∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_4 菊千代の見た夢
《こんな時間に電車に乗るなんて、久しぶりだな…》
菊千代はガランとした車内を見渡し、そう思った。通勤時間を過ぎた電車には、自分を含め十五人程の乗客が乗り合わせていた。車両前方には女子学生と主婦、後方にはサラリーマンとカップル、菊千代のいる車両中央には小学生の子供とその家族、遊び人風の男、浪人風の男性、そしてサングラスをかけたスーツ姿の男がそれぞれ距離を置いて座っていた。
「ヒュー…!」
遊び人風が菊千代を見上げ奇声を発した。続けて食らいつくような強い思念が、菊千代の体にまとわりつく。だがそれは、遊び人風のものでは無く、別の方向から飛んで来たものだった。
《ま、いつものことだが…これはちょっと外道だな》
菊千代はその思念には逆らわず、しばらく泳がせておくことにした。結界は張られているのでそれが霊体にまで及ぶ事はないからだ。ただガラス越しに触られているような不快感は残った。他にもいくつか気になるものを感じてはいたがいまは気にしないことにした。
《さて、問題のターゲットは…と》
菊千代は親子連れの正面の席に腰をかけ、男の子に微笑みかけた。子供の顔は菊千代を向いていたが、視点は空(くう)を見つめていた。が、同時に少年の中に別の視点があることにも気づいていた。菊千代の“観た”感じでは、無表情な少年が依り代になり、浮遊霊が一体憑依していた。
《この家族だ…夢で見たのと同じ風景…同じ顔ぶれ…》
菊千代は“場の空気”のようなものと、今朝自分が見た夢とを比較していた。惨事の起こる夢である。トリガーになるのはこの少年だった。
《どちらが僕のターゲットかな…?》
子供は二人いる。依り代と憑依霊だ。たぶん…憑依している方がターゲット?菊千代はそんな気がした。菊千代は少し踏み込んでその子供を“観”ようとした。だがその試みにはすぐに邪魔が入った。右隣の男がおもむろに立ち上がり、菊千代に強い意識を向けたからだ。遊び人風である。
(どうやって声をかけっかなぁ…)(お姉さん、その服すっごい可愛いけどどこで買ったの?)(オレのダチがコスプレーヤーなんだけどさぁ…)(いや、待て。こいつが外人だったらどうする…?)(ハーイ…)(でも英語通じないかもしれないじゃん)(後が続かなかったら間抜けだしよぉ…)
強い思念が矢継ぎ早に菊千代に浴びせられた。細かい内容までは分からないのだが、その思念を“観る”とだいたいの要望は伝わって来た。どうやら自分をナンパしたいらしい。菊千代はそう感じた。
彼は至る所にタトゥーを入れていたが、そのどれもが中途半端な落書きのようであった。入れ墨を入れるという行為は一種の“依り代”を体に持つと言う事なのだ。そこにその者と波長のあう“何者か”が降りて来る。
《落書きに大物は降りてはこないかな…うふふ》
菊千代はあえて彼と視線を合わせてみた。一瞬の勝負である。視線には何の思念も込めずにただ視線を合わせる。人間というものは思念に反応する生き物なのである。そこに何かがあるからリアクションが起きる。ところが“無心”の相手に向き合ったらどうなるか…。時間にすれば0コンマ01秒。いままで飛んで来ていた怒濤の思念がその瞬間“真っ白”になった。空(くう)の中に彼の思念が全部吸い込まれ、何一つ返って来ないのだ。何が起こったのか…彼には理解できないようだった。遊び人風は開きかけた口を閉じ、頭をガリガリと掻くと、バツが悪そうに席に戻っていってしまった。
(バカバカ!なにやってんだよ、オレは。今の最高のタイミングだったのに…)
遊び人風が頭の中で自分を毒づいた。それから少し間を置いた後で、再び怒濤の思念が流れて来た。だがそれは菊千代に向けられたものではなく、自分のリアクションに対する後悔やら言い訳やらのループのようだった。
