∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_8 霊気の花
「菊っち、これは…!」
雪丸は小声でそう叫んでしまった。“霊気の花”の内部の広さにである。それはおよそ植物の内部というイメージではなく、いうならば人間の世界そのものだった。
《シッ…ここでは話してはいけないよ。残留思念たちに気づかれてしまうからね…》
菊千代は雪丸の思考にそう伝心した。そこは干し草が積まれた木造の納屋だった。かなり大きく内部はちょっとした広さがあった。高い天井は吹き抜けになっていて、長い階段が二階へと続いている。激しい雨に屋根が叩き付けられ、ゆらゆらと揺れる裸電球が納屋を暗く照らしていた。
「ホーホーッ」
「ホーホーッ」
「ホーホホーッ」
数人の若者が奇声を発しながら飛び跳ねていた。何かを追いかけているのだ。斬り裂くような雷鳴とゴウと鳴る風の音が、若者たちの興奮をさらに駆り立てていた。
「やめてけろ、やめてけろ!」
若い娘の懇願するような声が、男たちの奇声に混じり、納屋の中にこだましていた。娘は裸足で逃げ回っていた。帯はほどけ、浴衣から覗いた白い足が、男たちの欲望を掻立てていた。
《これは現実なの?》
雪丸がつぶやいた。これが植物の中で起きているとは、到底思えなかったからだ。
《これは過去の記憶だよ。あの女のね。精神の海にも残っていない古い傷跡だね…》
菊千代は伝心でそう答えた。“パンドラ”には比較的新しい記憶だけが蓄積されている。古い記憶は圧縮され、“生命の樹”で花となって生きてゆく。その花は実をつけ、過去の感情を霊気玉として生み続け“パンドラ”へと還元されて行くのだ。
《過去の記憶?でも残留思念たちに気づかれてしまうって、菊千代が…》
雪丸が小さな妖精に向かって尋ねた。過去の思念体がどうして自分たちに気づくのだろう。そう思った。
《彼らはこのレイヤーの中で、実際に生きているってことだね。そして現在の“浮き舟”に影響を及ぼしているんだよ》
菊千代は目を伏せ、そう答えた。眼下では正視に堪え難い光景が、繰り広げられていたのだ。
「いやぁぁぁああ…!」
女の泣き叫ぶ声が納屋いっぱいに響き渡った。捕まった娘が裸にされ、男たちに手足を押さえつけられている。生け贄を貪る悪魔の影が、雷光のたびに壁に大きく張りついていた。
《この人たちは今も生きているの…?》
雪丸は繰り広げられる光景と、菊千代の言葉との両方に驚いてしまった。これが過去の記憶であり、そして今も生き続けているのなら、それはまさに地獄の苦しみではないか。そう感じた。
《助けてあげられないの?》
雪丸が心配顔で伝心した。
《うん、心の記憶に他人が干渉してはいけないんだよ。へたな干渉は“浮き舟”の人格障害を引き起こすことが多いんだ》
菊千代は冷静にそう答えたが、雪丸には少し酷な経験だなと思った。
《パンドラエッグにセフィロトと対になった、もう一本の樹があるのを知っているかい?》
気分を変えるような口調で菊千代が言った。
《知っているわ、ここほどじゃないけどとても大きな樹が生えていた…》
雪丸はそう答え、パンドラエッグにあった大樹を思い出した。そこでマサシと出会い、その樹の上でこの世界の事を教えてもらったのだ。
《その樹を“知恵の樹”と呼ぶのだけどね、過去の出来事は花となって“霊気玉”を生み続け、その樹まで昇って行くんだ。そして“霊気の種”をそこに落とす。“未来の枝”でその種が発芽するとパンドラがその現実を引き寄せるんだよ》
《うーん、どういうことかしら?》
菊千代の言っていることの意味が、雪丸にはよくわからなかった。
《つまり…忘れ去った出来事でも、姿を変えて未来に転写されるってことだよ…生きている間、何度も何度もね。自分に起こる出来事は、実は自分が引き寄せているんだよ。それを乗り越えなければ、過去の自分も癒される事はないんだ》
菊千代は簡単な言葉で説明をした。つまりこの娘が未だに悲鳴を上げ続けているのは、その問題を避けて生きているからだろう。菊千代はそう思った。
娘はその後、何度も男たちの慰みものになり、悪魔の宴は夜明けまで続いた。嵐もやみ、闇が薄らと白けて来ると、獣の数は徐々に減り最後に娘だけが取り残された。放心した娘が裸のまま、空(くう)を見つめている。体からはダークブルーの“霊気玉”が沸々と湧き上がり、菊千代たちのところまで昇って来た。
