∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_5 覚醒と忘却の狭間
人は空を飛ぶ夢を見る事がある。何の疑いも無く、飛べることが当たり前の世界。その世界ではそれが常識であり、飛べない事の方が不思議なのだ。
魂が“浮き舟”にログインする…つまり、人が眠りから覚めるという状態は、この世界の常識に縛られて行くということでもある。この世界の常識が魂にロードされてゆく。人は空を飛ぶ能力がない。人は食べなくては生きて行けない。浮き舟界のありとあらゆる決めごとをロードしてゆく。
パンドラにそれらが刷り込まれ、条件づけられることによって、パンドラのネットワークがそのような世界を実現するのだ。自由に飛べたマンダラ界の感覚は“夢”という形で処理され、時間の経過と共に消えて行く。運がよければその断片だけが残り、ピースの欠けたジグソーパズルのように淡い記憶だけが残る。
もしも、その感覚をそのまま持ち帰る事ができたのなら、実はこちらの世界でも飛べるのだと言う事実は、多くの場合隠されている…。
「おお、マサシ気がついたか…。爺ちゃんがわかるか?」
雪丸が薄っすらと目を開くと、老人が覗き込むように言った。
《老人…顔の認識…お爺ちゃん…お父さんのお父さん…》
雪丸の知らない情報が瞬時に頭の中に流れ込んで来た。パンドラに構築された“浮き舟”のデータベースが雪丸の魂にロードされ始めているのだ。細部のデフォルメされたマサシ固有の妄想がパンドラの世界に上塗りされ、アニメーションのように展開されて行く。雪丸はマサシに成り始めていた。
《急がなきゃ…》
雪丸は今、覚醒と忘却の狭間にいた。薄れゆくマンダラ界での記憶を辿りながらやるべき事を実行しなければならなかった。時間の経過と共にそれは消え始めているのだ。マサシの作った“記憶の防護服”が忘却の速度を緩やかにしている間に…。
「安らぎの霊気玉を増やさなきゃ…」
雪丸がうわ言のようにそう呟いた。
「霊気玉…?なんじゃそれは…」
老人が聞き返す。
「シャッコウ様を浄化させないといけないのよ、あたし…」
「何を言っているのかしら…?お義父さま、この子ったらどうかしてしまったんですわ」
義母が隣から口を挟んだ。平静を装ってはいるが、苛立ちが表情に伺えた。
《女性…顔の認識…お義母さん…お父さんの奥さん…》
再び新たな記憶がロードされはじめる。それと共に義母の顔が徐々に変化を始めた。ギョロリとした大きな目がつり上がり、口は耳まで裂けてゆくのだ。髪の毛は逆立ち数百匹の蛇が頭の上で蠢いている。
《お義母さん…魔女…お母さんを殺した…お父さんも殺される…僕も…》
「あの…シャッコウ様って不成仏なご先祖様が、祟り神になった状態のことかしら?」
菊千代が少年に助け舟をだした。由美江の邪視を少年からそらせる為だ。彼女はこちらの張った結界の外にいる。だから強い態度に出ることができないのだ。強い思念を投げつければそれが反射して自分に返ってしまう。その苛立ちがここまで伝わってくるようだった。このまま二つ先の駅までやり過ごす事ができれば、運命は変えられる。菊千代はそう考えていた。
《お姉さん…電車にいた女性…データ不足…理解者…》
マサシの知らない女性が手を握っていた。だが雪丸の目にはその女性が女神に変化してゆくのが見えていた。
「お姉ちゃん…!そうなの。早くしないとマサシ君がシャッコウ様に飲み込まれちゃうの。浄化しなきゃ…そのためには“安らぎの霊気玉”を増やさないといけないのよ…」
雪丸はそう言うと体を動かし起きようとした。
「じっとしておれマサシ。お前はまだ混乱しておるんじゃ…」
