∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_10 伝播する狂気
電車の車内は目に見えない何かに抑圧され、別次元にあるそれぞれの霊体に影響を与え始めていた。
「マサシ…いい加減にしなさい…」
押し殺したように由美江が言った。その短い言葉に込められた怒りは、およそ人間が我慢できうる限界を遥かに超え、その圧縮されたエネルギーは自らの逃げ場を探していた。
《ちくしょおぉぉぉぉおお!》
由美江は心の中でそう叫ぶと、自閉症の息子を何度も何度も呪った。あとほんの少しでも自分の理性に亀裂が入れば、決壊したダムのようにその怒りは吹き出したであろう。いや、それができたらどんなに楽だろう。理性を投げ捨て、怒りに身を任せられたらどんなにすっきりとするだろう。と由美江は思った。
だが、こんなところで失態を演じる訳にはいかなかった。義理の父である西田亮平の前では夫の良き妻、息子の良き母親を演じ切らねばならなかったのだ。
《まずい…これは想像以上だな…》
菊千代は思った。目に見えない存在が血の生け贄を求めていたのだ。憎悪のカード、そのジョーカーを引き当てる者を…。誰でもいい、そいつに憑依して己の欲望を吐き出したい。そいつはそう思っていた。
由美江の、憎悪のエネルギーが、隣に座った浪人風にその触手を伸ばし始めていた。彼は必死でそれに耐え、ショルダーバッグの中に手を滑り込ませたいという衝動を抑えていた。その中にはサバイバルナイフが入っているはずだった。菊千代は手にした本に視線を落としたまま、彼の手の動きを追っていた。しかし運命の瞬間は、子供の一言でいとも簡単に訪れたのだ。
「でも、大人って面白いよね。おじいちゃん」
マサシが祖父の亮平に言った。
「いつも二人で裸になるんだよ。体を擦り合わせて体操を…」
「マサシ!」
火のついたような由美江の声が、マサシの言葉をひねり潰した。別次元の空間がその衝撃にグワンと揺らぎ、霊感あるものたちの頭を押さえつける。少年は老人に助けを求めるように抱きつき、祖父の西田は押し黙ったまま険しい表情をみせた。
菊千代はその衝撃の第一波が届く寸前で、浪人風を自分の結界に引き入れた。暴風のような衝撃波が二人を避けて脇に流れてゆく。浪人風は押さえつけられていたものに急に解き放たれて、半ば呆気にとられていた。体が急に軽くなったのだ。そして菊千代の何とも言えない心地よいオーラに包まれ、体の芯が熱くなるのを感じていた。
「ううおぉぉぉおおお!」
遊び人風がたまりかねたような叫び声を挙げた。不意に席を立ったかと思うと列車のドアまで駆け寄り、ドンドンとそれを叩き始めたのだ。
「ちくしょー、やってられっかよー!」
男が吠えるように叫んだ。そして親やら知り合いやらの名前を次々に挙げながら罵り始めた。憎悪のエネルギーは遊び人風に伝播してしまった、かのように思えた。
「もう、いやぁああ!」
そう叫んだのは車両前方にいた女子高生だった。希望する大学を、断念するように勧めた教師への、恨みの言葉をくりかえし吐いていた。
「あの糞課長、何様だと思ってんだぁ。これ以上コケにされてたまるかぁ!」
車両後方のサラリーマン数名が課長を罵り、怒りをぶちまけ始めた。ジョーカーは回りの乗客たち全員に配られていたのだ。男女のカップルは互いの欠点を突き合うように口論し、主婦は夫の稼ぎの悪さを嘆いていた。車内は憎悪の渦となり、増幅された怒りの塊が他の車両へと移っていった。
《しまった…こいつを結界に入れたのはまずかったか…》