《さあ、ここにはもう用が無いよ…》
“霊気玉”を手に取ると中から“喪失の種”を取り出し、菊千代は言った。
《うん…》
雪丸が力なく答えた。雪丸は眼下の娘をジッと見つめていた。
《さ、雪っち…いくよ。すぐにまた嵐が来る》
菊千代がそう言うと、遠くで雷鳴が聞こえ始めた。白々とした夜明けはすぐに暮れてゆき、ポツポツと雨が降り始めた。この世界は永遠にこれを繰り返して行くのだ。
「ホーホーッ」
「ホーホーッ」
男たちの奇声が再び聞こえ始めた。その声を最後に、風景は雪丸の前からユラリと消えていった。
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「さてと“陰の霊気種”を使った“森の気配”はこれで完成と…」
生命の森に戻ると、菊千代が言った。作ると言ってもただ種を揉みほぐし、引き延ばしただけの薄っぺらいポンチョのような物だった。
「これを着ればいいの?」
手渡された“森の気配”を眺め雪丸が言った。
「いや、陰の“森の気配”を単体で着ると暗い気持ちになってしまうからね。中和する為に陽の“森の気配”と重ねて着た方がベターなんだ。まあ、獣から気配を消すために着るわけだから、絶対に必要ってわけではないけどね」
菊千代が言った。逆に陽の“森の気配”だけというのもありなのだが、“情欲の霊気種”を使ったのでは発情したようになってしまうので、それも避けたいところだった。
「じゃあ僕は“陽の霊気種”を取りに行くけど、どうする雪っち、ついて来るかい?」
菊千代が言った。“情欲の花”はそこかしこに実を付けているので探す手間はなかった。
「ううん、あたし待ってる…」
雪丸はちょっと塞ぎがちに言った。彼女はまだ先ほどの光景に囚われているようだった。
「そっか、わかったよ。じゃあ僕だけ行くけど、くれぐれも気をつけるんだよ」
菊千代はそう言うと、ひときわ大きな“情欲の実”に飛び乗り、クルリと一回転すると中へ入って行った。
「やっぱり一緒に行けばよかったかしら…」
菊千代がいなくなると雪丸は急に心細くなって来た。森の中では相変わらず、人を真似た蟲たちがユラユラと動き回っていた。雪丸はそれら裸の男女から距離を置き、なるべく近づかないようにしていた。ダークイエローの霊気玉が花から生まれ、フワフワと樹の天辺へと昇って行く。そんな光景を眺めていると、雪丸は上方にキラキラと光る花が咲いているのに気づいた。
「まあ、きれいな花…!」
雪丸は驚くようにささやいた。他の花と比べてあまりに背の高い花なので、それまで気がつかなかったのだ。フワリと飛び上がって近づいてみると、その花が意外と大きい事に雪丸は気づいた。他のどの花よりも大きくりっぱな実も付けている。表面は金粉を吹きかけたような光る粉が付いていた。
「この花はなんという花なんだろう…」
雪丸はそう言うと、霊気玉を出す実の入り口に近づき、その色を興味深く確かめた。口からでてくるのは奇妙な色の霊気玉だった。何が奇妙なのかと言うと、霊気玉の色が次々と変わっていくのだ。あるときは寒色系だったり、ある時は暖色系だったりと、一定した色彩をもっていないのだ。
「この実にはどんな思い出が詰まっているのかしら…」
雪丸はそう思うと好奇心でいっぱいになった。
「こんなきれいな花に悪い思い出なんか詰まっているはずないわ、きっとそうよ」
雪丸は自分自身をそう納得させようとした。そしてすばらしい“森の気配”を作って菊千代を驚かせようとも思った。雪丸はその花の大きな実の上にフワリと乗ると、大きく空けた口にそっと両足を入れてみた。足首あたりまで入れたとき、不意にズルリと膝の辺りまで吸い込まれ、続けて腰、胸…と雪丸はずるずると飲み込まれて行った。
「きゃあ…!」
雪丸は驚いて声を上げた。だが、最後の叫びは、誰にも届かずに森の中へと消えて行った。雪丸のかぶっていたツバ広の帽子だけが、その花の上に残っていた。
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「もぉ、びっくりしたわ…」
