∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_7 セフィロト(生命の樹)
半透明な岩山から水が溢れ出し、滝のような流れを造っていた。だが山肌のように見える景色が、実際は樹の表面だとわかるためにはそれなりの時間が必要だった。樹の上から滝が流れ落ちて来る。その姿はどう想像したらいいのだろう。自然界にはあり得ない姿。しかし、生命の樹ではそれが普通の姿だった。
「わぁ、すごい眺め…!」
雪丸はその絶景を眺め、そう叫んだ。巨大な樹木が湖面にそびえていた。あまりに巨大で、一見するとそれは広大な森のようにも思えた。数千本の根はマングローブのようでもあり、空中から湖底に根を下ろし大樹を支えている。樹の表面は半透明なクリスタルで出来ていた。幹の中を水と光が流れている、そんな風に見えるのだった。
「あたしたち、あんなところから吸い上げられたのね!」
雪丸は根っこを眺め、感嘆するように言った。遠くをながめると同じような巨木が点在しているのがわかった。
「土と水と大気、これらはそれぞれ第一霊体、第二霊体、第三霊体に相当するんだよ。遠くに大樹が見えるだろ。あれは、同じ霊線をもった“他の浮き舟”の心。つまり浮き舟たちの霊体と心はマンダラ界(の土と水と大気)で繋がっているんだ」
妖精のように飛びながら菊千代が言った。人形のように可愛らしかったが、その姿は現実界での姿とほぼ同じだった。違いは背中の羽ぐらいであろうか。服装は上下ともに白いアオザイを着ていた。
「霊体ってこんなに広くて大きいものなの?でもあたしの体はこんなにちっぽけよ」
「雪っちの体は第四霊体だからね。第四は別名幽体ともいって肉体から離脱することが可能なのさ。生霊なんかもみな第四霊体で出来ている。僕のこの体もね。」
そう言うと菊千代はくるりと一回転してみせた。
「ねえ、菊千代。さっきから気になっているんだけど。あれって人の家よね」
雪丸はそう言うと頭上を指差した。鬱蒼とした森の(いや、実際は一本の大樹の)ちょうど中腹あたりだろうか。大きな白い建物が、枝分かれした大樹の中央に建っているのだ。
「いや、あれは人の家なんかじゃない。神社だよ」
社を眺め、菊千代が言った。
「神社って…神様のいる?」
「ああ、そうだよ。人の心にはみな神様が住んでいるんだよ」
特殊な者を除いて…と菊千代は言いかけたがやめておいた。
「あたし、あそこに行ってみたいな。神様に会ってみたい」
雪丸が目をキラキラさせながら言った。
「うーん、それは…どうかなぁ」
「どうかしたの、菊っち?浮かない顔をして…」
「行っても逢えるかどうか、わからないよ。それに…」
この森はあの女の心なのだ。寄生魔はパンドラを支配している。だから生命の樹で出くわすことはない。だが、元々地獄霊のような女なのだ、ろくな人生は歩んではいまい。どんな危険な妖蟲や妖獣が棲息しているかわからない。菊千代はそう思った。そんな森に神様が住んでいらっしゃるとは到底思えなかった。おそらく岩戸の奥深くに隠れてしまっていることだろう。
「どうしてもだめなの…」
妖精の顔を覗き込むように雪丸が言った。
「まあ…この森を抜けて“浮き舟界”に戻るには、どのみち“パンドラエッグ”まで行かなければならないからね。本来なら幹の水路を使った方が速くて安全なんだが、神社の井戸を使うという手も…」
菊千代が独り言のようにそうつぶやくと、雪丸の顔がパッと明るくなった。
「本当?やったぁ!…菊っち大好きよ」
そう言うと雪丸は妖精の顔にキスをした。菊千代はやれやれという表情し、それからニコリと笑った。
「じゃあ、どんな妖獣がでるか分からないからね、どこかで“霊気の種”を見つけなきゃ。できれば中性のものがあるといいんだが…」
「妖獣って…」
雪丸の顔が一瞬引きつった。