老人は孫にそう言うと、驚いたような表情を見せた。惚けたように押し黙っていた孫が普通にしゃべっているのだ。多少おかしなことを言っているようだが、それでも老人には喜ばしく思えた。
「落ち着いてマサシ君…大丈夫よ」
菊千代はそう言うと自分の手をマサシの胸に当てた。少年の話す言葉の意味を菊千代は理解していたのだ。
「あ…」
雪丸は思わず声をあげた。菊千代の手のひらから、何か暖かいものが流れ込んでくる。それが胸の奥へと広がり、全身に浸透して行く。雪丸はそれが“安らぎの霊気玉”であることが分かった。目をつぶると目の前に大きな森のイメージが広がり、そこからライトピンクの霊気玉が一斉に湧き上がってくるのが見えた。
「お姉ちゃんすごい!すごいわ…!」
雪丸は目つぶったままそう叫んだ。
《君、この子に憑依した霊だね…》
菊千代が心の中でそう尋ねた。この思念が通じるかどうか、ちょっとした賭けでもあった。
《え…?》
雪丸の目が開く。光の加減を調整しようと瞳孔が収縮しはじめる。
《そのままでいいから聞いて…今は説明をしている暇がないんだ》
《うん、わかった…》
菊千代が心でそう伝えると、少年は目で合図を返した。本当は色々な疑問が次から次へと湧いて来ていた。(なぜこんなことができるの?)(なぜあたしのことがわかるの?)(なぜマンダラ界のことに詳しいの?)(なぜ?)(なぜ?)(なぜ?)矢継ぎ早な思念が菊千代に流れ込んで来る。
《その子から早く離れなさい…通常の憑依ならともかくパンドラキューブは危険なんだよ》
菊千代は少年の思念を無視してそう伝えた。
《でも、マサシ君を放ってはおけないわ…戻って彼を助けなきゃ…シャッコウ様に食べられちゃうのよ》
《シャッコウ様は不浄化な存在だけど一応先祖霊だよ、その子に害はない…》
確かにその子には害はない。ただ家族は不幸に見舞われるかもしれない。と菊千代は思った。地獄霊の先祖が憑依するのだ、自己中心的な性格に変貌し、家族は翻弄されることになる。だが、それもその家の宿命なのだ。先祖供養を自らの手でおこなっていれば、家系の霊線にシャッコウ様を生み出す事は無かったはずだから…。不良になった子供を癒し、更正させてゆくのも広い意味では先祖供養ということになるのではなかろうか。菊千代はそう考えていた。
《本当? 彼に害はないの?》
雪丸が心で尋ねた。
《ああ、彼にはね。ただ、君がそこに居てはダメだ…シャッコウ様がいまログインして来たらどうなると思う?》
《どういう意味…?》
《君はシャッコウ様の一部になってしまうんだよ》
《え…そんな!》
菊千代の言葉に雪丸は愕然とした。あの得体の知れない怪物の一部になるなんて、とても耐えられなかった。
《あたし、どうしたらいいの?どうやってパンドラキューブを出たらいいのかわからないのよ…》
《ねえ、君。僕の示すものが見える?》
そう心でつぶやくと菊千代はひと差し指を少年の額につけた。
《これを持っていなさい。困った時に役立つはずだよ…》
《これは…》
雪丸はイメージに現れた物を眺めた。黒いイヤリングである。もちろん物質ではない。霊的に作られたイヤリングなのだ。見ると女性の耳にも同じような黒いピアスがしてあった。
《うん、わかったわ。ありがと…》
雪丸が礼の言葉を口にしかけた瞬間、不意に電車の速度が落ちた。乗客たちの体が進行方向に向けてグイと傾く。不安定な姿勢でいた菊千代は、その状態を保つ事ができなかった。進行方向に投げ出される形でバランスを崩し、触れていた手が少年から離れた。
《しまった…!》
菊千代は心の中で舌打ちをした。横に一回転ほど転がると伏せた姿勢で体が止まる。続いて車内アナウンスが駅の到着を呼びかけた。体を起こすと例の浪人風が目の前の席に座っていた。視線を親子の方に戻す。少年の義母が彼の手をにぎり勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
