど、もう後戻りはできないわ!…》
由美江はそう思い、決意した。彼女は斜め前の席に座ったサングラスの男、近藤を見た。マサシの言葉に、義父である西田が疑いの眼差しを向け、ジッと彼を見据えていた。
《お義父様は彼を疑ってらっしゃるわ…》
由美江は愛人を同伴させたことを後悔していた。まさかこのような展開があるとは夢にも思わなかったからだ。だが、ここは何が何でもシラを切り通さねばならなかった。たとえ強引にでも…。
「あらいやだ、他人様まで巻き添えにして裸だのなんだのって、失礼でしょマサシ…」
「お気になさらないでくださいねぇ」
由美江は大袈裟な身振りで、斜向いの男に言った。
「ああ、気にしてないですよ。僕は…」
サングラスの男が言った。
「最近はテレビの影響が強いですからなぁ。子供には悪影響でしょう。はっはっは」
近藤の機転に、由美江の顔がパッと明るくなった。ドラマかなにかの話にすり替えてしまえばいい。この男、なんて役に立つのかしら…。由美江はそう思った。
由美江がホストクラブで近藤と知り合ったのは二年程前だった。頻繁に愛人を変える由美江に取って、近藤との関係は長い方だと言えた。だがそれも利用できる間だけ…由美江はそう考えていた。由美江に取って男は、夢を実現させる為のハシゴでしかないのだ。夢を掴むために手を伸ばし、利用し尽くした男は足の下に踏みつけられてゆく。一歩一歩、着実に昇らなくてはならない。願望実現の為にはどんな淫らな行為も厭わないのだ。もうあの惨めな生活だけにはもどりたくない。そう思っていた。だが、マサシの次の一言で二人の男女は完全にチェックメイトをしてしまった。
「おじさんの胸にある薔薇の入れ墨…とっても綺麗なんだよ。おじいちゃん(笑)」
マサシは無邪気そうに祖父に言った。西田は硬い表情で二度ほどうなづき、マサシはクスクスと笑いながら上目遣いに男を見た。近藤は凍りついたように固くなり、それ以上何も言わなくなってしまった。
「おだまり、この糞ガキ!」
由美江は腹の底からそう吐き捨てると、マサシの髪の毛をグワシと掴みその目を睨みつけた。その邪視にマサシは震え上がる…と義母は思っていた。実際マサシは、義母の形相に恐怖していた。が、そのマサシの恐れを異次元レイヤーの何者かが、ムシャムシャと喰ってゆくのだ。“シャッコウ様”だった。
マサシは心の中で起こっている二つの現象の、相殺を体感していた。膨れ上がる“恐怖の霊気玉”とそれを吸収して肥大化する“シャッコウ様”とを…。
菊千代は少し離れたところからその様子をうかがっていた。冷めた目で義母を見据える少年は、いま何かを乗り越えようとしていたのだ。
《彼の魂はすでにシャッコウ様の一部と同化しているのね》
菊千代はその姿を見てそう感じた。本来の大きさへと戻った“シャッコウ様”の胸の部分に、少年の顔が浮かんでいたからだ。それはまだ弱かった頃の少年の面影があった。“シャッコウ様”はその小さな肉体から離脱し、さらに大きくなっていった。もちろんこれは霊的レイヤーでの話である。
《もうどうとでもなればいい!》
由美江はそう思った。そう思った瞬間、今まで押さえつけてきたものが一気に解放され、由美江の中にある黒々としたものが意識の表面に浮かび上がってきた。
《殺す!殺す!殺す!》
由美江の殺意はその頂点に達していた。もうどうでもいい、どうなってもかまわない。こいつさえ消してしまえばそれでいいのだ。その激怒の感情が由美江の体から深紅の霊気玉を生み出していた。彼女の中に巣食っていたものが徐々に膨れ上がってゆく。浮き舟の生み出す負の感情、そこから発せられる霊気玉ほど美味い物はない。そいつはそう思っていた。沸々と湧き出るそれをうまそうに喰らいながら、一つの影がいま、異次元レイヤーに姿を現そうとしていた。