中で一息つくと、雪丸は言った。“霊気の花”の内部に吸い込まれはしたが、中はさほど危険な事も無く、空間がポッカリと広がっていた。それでも雪丸は注意深く辺りを見回し、危険なものがいないか確認した。“霊気の花”は素晴らしく大きなものだったが、実の内部もやはり広く、こんどは屋外だった。そこは漁村近くの砂浜らしく、何艘もの舟が浜に上げられ泊まっていた。この記憶も空模様は怪しく、嵐が今にも来そうな雲行きだった。月の無い真っ暗な夜。舟の脇では燃えていた焚き火が、赤々と周囲を照らしていた。
「やっぱり来るんじゃなかったわ…」
雪丸は小さくつぶやいた。少女は高い松の木の上から下を見下ろし、目の前の光景にとてもがっかりした。というのも、またもあの娘が裸にされ、男たちに囲まれていたからだ。娘は以前とは変わり果てた姿をしていた。疲れた野良猫のように薄汚れていて、腹が大きく突き出ていた。どうやら身ごもっているらしい。雪丸はそう思った。
「なあ…今日は勘弁してけろ。おら…腹苦しくてあんべ悪いっちゃや」
娘はハアハアと喘ぎながら言った。
「なんだぁ、だらしねなぁ由美江…銭子ば取ってんなら最後まで仕事ばしれぇ」
若者の一人が言った。男たちはみなふんどし姿か下半身が丸裸だった。そそり立った一物を娘の口に含ませようと押し付けている。娘は四つん這いになったまま、顔を伏せて抵抗していた。
「ぷはぁ、味さねぇ乳だなや」
別の若者が娘の乳房にしゃぶりつきながら言った。
「どぉれぇ、オラほ飲ませろぉ」
男たちは仰向けになり、膨れ上がった乳房を交互に口に含んでみせた。男たちは酒に酔い、しだいに気分が高ぶって来た。娘の尻を平手でパンパンと叩きながら、歌を歌い始めた。
「痛でぇ、はだぐなぁ!やめでけろ…!」
娘は赤くなった尻をよじらせて叫んだ。
《ひどい…こんなのひどいよ!》
雪丸は涙を浮かべながらつぶやいた。見ると真っ赤な霊気玉が、雪丸のいる松の木まで昇ってきていた。娘の体から発せられているのだ。恐る恐る手を伸ばし、その玉に触れてみる。触れた瞬間、娘の叫びが火花散るように伝わってきた。
《殺す!殺す!殺す!》
雪丸は思わず霊気玉から手を離した。ものすごい殺意が伝わって来る。
《痛てぇ、腹さ痛てぇ…赤子さに殺されるぅ!!》
《おめーだじのせいだ!ぜんぶ、おめだじのせいだぁ!》
《オラをイヌコロみてにあづかいやがてぇ》
《殺す!殺す!殺す!おめらぶっ殺す!》
雪丸は立ちのぼる泡のような霊気玉に囲まれ、身動きが取れなくなってしまった。世を恨む娘の怨念が、まるで雪丸に向けられているように、あとからあとから投げつけられて来た。
ザザーン、ザブーン…
嵐が近づいて来たのか、潮騒の音がひと際高くなってきた。周囲に黒い霧が立ちこめて来る。娘の体からは止めどなく霊気玉が溢れ出していた。雪丸の霊眼にはそれが大きな赤い玉となって、娘と男たちを包んでいくのが見えていた。さらにその霊気玉を包み込むように、黒い霧が次第に濃くなりはじめる。
《あ…あれはなに?》
雪丸が驚いたようにつぶやいた。黒い霧の中から真っ黒い腕がヌウと伸びてきたのだ。真っ黒い体、縦長の頭、トカゲのような長い尻尾と次々にその姿を現してゆく。昆虫のようにツヤのある化け物である。
《寄生魔だわ…彼らには見えていないのかしら?》
雪丸は松の上からそれを眺めていた。寄生魔はヒタヒタと忍び寄ると、男女の上に重なった。娘から発せられる赤い霊気玉が、寄生魔の皮膚にゴクゴクと吸収されてゆく。
「ぐうぅわぁぁああ!」
娘が悶絶するように叫んだ。寄生魔の黒い指が娘の股間へと挿入されたのだ。
「なした?由美江。生まれるだか」
娘の突然の陣痛に男たちは慌てふためいた。ズブリ、ズブリ…異界の触手が娘の奥深くにぬめり込む。探りだすように胎児の頭を掴むと、寄生魔はグイと力を込めてそれを引っぱりだした。
「あ、頭さ見えてきたぞ!」
男たちが顔を見合わせ叫んだ。そして娘の股間から胎児の頭が覗きはじめると、布切れを下に敷き、ヌルリと飛び出た赤ん坊をその上に受け止めた。
「なしたらええ?」
男の一人が困惑して言った。
「泣かんなぁ、こいつ…ちゃんと生きとるだか?」
「んにゃ、ピクリともせんな…」
「んだな、こりゃ死産だなや」
