∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_9 心の神社
「危なかったね、雪丸」
生命の森に戻ると、菊千代が言った。それから雪丸の頭に彼女の白い帽子をポンと被せた。
「ありがとう、菊っち…」
雪丸が半べそをかきながらつぶやいた。ガクガクとまだ体が震えている。彼女は先ほどの光景が頭から離れないようだった。
「あの娘さん、あのあとどうなるのかしら…?」
「気になるのかい?」
雪丸の心配そうな顔を見ながら、菊千代は言った。彼女は二度の体験であの娘に対して同情的になっているようだった。菊千代は“情欲の実”に潜って来たばかりだったので、その後、娘がどういう道を歩むのかを知っていた。だが今はそれを伏せておいた。
「だって可哀想だよ、みんなで寄ってたかって…」
雪丸の表情は暗かった。
「可哀想?…果たしてそうかなぁ…」
菊千代が言った。あの村人たちはその後、由美江によって殺されてゆくのだ。寄生魔の力を借り、ある者は農薬を飲まされ、ある者は獣に喰わされてた。それはおよそ、人としての正常な死に方ではなかった。
「菊千代は何も感じないの?あの男たちが彼女をあんな風にしてしまったのよ」
菊千代の冷静な反応に、雪丸はいくぶんムッとしているようだった。
「ねぇ雪っち、カルマの法則って知っているかい?」
雪丸の問いには答えずに、菊千代は言った。彼女に村人のその後を話したところで、自業自得だと笑うことだろう。菊千代はそう思った。
「ううん、なあにカルマって…」
雪丸が言った。
「じゃあ、これを着て。今から“心の神社”へ行こう。そこに秘密がある」
菊千代はそう言うと陽の“森の気配”を雪丸に手渡した。
「心の神社…!神様のいるところね」
そう言うと、雪丸の表情が少し明るさを取り戻した。雪丸は受け取った陽と陰の“森の気配”を頭からすっぽりとかぶってみた。すると雪丸の気配は消え、森の気配と同化していった。
“心の神社”までの道のりはさほど危険なこともなく、二人は順調に登って来ることができた。本当は二つほど難所があったのだけれど“森の気配”がそれに気づかせないほどの効力を発揮していたのだ。
「ここが神社ね」
大きな社を見上げて雪丸が言った。神社は“生命の樹”のちょうど中腹あたりに位置し、そこから主な幹が四方に伸びていた。森自体は鬱蒼としているのだが、神社の周辺は上空からの日差しがよく当たり、とても明るかった。
「でも何だか寂れているわ、ここ…」
鳥居をくぐると、雪丸は辺りを見ながら言った。遠目からでは分からなかったが、社は朽ちた廃墟のようだったのだ。壊れかけた像や動物のオブジェがそこかしこにあった。雪丸は物珍し気にそれらを眺めながら、大きめの犬のオブジェの上に飛び乗った。
「雪っち、そこから降りて…」
菊千代が少し焦った口調で言った。
「え…どうかしたの?」
雪丸はそう言うと、犬の上からポンと飛び降り、オブジェを下から眺めた。
グルルルルル…
雪丸の頭上で獣が睨んでいた。色が真っ白だったので、てっきり大理石か何かだと思っていたのだ。
《菊っち、どうしよう。逃げたほうがいいよね》
雪丸は伝心で菊千代に語りかけた。
《いや、動いちゃだめだ。妖獣は速い動きに対して敏感に反応するからね》
菊千代が犬の頭上から伝心で答えた。妖獣は犬と言うよりは狼に近かった。顔から背中にかけては狼なのだが首から腹、そして足にかけては人間の裸体のようだった。彼らは背中を丸めて二足歩行で移動していた。
《菊っち、あたし怖いよぉ…》
雪丸は震えながら言った。妖獣は雪丸の匂いをクンクンと嗅ぎ、それが何であるのかを判断していた。顔にハァハァという獣の息がかかり、雪丸はその臭さで気を失いそうになった。だが“森の気配”のお陰で、危害を加えてきそうな気配はなかった。少しすると妖獣は、大きなくしゃみを二度ほどして、その場を立ち去ってしまった。
「あたし、死ぬかと思ったわ…」
雪丸は体の震えを押さえながら言った。
「“森の気配”がなかったら頭からガブリだったね(笑」
菊千代はからかうように言った。あの妖獣には、雪丸が植物か何かに見えていたに違いない。
「こんなところに、本当に神様はいらっしゃるの?」
雪丸がいぶかしがるように聞いた。よくみると境内には、同じような白い妖獣がそこかしこに徘徊していたのだ。