《早くその子から逃げて!憑依と同じ要領でジャンプしなさい…!》
菊千代は叫ぶように思念を送った。
雪丸はその声を辛うじて聞き取る事ができた。はっきりと聞こえていた声がどんどん遠ざかって行く。そして、それを最後に通信は途絶えてしまった。記憶の防護服が溶け始めたのだ。“マサシの浮き舟”が雪丸の持つ記憶を不要な物と認識し、それを消去し始めているのだ。
《マンダラ界…消去…浮き舟界…消去…》
薄れて行く記憶と引き換えに“マサシの浮き舟”の世界が雪丸の意識を埋めて行く。追いつめられるような恐怖感。その恐怖から発する霊気玉。体からそれを吸い取られてゆく感覚。
《魔女が僕を食べていく…僕は不要なもの…生まれてはいけないもの…》
《霊気玉…消去…シャッコウ様…消去…》
雪丸は初めて気づいた。魂の意識と肉の意識はまったく別なのだと。本当はもっと自由で、もっといろいろと知っているのに“浮き舟界”というシステムに消去され、パンドラというちいさな世界に縛り付けられているのだと。“浮き舟”自身がそれに気づけなければ、世界をそのあるがままに見る事はできないのだと。
《霊気玉…消去…浮き舟…消去…》
《あたし…消えちゃうんだわ…》
雪丸は消えてしまうという恐怖を突如として知った。これからは雪丸ではなくマサシになるのだ。それはそれでいい。けれど、もっと自分にいろいろしてやりたかった。例え幽霊でももっと経験すべきことはあったはずなのだ。今はとても自分が愛おしく思えた。
《さようなら…雪丸…さようなら…あたし…》
雪丸は自分自身に短い別れを告げた。
《安らぎの霊気玉、ちゃんと届いたよ雪ちゃん…》
《え…?》
雪丸の意識の中に別の声が聞こえた。それと共に強い衝撃が、雪丸の背中をグイと押した。
《ありがとう…本当にありがとう…》
声は何度も何度もそう繰り返していた。そしてその意識もやがて薄れて行った。
《雪丸…消去…》
《あの子うまく飛べたのだろうか…?》
菊千代は少年の意識が何者かと入れ替わるのを感じていた。最後の思念を送ってからほんの一瞬の出来事である。マサシから憑依の気配が消えている。だがマサシ本人とはちょっと違う、新しい気配が芽生えている。そんな気がした。
《先祖代わり…シャッコウ様か?》
「あらあら、大丈夫かしら。電車の中はちゃんと座っていないと危険ですよ」
少年の義母が倒れている菊千代に声をかけた。不敵な笑みの下に由美江の高らかな笑いが聞こえてくるようだった。
「すまんね、お嬢さん。怪我はないかい?危険だから席に座っておくれ」
老人が菊千代に声をかけた。
「あ…」
このチャンスを逃すまいと遊び人風が腰を上げた。(大丈夫…?彼女)そう切り出し、手を差し伸べるはずだった。
「大丈夫ですか?座っていないと危ないですよ」
手を差し出したのは。浪人風の男であった。遊び人はまたもタイミングを逃し、上げた腰をちょっとずらすと(オレはちょっと位置を変えただけなんだよ!)という顔をして、その場を取り繕っていた。
「ありがとう…」
菊千代は差し伸べられた手を握るか握るまいかを迷っていた。だが、人の好意を無視するのも気が引け、あきらめて手を握った。当然、彼の横に座るのが自然な成り行きだろうか…。菊千代はぬるりとした手のひらの感触に、全身の毛がゾワリと逆立った。起き上がり、少し間を空けて座ったが、触れた手の感触がいつまでも残り、そこから男の放つ生霊が流れ込む気がしていた。
《予定は狂ったけれど、この男が最終的にアクションを起こさなければいいわけか…》