そして、同じタイミングで菊千代の体にいくつもの生霊が張り付く感覚があった。が、それは無視することにした。生霊のレベルまで相手にしていたらきりがないのである。結界を破れるような大物には、いまだにお目にかかった事はないからだ。
《パンドラキューブにログインしてはいけない…》
菊千代はふたたび、少年に向かって思念を飛ばしてみた。一度目は電車の外からだったが、その時は確かに反応があった。《誰…?》という問いが、ホームに入る電車から菊千代の霊聴に届いてきたのである。だがこんどは反応がなかった。
《遅かったか…》
空(くう)を見つめる少年を眺めながら、菊千代は考えた。彼の精神に潜って行った憑依霊のことである。彼の存在が惨事を引き起こす鍵になるような気がするのだ。“パンドラキューブ”を理解せずにログインすればどうなるのか。下手をすれば人格は崩壊し狂いだす。最近の無差別殺人とは心を病んだ人間にトリガーとしての憑依が重なることで起こる事が大半なのだ。
菊千代は眷属神から伝えられた夢の内容を思い出してみた。眷属神とは神の使いのことである。菊千代には“ポーポウ”という眷属が神より使わされていた。名前は可愛いが霊眼で見ると燃え盛る獅子の形相をした恐ろしい眷属である。
「コドモヲスクエ」
夢から覚めるとポーポウは菊千代にそう言った。といっても言葉を話す訳ではない。彼らは思念で意志を伝えてくるのだ。たぶん眷属神が夢そのものを菊千代に見せていたのであろう。その光景は今でもはっきりと思い出せる。それほど鮮明な夢だったのだ。
“子供を救え…”ただそれだけを伝えると彼は消えて行った。いつどこへ行けばいいのか、どの子供を救うのかは夢の内容が示していたので迷うことは無かった。
菊千代は夢の示す時刻にJR Y線のU駅から外回りの電車に乗り込んだ。車内の顔ぶれも配置もまったく夢と同じである。夢の中では2つ先のA駅手前で事件は発生した。U駅から乗り込むと、直後に子供が発作を起こし気を失ってしまう。しばらくして意識を回復するが祖父に向かって支離滅裂なことをしゃべりだす。その言葉に義母が怒り心頭するのだ。
といっても、激怒した義母が子供を殺すというわけではない。義母は激怒を表面に出さずに感情を押さえ込むのだ。その思念のあまりの強さに他の客にその怒りが伝播してゆき、客の一人が憑依されて子供を惨殺する。夢の内容はおおよそそんな感じであった。
客の一人と言うのは菊千代の斜向いに座った浪人風の男性である。浪人風と言ったのは第一印象がそう思えただけで、実際に彼が浪人であるかは定かではなかった。長い髪の毛に隠れた眼鏡の奥には、神経質そうな目が絶えず回りを気にしていた。食らいつくような強い思念を最初に送って来たのも彼だった。多分自分をネタにして妄想を膨らませているのだろう。菊千代はそう思った。夢の中の出来事が事実であるなら、彼はショルダーバックにサバイバルナイフを忍ばせているはずだ。護身用として普段から携帯しているのだろう。
《しかし…》
《事件が実際に起こるにしても、何故子供を救うのだろう…?》
菊千代は疑問に思った。眷属はめったなことでは指示を出しては来ない。ましてや“人道的な理由”というだけで人助けを指示するとはとうてい思えない。正神に仕える眷属は人間界のことにいちいち干渉することはしないのだ。人間に干渉するのは幽界にいる脱走眷属たちぐらいなものである。たぶんこの子供は、何か特別な存在であるに違いない。菊千代はそう考えた。
「マー君、あまり人の事をジロジロ見るものじゃないわよ」
刺すような声が正面から聞こえ、菊千代は視線を移した。母親が子供に向かって小言をいっているのだ。遊び人風がうさん臭そうに親子を睨んでいる。少年は緩慢な動作で意志を示したが、その態度が気に入らなかったのか母親の顔がいっそう険しくなった。