「ここにはいないよ、たぶん裏山の岩戸に隠れていらっしゃるのだろうね」
菊千代が言った。神社のちょうど裏手には小高い山があり、その奥が岩戸になっているようだった。
「逢えないのかしら?神様に…」
「うーんこの様子だと、ここのセフィロトでは無理かな…」
菊千代は言った。その言葉に雪丸は少しがっかりした表情を見せた。
「ねえ、菊千代…じゃあ、さっき言っていたカルマのことを教えて…」
雪丸が気分を変えるように言った。それに何故か興味もあったのだ。
「そうだね。じゃあ、この奥にある“カルマの古井戸”までいこうか」
菊千代はそう言うと、参道をフワリと飛び始めた。
二人は社の奥へ奥へと進んで行った。社は人間界にある神社とそう変わりはなかった。神社を守るものたちの霊磁気の違いがそこにあるだけなのだ。神様を強くするも弱くするも、生命の樹に発生する霊気玉に関わってくるのだ。
「かつては神様を敬う“マンダラびと”たちが大勢いて、ここで神官や巫女をしていたのだと思うよ」
「え…ご先祖様たちが!…それがどうして獣たちばかりに?」
菊千代の言葉に雪丸が驚いて聞き返した。妖獣たちは至る所で交尾を繰り返していた。体から立ちのぼる霊気玉が、あたりをショッキングピンクに染めている。それは妖し気な生命力に満ちあふれていた。
「生命の森に増えだした“悦楽の霊気玉”が同種の“マンダラびと”を呼び寄せ、巫女や神官を追い出してしまったんだね。その“霊気玉”を食べ続けた“マンダラびと”たちは顔と体が変化し、やがて妖獣となってしまったのだろうね」
菊千代は漂っている霊磁気からその様子を読み取り、そう語った。
「霊気玉って一体何なのかしら?」
雪丸は独り言のようにつぶやいた。ピンクの霊磁気が体にまとわりついてきて、ここにいるとなんだかモヤモヤとした気分になってくるのだ。
「霊気玉は霊体を造っている素なんだよ。霊体そのものが霊磁気で出来ているからね。どんな霊的存在も霊気玉無しでは生きてゆけないんだよ」
菊千代はそう言うと雪丸の肩の上に飛び乗った。
「あたしの体が霊気玉なの?」
「そうだよ、霊はそれぞれ発している霊気玉の色でレイヤー分けをしているんだ」
「レイヤーって霊的次元ってことね」
雪丸は思い出すように言った。
「そう、類は友を呼ぶって言うよね。同じ霊磁気同士は引きつけ合うんだよ」
菊千代が言った。
「さあ雪っち“カルマの古井戸”についたよ」
そこは社の裏手に位置した古い井戸だった。様々な植物が生い茂り、ひっそりと埋もれたようにたたずんでいた。
「この井戸はそのままパンドラドームへと続いている。その途中で由美江の過去世が垣間みれるよ」
「過去世っていうと、自分が生まれて来る前の人生のことよね」
雪丸が聞いた。
「ああ、そうだよ。よく知ってるね」
菊千代がニコリと笑いながら言った。それからくるりと一回転し、古井戸の中へと入って行った。
「じゃ、先に入るからあとに続いて…!」
「え、もう行くの?まだ心の準備が…って、ちょっとぉ…」
雪丸が井戸を覗き込みながら言った。井戸の中は菊千代の発光するオーラで明るく見えていた。だがその奥は深く、光も届かないような暗闇だった。雪丸は少し躊躇していたが、意を決して井戸に飛び込んだ。その時、雪丸の脳裏には、あの可哀想な娘の姿がふとよぎっていた。
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井戸の中は光のレールがどこまでも続いていた。それは“意識の海”で見たような銀河鉄道ではなく、どちらかと言えばトンネルを走る夜行列車のようであった。どこまでも続く暗闇の中に、時おり現れては消えるイメージが由美江の過去世だった。
最初に流れてきたイメージはアラビア辺りの市場の様子だった。髭を蓄えた小太りの商人が女たちを従えている。商人はどうやら人買いらしく、お金と引換えに女を売渡していた。美しい奴隷はすぐに買い手がつくが、そうでない奴隷は売れ残ってしまい、その男に毒づかれ鞭を入れられていた。
「ねえ、この奴隷の中にあの娘さんがいるの?」
雪丸が聞いた。
「ううん、いないよ。あそこで鞭を振るっている男がいるよね。あれが由美江の過去世の姿だよ」
菊千代が言った。二人は駅で停車する列車のように、しばし過去世のイメージに留まり、その様子を観察していた。
「え…そんな。じゃあ奴隷の娘は?」