菊千代はそう思うことで、気を取り直すことにした。
プシュウゥゥ…ゴゴゴゴゴォ…
数名の乗客が入れ替わり、電車が再び動き始めた。
「お爺ちゃん、僕、施設にいれられちゃうんだよね?」
唐突な孫の質問に老人と義母は顔を見合わせた。マサシからこんな言葉が出て来るとは夢にも思わなかったからだ。医者からは後天性の自閉症だと診断され、施設での療養生活を勧められていた。孫と離れる事は寂しい事だが少しでも改善されるならと、施設にいれることを承諾したのだ。今回の電車での移動は、少しでも孫との時間を持ちたいという、老人からの希望でもあった。
「僕どこも悪いところないんだけどなぁ…」
少年は老人の目を覗き込むように言った。
「マサシ…お前」
老人はなんと返答していいかわからなかった。つい先ほども混乱していたとはいえ、マサシは意志を持った話し方をしていた。こんな聡明な孫の姿を見たのはいつのことだったろう。老人はそう思った。
「うん、でもいいんだ僕。病気だっていうことにしておくよ。お義母さんは僕のことが邪魔みたいだしね。いない方が計画がうまく行くんでしょ」
「いつ私がそんなことを言ったの?マー君、妄想もいい加減にして頂戴」
由美江はマサシの変貌ぶりに焦りを感じていた。もしかしたら正気にもどってしまったのでは?そう考えると気が気ではなかった。
《計画のことをお義父様に話されでもしたら…いや、こいつしゃべるつもりなんだわ。ちくしょう、なんでこんな時に正気にもどるのよ!》
由美江の感情は焦りから怒りに変わって行った。ここは何が何でもマサシの妄想ということで通すしかなかった。義母は渾身の眼力を込めてマサシを睨みつけた。このまま気絶させて殺してしまいたかった。
「妄想かぁ、そうだよね。僕の妄想なんだ、きっと」
マサシは義母の邪視を避け、視線を祖父に向けた。
「妄想だから怒らないよね。お爺ちゃん」
「ああ、怒らんよ。それはどんな計画なんだいマサシ?」
「マー君、やめなさい…」
由美江が静かに口を挟んだ。
「お義母さんがお父さんを殺す計画だよ」
由美江の静止を無視し、マサシはクスクスと笑いながら言った。
「た、達夫を殺す…そ、それは物騒な計画じゃな」
老人は孫の“妄想”ということで気持ちを落ち着かせようとした。
「お父さんはね。死んだお母さんと同じ薬を飲まされているんだ。お義母さんにね。それで弱らせて殺すんだって、そこにいるおじさんに話していたよ」
マサシはそう言うと、斜向かいに座ったサングラスの男を指差した。
「マサシ…いい加減にしなさい…」
押し殺したように母親が言った。怒りの波動が由美江の体からほとばしり、それは爆発寸前だった。少し離れた菊千代の席までも、その波動は伝わってきた。まさに夢の通りの展開になりつつあるのだ。
《まずいな…このままではこの人は狂う…》
菊千代はそう思った。隣に座った浪人風が、由美江のオーラに影響され始めているのだ。彼は膝の上で両手を握りしめ、何かを必死で耐えているようにも見えた。
《もしも暴走し始めたら、隣に座った僕が真っ先に殺られるだろうな…》
菊千代は男の抱えたショルダーバックを見ながらそう思った。夢の通りなら、その中にはサバイバルナイフが入っているはずだった。だが、夢の中で自分は、俯瞰(ふかん)の位置から状況を眺めていただけで、登場はしていないのだ。自分がこれだけ関わっていると言う事は、違う未来をすでに選択しているとも言えるのだが…。
《違う未来の結末が僕の死であることも充分あり得るわけか…》
菊千代はふとそう考え、苦笑した。
問題の駅に電車が到着するまであとわずか。現実の時間はわずかでも霊的な時間に置き換えると、それは果てしなく長そうな道のりだった…。