菊千代は心の中で舌打をした。緊急事態だったとはいえ、この男と同じ結界の中にいるのはあまりに苦痛が伴った。浪人風は助けられたという自覚もないままに、その幽体を菊千代の霊体にすり寄せていたのだ。菊千代の発する霊気玉にしゃぶりつき、ごくごくと貪るように吸っていく。まるで餓鬼の様相だった。男の幽体からはダークイエローの霊気玉が沸々とわき出し、菊千代の体内へと入り込んで来る。それは霊的なレイプに等しかった。霊眼には無数の妖蟲が体中を徘徊し、霊体が喰われてゆくように見えていた。
《まずい…結界が…切れる》
菊千代は半ば意識がもうろうとし、つぶやいた。
「ひゃひゃひゃひゃぁぁああ、お姉さーん」
奇声が聞こえ、菊千代は体を強く抱きしめられた。遊び人風である。彼はもはや理性を失い、放たれた獣と化していた。彼もまたダークイエローの霊気玉を体から生み出し、霊眼には狼の妖獣に見えていた。妖獣と妖蟲が車内にあふれ、列車は完全に幽界のレイヤーとなっていた。
「お、おれさぁ、あんたのことが気に入っちゃってよぉぉおお…」
遊び人風は興奮して言った。臭い息がハァハァと菊千代の顔にかかり、長い舌が頬を這ってくる。彼は隣に座ると服の上からその胸をまさぐり、顔を埋めようとした。異常な空気が車内を貫き、カオスと化している。へたをすればこのまま裸にされて、男たちに犯されかねない。菊千代は本気でそう思った。
「やめろクズ、これはオレの獲物だ…」
浪人風が静かに言った。手に持ったサバイバルナイフが、男の額に押し付けられている。菊千代は胸の脇で光る刃をジッと注視していた。
「へ…へへへ。殺ろうってのか、ガキ。オレ様と…このオレ様とよぉ」
遊び人風はヘラヘラとあざ笑うように言った。胸をはだけ落書きのようなタトゥーを見せつける。こんな奴に人を殺せるはずが無い。威嚇すればビビるに決まっている。たかをくくった自信が遊び人にはあった。
ゴツ…
鈍い音と共にサバイバルナイフが、男の額に突き立てられた。そう深くはなかったが、遊び人風の額から一筋の赤いラインが流れた。結界の切れた状態で、浪人風も異常な雰囲気に飲み込まれていたのだ。
「うあぁぁぁあああ!痛てぇええ…」
滴る血に遊び人風が悲鳴を上げた。菊千代はその血しぶきを交わすようにサラリと席を立った。二人に距離を置くと丹田に意識を集中する。そこを中心に結界が広がって行く。霊体に入り込んだ蟲がまだ少し残っていているようだった。
男たちは呆気にとられたように菊千代の方を見た。浪人風は菊千代の手に握られているものを見て、自分の手を確認した。握っていたはずのサバイバルナイフが無くなっていたのだ。
「夢の運命は変わったようね…君」
菊千代はニコリと笑い、手にしたサバイバルナイフをクルリと一回転させた。
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由美江のパンドラエッグは外観も内側も滴る血のように赤く染まっていた。床には樹の根が血管のようにはびこり、ドクドクと脈打っている。そこから深紅の霊気玉が沸々と湧き上がり、さながら煮立った血の鍋のようにも見えた。
「パンドラエッグも色々なのねぇ…菊千代」
雪丸はそう呼びかけ、ハタと思い出したようにシュンとした。ちょっと前から菊千代からの通信が無くなってしまったのだ。小さな妖精もいまは黒いイヤリングに戻ってしまい、何の反応もなくなっていた。
「どうしたんだろう、菊千代…浮き舟界で忙しいのかなぁ」
雪丸はポツリとつぶやくと、エッグ中央にある“知恵の樹”の枝に腰をかけた。ここはマサシのパンドラエッグとは全然様相が違っていた。パンドラドームは美しいプラネタリウムこそ見せていたが、そこで働くマンダラびとたちは光の人では無かった。みな黒い毛虫のような生き物で、このパンドラからはご先祖様の気配がしなかった。