由美江はふと昔のイメージを思い出した。何かの視線に気づき、顔をあげると、そこには男が一人立っていた。黒装束の男である。
「あんだね、あんだかい。久しぶりっちゃね」
由美江が男に言った。
「どうだ、いい夢は見れたか?」
男が静かに言った。
「あに言ってるだか、まだまだこれからだっちゃよ。まだあんだの力が必要っちゃね」
「ふふふ…強欲な女だな。何が望みだ」
黒装束の男は言った。
「そうさねぇ、こんガキを喰ってけろや。頭からガリガリっとな」
由美江はそう言うとケタケタと笑い声を上げた。男はニヤリと笑い大きな口をあけた。由美江をそのまま丸呑みすると、寄生魔の黒い胴体に由美江の顔と体が浮かんできた。二つの意志が霊的レイヤーの中で合体した瞬間だった。
“シャッコウ様”と寄生魔が幽界のレイヤーで互いに見合い、対峙していた。その次元では時間が止まり、人も電車も動きを止めていた。由美江とマサシ、そしてあと一人を除いては…。
菊千代は“シャッコウ様”の背後に位置し、その成り行きを見つめていた。車内は毒々しいまでに変化し、まるで巨大な臓物の内部にいるようだった。
《菊っち、聞こえる…?》
菊千代の霊聴に声が聞こえた。雪丸である。
《ああ、聞こえるよ。そっちは大丈夫かい?》
《うん、なんとかね…何か手伝えるかしら?》
雪丸は嬉しそうに言い、菊千代にたずねた。
《いや、大丈夫。そこから見ていなさい…》
菊千代は短くそう言った。この場の雰囲気からすると、かなりの死闘が予想できたからだ。できれば闘いは避けたいところだったが、いざとなればマサシに加勢しよう。菊千代はそう思った。
ブウン…!
重い波動がうねりを上げて寄生魔から放たれた。電車の窓ガラスがビールの栓のように弾け飛んでゆく。シャッコウが衝撃を体でズンと受ける。その反動で3mほど後ろに下がる。
菊千代が結界シールドでシャッコウの体を後ろから支えた。シャッコウは無表情でチラリと菊千代を一瞥し、素早い動きで寄生魔に突進した。正面から当たると見せかけてジャンプ、壁を蹴り、背後に回る。その動きに合わせて菊千代も飛んだ。
寄生魔が菊千代に向かって波動を打つ。うねるような衝撃波が菊千代を襲う。結界シールドに角度をつけ、その衝撃のベクトルを逃がす。が、残りのベクトルでさえ、菊千代の軽い体を弾き飛ばすには充分すぎる威力だった。菊千代は車内の奥まで転がるように飛ばされた。
その隙にシャッコウが寄生魔を背後から捕らえた。羽交い締めをしたまま、寄生魔を持ち上げようとする。菊千代は走りながら“浄化の霊気玉”を手の中に集め、寄生魔めがけて放った。白い閃光が寄生魔に当たると同時に、シャッコウはその体を持ち上げ、反るようにたたき落とした。
寄生魔がもんどりうってひっくり返る。床に倒れた寄生魔に菊千代が飛んだ。貯めていた霊気玉を空中から一発、寄生魔の体にヒラリと乗った状態でさらに一発、二発…。
ゲフッ…。
三発目の閃光が入ると、寄生魔に同化した由美江の口から赤いものが飛び散った。が、寄生魔の黒い腕は菊千代を軽々とつかみあげ、天井へと投げつけた。照明が砕け、鈍い音と共に菊千代の体が床に落ち転がる。
《菊っち!》
雪丸が叫んだ。菊千代と寄生魔の間にシャッコウが入る。二体ががっぷり四つに組むと車内全体がその圧力でビリビリと振動した。体に同化したマサシと由美江の顔が互いに見合う。
「こーのーガーキーがぁあああ!」
由美江が血走った目でマサシを凝視し叫んだ。マサシに一瞬の恐怖が走る。その瞬間、シャッコウの体がグイと持ち上がった。