男たちは口々にそう言うと、布切れにくるんだ赤子を娘に手渡した。娘は無反応に赤子を見つめていた。が、突然堰を切ったように笑い始めた
「ふふふ…ふはははは!」
「おめらの子、おっちんだなや。ふはははは…」
娘の言葉に男たちが一瞬押し黙った。が、すぐに気を取り戻し、互いに顔を見合わせた。
「あに言うだ。なしてわしらの子じゃあ」
「んだんだ」
男たちが怒ったように言った。そして言い訳やら屁理屈をたれ、娘に向かって毒づいた。それから嵐がくるとかの理由をつけ、蜘蛛の子を散らすように帰って行った。女はひとりその場に残され、しばらく押し黙っていた。そして死んだ赤子を惚けたように眺めていた。が、ふと何かの視線に気づき、由美江は顔を上げた。男が一人立っていた。黒装束の男である。
「あんだね、あんだ。今日は店じまいっちゃ」
由美江は浴衣の帯を締めながら男に言った。雪丸はその光景を上からジッと眺めていた。娘が寄生魔に気づいたことに驚いていた。
「その赤子どうする気だね」
男は無表情に言った。
「どうもこうもね。ただの屍じゃ、はははは…」
娘が笑いながら言った。
「それじゃ、わしがもらってもいいのか?」
「ふふ、取って喰いなさるかね?ならやってもええよ」
娘がからかうように言った。が、しばらくしてその笑いは娘の顔から消えた。男が赤子を手に取り、ボリボリ喰い始めたからだ。死んだ赤子はあっという間に男の腹に飲み込まれて行った。その様を娘は目を点にして見つめていた。雪丸もその光景をみて呆気にとられた。
「あんだ化け物やね。うまそうに喰っとるわ、ふはははは…」
娘が狂ったような笑い声を挙げた。その目には狂気があった。
「赤子の礼をしよう。何が欲しい?」
「…なんもいらんわ」
男の言葉に娘が返した。
「ではこう言うのはどうだ。お前に夢をみさせてやる。わしと契約すれば、その力を与えよう」
「へ〜、そったらことができんけ?面しゃそーだな」
娘の目に光が差し込んだ。
「では契約を交わそうか」
男はそう言うと、着ていた黒装束をバサリと脱いだ。娘はそれを見てニヤリと笑い、浴衣の帯を再び解いた。雪丸は高い松の木からその光景を見つめていた。その禍々しい気配にここにいてはいけないような気がしていた。
「ああぁぁぁぁああ…」
娘の、歓喜とも苦痛ともつかぬ叫び声が、辺り一帯に響き渡った。男と交わった娘の腹が臨月のように膨れ上がってゆく。逆に男の体は次第に小さく萎んでいった。
バリバリバリバリ!
雷鳴と共に青白い閃光が海を明るく照らし出した。それは寄生魔が娘に憑依した瞬間だった。やがて娘の大きな腹は、雪丸の見守る前でみるみると萎み、再び元の大きさに戻って行った。焚き火の炎が降り始めた雨に消され、辺りには炭の匂いが漂っていた。
「ねえ、あなた大丈夫?」
雪丸は思わず、木の上から娘に声をかけてしまった。娘はしばらくジッとしていたが、おもむろに顔を上げると雪丸を睨みつけた。その夜叉ともつかぬ怪奇な視線に雪丸は驚いてしまった。
「見ーたーだーなー」
腹の底から絞り出したような声が娘の口からこぼれた。雪丸は身の危険を感じ、フワリと松の木を飛び出した。
「きゃああ!」
雪丸が叫び声を挙げた。一瞬の間を置き、松の木に娘が飛び乗ってきたのだ。人間離れをした娘の動作は明らかに寄生魔の力によるものだった。
「雪丸、こっちだよ」
声のする方向をみると、小さな妖精が手招きをしていた。菊千代である。雪丸は必死で空を飛び、娘から逃げだした。娘が猛烈な速度で追いかけて来る。何度も捕まりそうになりながら、雪丸はふわりふわりとそれを避けていた。
「もうだめ、これ以上は無理よぉ!」
雪丸が泣きそうになりながら叫んだ。
「がんばるんだ、雪っち。あと少しで記憶の境界線だよ」
菊千代が雪丸に言った。言いながらその姿がスッと消えてゆく。夜叉となった娘が飛びかかり、その白い手が雪丸のワンピースの裾を掴む。
「きゃああ!」
雪丸が叫び声を挙げた。だが次の瞬間、娘も叫び声をあげた。娘の目の前から雪丸の体が消え、掴んでいた自分の手の、手首からその先が消えたのだ。娘は驚いたように手を引っ込めた。空間から再び手首が現れる。娘はしばらくその闇を見つめていた。が、雷鳴がしだいに遠ざかってゆくと、何事も無かったように、娘は舟の方へ戻って行った。