「わかってるの?」
小声だが脅すような口調でピシリと言う。少年のあごを持ち、顔を近づけ睨みつける。波打つような衝撃が車内を貫き、空間を歪ませた。菊千代はその強い思念に目を見張った。母親の一見穏やかな口調とは裏腹なドス黒い憎悪の思念。老人の手前、品よく装ってはいるが、一瞬見せたその妖気にその女の本性が垣間見えた。“虐待”いや、人間を放棄したようなこの子の表情を見ていると、それ以上の仕打ちをしているに違いない。
《この女の背後にいる存在はただ者ではない…》
菊千代はそう思った。これほどの鬼畜性を女の中に育てながら、その依り代をうまくコントロールしている。必要なとき以外はむやみに表面に出ず、その背後に隠れている。いや、この女性の持つ元来の鬼畜性故に後天的に依り代として選んだのかも知れない…。菊千代はこの母親に憑依している存在を“寄生魔”だと直感した。
人間に憑依して生きるものには大きく分けて三通りある。一つは先祖霊。一つは物の怪や浮遊霊。そして幽界の寄生魔である。先祖霊からの憑依と言うと、何か禍々しいものを連想するかもしれないがそれは誤解である。極端なことを言ってしまえば、先祖霊からの憑依は日常茶飯事に起こっている。そもそも人間の喜怒哀楽というのも、多くは先祖霊の憑依によってもたらされている場合が多いのだ。縁ある先祖霊からの憑依は神からも許されている正当な憑依でもある。
次に物の怪や浮遊霊からの憑依。浮遊霊といっても様々で、成仏する事の出来ない自縛霊から人間の放つ生霊など様々である。その他の代表的な者に弧、狸、蛇などの物の怪があり、森や古い建物で憑依される事が多い。これらは瞬間的に強い憑依が可能で、通り魔殺人などの要因にもなる。
そして“寄生魔”からの憑依。寄生魔は主に幽界で生きる妖魔あるいは邪神である。それらが人間に憑依し“寄生魔”となる。幽界に住む彼らは人間界に干渉する為に、依り代としての“浮き舟”を選ぶ。寄生魔自身との波長が最も重要であり、寄生された人間は寄生魔と同じような能力を発揮することができるようになる。新興宗教の教祖の多くは、幽界からの脱走眷属が寄生魔として寄生していることが多いのだ。彼らに取り憑かれた者は超人的な能力を発揮できるようになり、信者は寄生魔の分霊に寄生されることになる。
この社会で“寄生魔”が生き延びるには、自制がなによりも大切であり、通り魔殺人などで“浮き舟”を使い捨てにするような輩は外道だと言える。かといって一生浮き舟の中でジッとしていられるわけでもない。彼らには人間の“悲鳴”が必要だからだ。嘆き苦しむことで発散する“負の霊磁気”。これを食する事で彼らは太ることができるのだ。この相反する衝動をうまく折り合わせる事が、背後存在の力量と言ってもいい。
《寄生魔…か》
だとするならば、自分の存在にもすでに気づいている事だろう…。菊千代はそう思った。互いにその気配を隠していたが、一瞬の思念に込められた妖気を菊千代は感じ取ってしまった。こちらがそれに気づくと言う事は相手にもこちらの能力を悟られるということでもあるのだ。憑依霊との格の違いはそこにある。だが、この寄生魔にこちらの背後存在まで知ることができるだろうか…?菊千代は母親を見ながらそう思った。
「どうした?マサシ、しっかりしろ!」
老人が驚いた声で言った。子供の体が力なく崩れ老人の膝にもたれ掛かった。彼の潜在意識は気絶することで、寄生魔の妖気から逃れることを選んだのだろう。隣で義母が焦った表情を見せている。それがパフォーマンスであることはすぐに分かった。彼女は軽く睨んだだけで、簡単に気絶してしまう子供に苛立っているようにも見えた。それだけの強い力が、寄生魔から彼女に与えられているのだ。だがそれを寄生魔の力だとは想像もしていない。多くの依り代はその存在を知らされずに使役されているのだ。寄生魔はそれを悟らせずに、あくまで“浮き舟”の影となって生きているからだ。