《マサシ君!》
雪丸が叫んだ。空(くう)を切るブンという音と共に、シャッコウの体が投げ飛ばされた。その体は車両を突抜け隣車両へと弾き飛ばされてしまった。
「強い…」
寄生魔の底知れぬパワーに菊千代が唸った。寄生魔が菊千代に振り向いた。倒れていた菊千代に覆いかぶさるように重なり、その両腕と両足を引っ張り上げた。
「うふふふ、いいざまね」
由美江は寄生魔の体から菊千代を眺めた。バランスのいい顔立ち。それをどう切り刻んでやろうかと考えていた。
「取りあえず頂いちゃおうかしら、おほほほほ…」
由美江は赤い舌で菊千代の頬をペロリとなめた。それを合図に寄生魔のグロテスクな性器がズイと伸び、菊千代の股間に押し当てられた。
「く…」
菊千代が苦痛の表情を見せた。
ミリ…ミリ…ミリ…
菊千代の白いパンツに強い圧力が加わり、衣服が裂けてゆく。このままでは犯される。菊千代はそう思った。
《捨て身でいくしかないか…》
菊千代はそう決意し、由美江の顔に自らの顔を近づけた。
「え…なに??」
由美江が驚いたようにまばたきをした。菊千代の唇が自分の唇に重ねられたのだ。口の中いっぱいに霊気玉が広がってゆく。
ゴボゴボゴボ…
大量の霊気玉が女の肺の中に広がった。由美江が苦しそうに咳きこみ、寄生魔の両腕が一瞬浮き上がった。菊千代の両腕に自由がもどる。
「逃がさないよ!」
由美江が狂ったように叫んだ。再び寄生魔が覆いかぶさる。一瞬のタイミングだった。菊千代は渾身の抜き手を寄生魔に入れた。寄生魔と埋め込まれた由美江の間、その隙間に菊千代の両手がズブリとめり込んだ。
「ふ…そんなの痛くも痒くもないね」
由美江が不敵に笑い、寄生魔の腕が菊千代の肩を掴んだ。菊千代は全身に“感謝の気”を集め、両手から放出した。寄生魔の体内に“感謝の霊気玉”が溢れ出す。
「なに…!」
由美江が溢れる感謝の霊磁気に困惑した。寄生魔がその霊気玉に拒絶反応を示したからだ。“感謝の気”が寄生魔の肉を溶かしはじめる。菊千代はあるだけの“感謝の霊気玉”をすべて放出した。由美江と寄生魔の間に亀裂が入りはじめる。寄生魔が苦し紛れに上半身を上げ、菊千代の肩をつかむと渾身の力でその腕を引き抜いた。
「あうう…!」
菊千代が呻き声を上げた。
「あああ…」
同じように由美江も呻いた。寄生魔の力で自らの体も引き離されようとしていたのだ。
ズブリ…
鈍い音と共に由美江の体が寄生魔から引き抜かれた。由美江の白い裸体が菊千代と共に床に転がった。黒い体液がドロのように床に広がる。だがしばらくすると、体内から流出していた黒い液は固まり、その傷口もすぐに塞がってしまうのだった。
《だめだよ…これじゃ勝ち目がないわ》
雪丸は落胆の声を上げた。どうにかしなくては、みんなあいつに殺されてしまう。そう思った。雪丸はパンドラキューブを見上げ、フワリと飛び上がった。
《もうこれしかないよね…》
雪丸はつぶやいた。自分がパンドラキューブに入れば、ほんの少しの間ならあいつをコントロールできる。そうすれば菊千代やシャッコウ様にも勝機が訪れるはず。雪丸はそう決意した。雪丸がそっとキューブに近づく。由美江の魂は相変わらず哀しそうな目でこちらを見ていた。
《来・て・は・ダ・メ…》
その表情はそう語っていた。それはわかっていた。ここにはいったらもう戻れない事も。寄生魔に同化し、自分自身が寄生魔になってしまうであろうことも。そして、殺されてしまう事も。でも雪丸はそれでもいいと思った。大切な人がそれで守れるなら…と。もう自分は充分に生きたし、この世界の秘密も知ることができた。それで充分だった。いや、本当のことを言えば恋愛はしてみたかった。けど…またいつかできるよ。そう思った。雪丸はパンドラキューブにそっと手を伸ばした。