雪丸はその意外さに驚いていた。
「たぶん…あの村の男たちだろうね」
菊千代がそう言うとアラビアの過去世は流れ始めた。そこで降りる事もできるのだが、先がまだあるので短い停車となった。雪丸は過ぎ去ってゆくイメージを見つめたまま何も言わなかった。
次のイメージは中国のようだった。美しい花嫁と花婿が婚礼の儀式を挙げていた。花婿の家はとても裕福で、大きな屋敷を構えていた。結婚式も盛大なもので多くの来賓でにぎわっていた。
美しい花嫁はとても幸せだった。花婿もその姉妹たちも、みなやさしくしてくれたからだ。だが姉妹たちは密かにその花嫁を嫉妬していた。というのも、その姉妹たちは兄である花婿とは、みな肉体関係を持っていたからだ。
花嫁の美しさに魅せられた花婿は、結婚以来、姉妹たちには目もくれなくなってしまった。姉妹たちは兄を独り占めした花嫁に憎しみを抱き始めた。
「もしかして、あの姉妹たちっていうのが、村の男の人たち…?」
雪丸は首をかしげて言った。どことなく先ほどの奴隷女たちに似ていたからだ。菊千代がウンとうなづいた。
「じゃあ、花嫁さんがあの娘さんなの?」
「いや、違うな(笑」
雪丸の問いに菊千代が笑って答えた。
「由美江は花婿の方だよ」
「え、じゃあ過去世では兄妹だったの?」
雪丸はまたしてもその意外性に驚いてしまった。
「ああ、カルマのある者同士というものは、兄妹だったり親子だったり夫婦だったりと、肉親として生まれて来ることが多いんだよ」
菊千代と雪丸は中国の過去世にちょっと留まる事にした。話の結末が少し気になったからだ。過去世の映像はダイジェストのように主な箇所だけを写し、その他の部分は早送りで進んだ。
その後、花嫁に憎しみを抱いた姉妹たちは、花嫁を穢してしまおうと計画をする。二人が愛し合っているところに、男たちを夜這いにけしかけ、兄の見ている前で花嫁を犯してしまおうというものだ。
満月の夜だった。花嫁と花婿がいつものように愛し合っていると、数人の男が寝室に入ってきた。姉妹たちはそれを窓からこっそりと覗き見していた。花嫁が大勢の男たちに強姦される姿を心待ちにしていた。
しかし、男たちが犯し始めたのは、花嫁ではなく花婿の方だった。姉妹たちは呆気にとられてしまった。夜這いを依頼した男たちはなんと男色だったのだ。哀れな花婿は男たちに一晩中犯され続けた。女のように泣き叫ぶ花婿に、花嫁も姉妹も幻滅をしたようにそれを眺めていた。花婿は生き恥をかかされ、それを悲観してのちに自殺をしてしまうのだった。
「哀れだけど…少し滑稽な過去世ね(笑」
雪丸は笑いを堪えながら言った。中国の風景がユラリと流れていく。二人はゆっくりとまた光のレールの上を走り始めた。
「由美江と村の男たちはずっと同じカルマの中で、役割を変えつつ生きているんだよ。宇宙の作用と反作用だね。輪廻というレイヤーから物事を見ると、どちらが悪いとは言えなくなってしまうんだ」
菊千代は語り聞かせるように言った。雪丸はその後も由美江と男たちのカルマ劇をみせられ続けた。ある時は山賊と囚われた娘たちとして、ある時は生きながらに解剖される患者とその医師と、どれも最後には、恨みの言葉を残しつつ死んでゆく過去世ばかりだった。
「これはいつになったら終わりが来るの?」
雪丸は頭を抱え考えた。
「誰かがそれに気づき、やめるまでだろうね…どうだい雪っち?これでもあの村の男たちが憎いかい?」
菊千代が言った。
「うーん、あたし分からなくなってきたわ…」
「でも、カルマって一体何の為にあるのだろう…神様が造ったんでしょ?」
雪丸は言った。カルマが本当に必要なもので、善悪を正す為のものなら、世の中はもっと良くなっていいはずなのだ。ところが、実際は報復のカルマが延々と続く負の連鎖でしかない。雪丸はそう感じていた。
「本当はこんどこそカルマを克服しようって、みな生まれてくるんだよ。だけど“浮き舟”がそれをみんな忘れさせてしまうんだ。生きている間にそれに気づける人は幸せだよね…」
菊千代は静かに言った。雪丸は次の言葉が出て来なかった。菊千代の言っている事の意味は痛い程よくわかっていたからだ。“浮き舟”がみんな忘れさせてしまう。自分が本当は誰だったのかさえも…。
真っ暗だったトンネルの先に点のような光が見え始めた。光のレールがそこで途切れると雪丸の目の前にパンドラの視界がもどってきた。