「ここでも気をつけなきゃいけないわね」
雪丸はザワザワとしげる葉や枝を注意深く観察した。どこに魔物が潜んでいるかわからないのだ。マサシの樹にはシャッコウ様が隠れていたのを思い出した。幸い“森の気配”のおかげで自分の存在は消されているようで、妖蟲たちが襲ってくる事もなかったが…。
「そういえば、ここにはスクリーンがないのかしら…」
雪丸は思い出したように言った。パンドラエッグのスクリーンは浮き舟界と繋がっているし、それを使って菊千代のところへ帰ることも可能なのだ。彼女はフワリと飛び上がり、枝分かれをした幹の中央へと向かった。赤い霊気玉がそこを中心に集まっている。たぶんパンドラキューブがあるはずだった。
「あ…あったわ!」
雪丸は小さく声をあげた。キラキラと光るクリスタル状のキューブがゆっくりと回転している。キューブは破損がひどく、何かにかじられたように所々欠けていた。が、それでもマサシのキューブよりはずっと大きく、色はルビーのように赤かった。霊気玉の色に染まってしまったのかしら?雪丸はふとそんなことを思いながらキューブを覗き込んだ。
「きゃああ…!」
雪丸は思わず叫んでしまった。パンドラキューブに黒い寄生魔が横たわっているのだ。いや、よく見ると由美江の姿もそこにあった。抱きかかえられるように、グロテスクな寄生魔の一部が女の股間を貫いている。由美江は全裸だったがその姿は見る影も無く、干涸びたミイラのようだった。体が寄生魔の皮膚に取り込まれ、まるで瘡蓋かなにかのように見えるのだ。
「もう死んでいるのかしら…」
雪丸はそうつぶやき、そっとキューブに近づいた。瞬間、女の目が開き雪丸に視線を合わせた。へばりついた体は動けなかったが、乾いた口から言葉が洩れた。
《助・け・て…》
女の唇がそう動いたように、雪丸には思えた。
ブゥーン…
不意に振動音が背後に響く。
「あ…」
雪丸が音の方を振り返ると、巨大スクリーンに映像が映っていた。だがそれを、電車の車内風景だと認識するのに、雪丸は多少時間がかかった。というのも、人間界のそれとは似ても似つかないほど、車内は変り果てていたからだ。
《このパンドラエッグの内部みたい…》
雪丸はそう思った。それは腫れ上がった臓物の内部のようだった。床には血が滴り、壁面に張り巡った太い血管がドクドクと脈打っていた。
乗客もほんの数名を除いては、臓器にできた癌のような塊でしかなかった。彼女に取ってそれらは意味のない置物でしかないのだろう。
「マサシ君の時もそうだったけど、視覚なんてあてにならないわ…」
雪丸はつくづくそう思った。実際に見えている世界が人によって違うのだ。確かに共通の世界も存在する。それは浮き舟界という基本原理がそこにあるからだ。パンドラが創りだした共有幻想。だがそれは常にそう見えているわけではない。
目を開いていてさえ、その視野を認識していない瞬間があり、脳内映像がそれを埋めている。そんな経験は誰にでもあるだろう。ただそれは気づくとすぐにもどってしまうので、浮き舟の意識に残らない。雪丸はそんな風に考えていた。
「うあぁぁぁあああ!痛てぇええ…」
臓器にくっ付いていた塊のひとつが叫び声を上げた。遊び人風の声である。雪丸の注意がそちらに向けられると、そこに菊千代の姿もあった。由美江にとって彼女は意識の対象であるらしい。が、それよりも強い対象はマサシのようだった。彼女の意識の中で、彼は二倍ほどの大きさで映っていたからだ。
《お義父様に疑われている…ちくしょう…こんなガキのために計画を棒に振ってたまるか!》
由美江の心の声がパンドラエッグにこだました。それはここにいる干涸びた魂の声ではなく“浮き舟”の発する自我の声だった。