《ソノヒツヨウハナイ…セカイノヒナガタヨ》
背後で言葉が聞こえた。いや、それは言葉というのではなく思念だった。雪丸は後ろを振り向いた。が、そこには誰もいなかった。
《ソノヒツヨウハナイ…セカイノヒナガタヨ》
再び、雪丸の頭の中に思念が響いた。雪丸はふとスクリーンを見た。画面に燃え盛る獅子の姿があった。それは寄生魔と対峙するように四つ足でそこに立っていた。
《え…》
雪丸はその恐ろしい獅子の形相に言葉がでなかった。
「ポーポウ…」
菊千代は驚いたように言った。身を起こし、その燃え盛る獅子を見た。まさか眷属神が来るとは、思っても見なかったのだ。眷属神は人間のやることに干渉することはないのだから…。
《何者だ!…お前》
寄生魔が獅子に思念を送った。突如姿をみせた新たな敵の出現に、寄生魔は警戒の色を隠せなかった。ポーポウはそれに答えず、寄生魔との間合いをフラリと詰めはじめた。由美江は獅子のその形相に慌てふためいた。寄生魔の背後に身を隠し、息をひそめた。
「ふ…こいつもこの兄さんの餌食さ」
由美江は不敵な笑みを浮かべ、そうつぶやいた。
ブウン…!
最初に動いたのは寄生魔の方だった。重い波動がうねりを上げて、燃え盛る獅子めがけて放たれた。ポーポウのたてがみが衝撃波でたなびき、数十本の毛が床に落ちた。
「何…!」
寄生魔が唸るようにいった。渾身の波動を受けながら獅子はその歩みを緩めようともしないのだ。寄生魔に焦りの色が現れる。
「キィィイイイ…!」
奇声を上げ、寄生魔が走り出した。そのスピードは回りの目に止まらない程素早いものだった。さらに黒光りした腕がブンと音を立て、獅子の顔に鋭い爪を立てた。
バキッ…
鈍い音が寄生魔の後方でした。手応えはあった。寄生魔は振り返り燃え盛る獅子を見た。その口に腕がくわえられている。寄生魔は自らの腕を振り返り、確かめた。
「嘘…!」
由美江が青ざめた顔でつぶやいた。燃え盛る獅子が寄生魔の腕をもぎ取ったのだ。
「オオオォォォオオ…!」
寄生魔の苦痛に満ちた叫びが車内をこだました。ポーポウは何事もないようにその腕をボリボリと喰らい始めた。そして喰い終わると再びフラリと歩き始めた。力の差は歴然だった。寄生魔の腕から黒い液体がボタボタと流れ落ちていた。
今度は燃え盛る獅子が動いた。いや、それを動いたと呼べるのかどうか、寄生魔の視界から獅子が消えた瞬間、今度は逆の腕が根元から消えてしまったのだ。寄生魔は狂ったように走り出した。このままではすべて喰われてしまう。そう感じていた。
「あわわわ…」
由美江は恐ろしさのあまりに腰が抜けそうだった。彼の両腕がもぎ取られ、寄生魔が走り出した瞬間に、その首もゴロリと落ちたからだ。首はそのままゴロゴロと転がり、由美江の目の前で止ると、恨めしそうな顔で女を見上げていた。首を失った体は、そのままゼンマイ仕掛けのようにヨタヨタと走り続けていった。
ドン…!
隣車両からフラリと現れたシャッコウ様に、寄生魔の胴体が体当たりをした。そのまま、のめるように転倒し、ビクビクと痙攣が始まる。シャッコウはしばらくその様子を眺めていた。そしておもむろに寄生魔のはらわたをえぐると、ムシャムシャとそれを喰らい始めたのだ。ポーポウはその最後の肉片が無くなるのを確認すると、菊千代の方を一瞥し、その場から消えて行った。
「いや、いやよ…」
由美江はうわ言のようにそういうと、ヨタヨタと歩き始めた。一刻も早くここから逃げ出さねば自分も喰われてしまう。そう思っていた。