「森に住む獣のことだよ。蟲もいるだろうしね。やつらから身を隠すにはこの森で採取した“霊気の種”から“森の気配”を作って着る必要があるんだよ」
そう言うと妖精は何かを見つけたように、森を目指して飛んで行った。
「ちょ…ちょっと、菊千代ぉぉ…」
雪丸は少しばかり躊躇していた。が、思い返したようにフワリと宙を舞い、菊千代の後を追いかけて行った。
森の中は鬱蒼としていて薄暗かった。暗いのだけれど視界にはさほど不自由はなかった。ボーっと光る妖蟲たちがワラワラとうごめき、光る植物がユラユラとゆらいでいたからだ。妖蟲は同類同士で集まり、くっ付き合って、あるものは樹のような擬態をしたり、あるものは人のような姿をとったりと何かしら意志を感じさせる行動をみせていた。花はダークイエローの霊気玉を定期的に吐き出し、森全体が黄色がかった色彩を帯びていた。そこにはブラックライトで照らされたような暗い明るさがあった。
「やーね薄気味悪いわ、ここ…」
雪丸は蟲たちに警戒しながら言った。
「セフィロトは浮き舟の心だからね。その人間の持つレイヤーが森に反映するのさ」
菊千代は辺りを見回し、そう言った。
「セフィロト?…レイヤー?」
雪丸が首をかしげて聞いた。またマンダラ界の新しい言葉だ。
「セフィロトって言うのはこの森“生命の樹”の別名だよ」
「へー、この森にそんな素敵な名前が付いているのね。じゃあレイヤーは?」
雪丸が興味深い表情で聞いた。
「括りとか属性ってことかな、次元ともいうね。蟲たちや植物の取っている擬態をみるとよくわかる。ここは地獄の中でも色情界の影響を一番受けているみたいだね」
菊千代は地面を指差して言った。地面にはそこかしこに光るキノコが生えていて、一見松茸のようにもみえたるのだが、よく見るとそれは男性器の擬態だった。その他に女性器を真似た花も多かった。
「うわー、ちょっとHなのね…お義母さん」
雪丸は顔を赤らめながら言った。そう言われてみると人型を擬態した蟲たちは、みな全裸の男女に見えて来るのだった。
「過去につくられた彼女の残留思念に“情欲の霊磁気”が宿って、この森の妖蟲や妖植物が生み出されたのだろうね。しかし…」
菊千代は言葉を区切り、さらにこう付け加えた。
「“森の気配”に“情欲の霊気種”を使うのはいいとしても、陽性が強すぎていけないなぁ“陰の霊気種”を探して調合しないと…」
「“霊気種”?」
雪丸が聞いた。
「霊気玉は知ってるよね。そのあたりからシャボン玉のように出ている玉のことだけど」
「うん」
「それを吐き出している花が“霊気の花”で“霊気種”はそこから取れる種のことだよ」
菊千代はそう言うと、森の中に寒色系の霊気玉を見つけ、そちらに向かって飛んで行った。雪丸もフワリとその後を追いかけた。近づくと、ひときわ大きなその実からは、ダークブルーの霊気玉が沸々と生み出されていた。
「さあ、見つけたよ。じゃあ、この中に入るけど一緒に来るかい?」
「え、この中に入るの?あたしにはちょっと小さいような気がするけど…」
雪丸が躊躇して言った。大きな花といっても、子供一人がやっと入るかどうかという大きさだったからだ。
「雪っち、僕たちは霊体だってこと忘れたのかい?」
菊千代はクスクスと笑い、それからその花に飛び乗った。ポッカリと開いた花の口からは、フワリフワリと霊気玉が吐き出されている。
「行かないならここで待っているかい?」
菊千代はそう言うと、新しく生み出された霊気玉の上に寝そべり、足をパタパタと動かした。森の奥から得体の知れない獣の遠吠えが聞こえて来る。雪丸はその声にギクリとして飛び上がった。
「もぉ〜、菊千代のいじわるぅ。いっしょに行くに決まってるでしょ!」
慌ててそう言うと、雪丸も“霊気の花”にフワリと飛び乗った。二人が中に入ると、霊気の花は少しの間だけ金色の霊気玉を放出し、しばらくすると、また元の色に戻っていった。