《子供が気絶をしたか…》
ここまでは夢の通りだった。しばらくしてから少年が目覚め、祖父に向かって支離滅裂なことをしゃべりだすはずだった。その後の義母の怒りから想像すると、たぶん彼女の正体を暴露するのではないだろうか。菊千代はそう思った。
「この子ったら、急にどうしたんでしょう…?」
義母が老人に向き、話しかけた。
「ううむ、わからんよ由美江さん。わしはうたた寝をしておったでなぁ。気づいたら膝の上に倒れて来よった」
老人が孫を抱きかかえるようにして言った。
「どうかなさいましたか?」
菊千代が子供を気遣い、向かいの二人に話しかけた。中性的な澄んだ声が空間に響いた。それは普通の女性とは違う独特な音域を持っていた。老人と由美江、そして回りの男性の視線が菊千代に集まった。
「ええ、孫の容態がちょっとばかり…」
「いえ、いつもの事なんですよ。お気になさらずに…」
菊千代の好意に甘えようとする老人の言葉を、遮るように由美江が口を挟んだ。笑顔とは裏腹な鋭い視線が菊千代に向けて放たれた。
《我々に関わるな…》
寄生魔の強い思念が伝わってきた。やはりこちらの存在に気づいていたのだ。菊千代は思わず彼女から視線を外した。目から出る邪視には強烈なものがあり、目を通してこちらの精神にも影響を与えるからだ。
「そうですか…?でも大事を取って横にさせた方がいいでしょう。幸い車内も空いていますから…」
菊千代は寄生魔の警告を無視し、席を立つとマサシと老人の前に移動しようとした。その瞬間、悲鳴にも似た雄叫びが霊的な次元に轟いた。
《我々に関わるなあぁぁ…小娘!》
寄生魔の怒りが車内の空間を溶けた飴のようにねじ曲げた。もちろん肉眼では分からない。だが霊感の強い者であったならまともに歩く事さえ出来なかったであろう。
菊千代はバランスを取ろうとしたが、一瞬前のめりによろけてしまった。少し離れた席にいた浪人風の男が大きく咳をし、肩を動かした。やはり彼も霊体質なのだろう。この影響をまともに受け始めているようだった。
「大丈夫かね、娘さん…」
老人はそう言い、手を差し伸べた。
「ありがとう、よく揺れる電車ですね…」
菊千代は老人と子供の手を同時に握り、照れたように笑った。由美江の方にも会釈をしたが、視線は遭わせないように気をつけた。焼けるような邪視が霊体に突き刺さる。二人の手を握ると、菊千代は丹田(へそ下三寸のあたり)を強く意識した。強い結界が自分を中心にズンと張り巡らされる。
《うぎゃぁぁぁああ!!》
由美江は張り裂けそうな大声を内側に止め、心の中で叫び声を上げた。自分のまき散らしていた邪視が菊千代の結界に弾かれて戻って来たのだ。その叫び声が車内の霊的空間をビリビリと震わせた。浪人風の男が額に汗をかき始めている。菊千代は彼にも気を配ろうとしたが、結界の範囲はそれほど大きくは広げられなかった。
《なに?…何が起こったの?…頭が痛い…この娘のせいかしら?…危険な娘…関わらない方がいいわ…》
由美江の思念がやや弱気なものに変り、菊千代に伝わって来た。寄生魔が菊千代の力量を計りかねているのだ。力でねじ伏せる事をやめ、様子を見る事にしたのだろうか…。
「ううん…」
しばらくして、少年が呻いた。目に光が差しはじめる。
「おお、マサシ気がついたか…。爺ちゃんがわかるか?」
老人の手に力がこもる。
《帰って来たね…》
菊千代は心の中でそうつぶやいた。子供の目を通して、その意識が憑依霊のものであることに、菊千代は気づいていた。
《これからが本番だよ、お嬢ちゃん…》
菊千代は胸の高鳴りを感じていた。夢で見せられたような惨劇がそのまま起こるのか。それとも別次元の運命を引き寄せられるのか…。運命のサイコロは、今、彼によって振られようとしていた。