∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_3 パンドラキューブ
雪丸が見たタマゴの内部は想像以上に広い空間だった。まるで先ほどのドームとほぼ同じくらいと言っていい空間が、それよりも小さなタマゴの中にすっぽりと入ってしまったような、そんな不思議な光景をみているようだった。
《あ、そうか!壁面がスクリーンになっているんだ、そこに映像が映し出されているんだわ》
雪丸はそれに気づき納得した。180度、ドーム状のつるりとした壁面が天井から床まですべてスクリーンなのだ。かといって映写機や客席のようなものがあるわけでもなく、ホールの半分が暗がりで、残りの半分がテレビジョンのように映像を写しているのだ。
《これはあの電車の中の風景だわ…》
それは映像と呼ぶにはあまりにもリアルすぎるものだった。ちょうどこの少年に憑依して、その肉体から外界を覗いていたのと感覚としてはよく似ていた。色合いは曇天のように寒々とした感じだが、手を伸ばせば実際に触れる事もできそうな、三次元的な映像だった。
しかし、この違和感は一体なんだろう?雪丸は思った。全体的な風景がどこか偏っているのだ。省略されている部分と詳細に描かれている部分。電車に乗り合わせた客もどこかデフォルメされている。
《どうしたのかしら?形が…どんどん変化している…?》
遊び人風の両腕に彫られたタトゥーの蛇が、その腕から頭をもたげて動き出したのだ。Tシャツの襟首からは(たぶん背中に彫られているのであろう)骸骨の首がヌウと飛び出て、遊び人風を見ながらケタケタと笑っている。全部の指に彫られたハートや羽、クロス模様、体中にあるタトゥーが一斉に男から飛び出して来たのだ。そのアニメのようなキャラクターたちが電車の中を動き回り、他の客にちょっかいを出している。紺色の民族衣装を着た女性は本を読んでいた。が、タトゥーがちょっかいを出しに来ると、胸にあった花の刺繍が動きだして、応戦を始めた。
「面白いわぁ…これも生霊なのかしら」
雪丸は映像を見ながらつぶやいた。それは霊眼で見た時の人間の生霊にも似ていた。生霊も体から飛び出して勝手に動き回るからだ。幽界の次元ではその人間の欲望を忠実に再現し、荒唐無稽な世界を繰り広げる。だが、この光景はそれらともまた違っているようだった。何故ならさっき見た彼らの生霊がそこに映ってはいなかったからだ。この映像は霊的なものを見ている訳ではない。雪丸はそう感じた。
「マー君、あまり人の事をジロジロ見るものじゃないわよ」
刺すような声が左隣から聞こえた。母親の声だ。遊び人風がうさん臭そうに親子を睨んでいる。スクリーンの画像がゆっくりとパーンし、母親の指先をチラと映し出した。
「わかってるの?」
小声だが脅すような口調が再び聞こえ、伸びた手が、たぶん少年のあごを掴んでいるのだろう。母親のアップになった顔がスクリーンに映し出された。その顔が人間の顔から恐ろしい魔女の様相に変化して行くのだ。雪丸はそれを見てギョッとした。
《これはこの子が実際に見ている風景なんだわ…動き回るタトゥーもみんな…》
人間の視覚というものは、それぞれがある程度共通した空間を認識している。だがそれはあくまでも最大公約数であって、絶対的なものではないのだろう。眼球の性能に応じた異なる世界、例えば視力や色彩などが、個人個人によって違うことは一般常識だが、それ以外の要因(例えば脳の持つクリエイティブなフィルター機能のようなもの)で他人とは違った世界観を持つ人は多いのではなかろうか?雪丸はそう考えた。
「どうした?マサシ!…しっかりしろ」
老人の声が遠くに聞こえた。次の瞬間、画面が二度三度大きく揺れ、急にスクリーンが暗転してしまった。
《何が起こったのかしら?》
雪丸はスクリーン以外のものに目を移した。暗がりの中、ジッと辺りを観察する。すると不意にドームの中央にボーッとした光が灯った。中央には一本の樹が生えており、樹は中間ぐらいで三本の幹に枝分かれしていた。幹は一本だけが異様に太く、後の二本はやせ細っていた。
「あれは何かしら…?」
枝分かれをした三本の幹の中央に、キラキラと光るものが浮いていた。よく見るとそれはクリスタル状のキューブだと分かった。雪丸はポンと飛び跳ね、樹の幹にフワリと乗ってみた。キューブはゆっくりと回転し、光りを受けキラキラと輝いて見える。
「誰かいるわ…」
雪丸が覗くと、キューブの中にはマサシがいた。白い子供用の繋ぎ服を着ている。マサシは眠るように目を閉じ、キューブの中でゆったりと漂っていた。樹の根元からは様々な色の“霊気玉”が螺旋状に浮き上がっていた。ある玉は枝を伝い空へ、ある玉はそのクリスタルキューブの中に消えて行った。が、その多くは“落胆の霊気玉”であった。
《彼はキューブの中で孤独な夢を見ているのかしら…》
雪丸は彼を見ながらそう思った。キューブの回転が止まると少年は(宙に浮いたまま)ゆっくりと外に出て来た。疲れきったようにぐったりとしている。それは肉体を持った向こうの彼ではなく、こちら側でのマサシの魂といってよかった。
しばらくすると、ぼんやりとドーム全体が明るくなってきた。だがドームはライトの光で明るくなったのではなかった。月灯りが全体を照らしているのだ。辺り一面が崩れかけた廃墟のようで、ドームの中にいるという感じはしなかった。中央広場にはキューブを乗せた大樹があり、その回りにはオブジェか何かのように壊れた人形がいくつも転がっていた。もしかしたらこれも映像なのかも知れない。雪丸はそう思った。月に照らされた“霊気玉”が、人形の間からフワリフワリと昇って行く。それは幻想的でさえあった。
「これが彼の心の風景なのね…」
雪丸は手にしていた“安らぎの霊気玉”を彼の額にそっと付けてみた。すると霊気玉からライトピンクの磁気が流れ出し、マサシの体を薄っすらと包んで行った。ピンクの玉が徐々にしぼんだ風船のようになっていく。雪丸は萎んでしまったそれを大切そうに手で包んだ。
「母さん…?」目を開けて少年がたずねた。
「ううん、違うわ…あたしは雪丸っていうの」
少女はそう答えた。
「そっか、母さんみたいに暖かかったからてっきり…」
マサシは体を起こすと太い幹に腰をかけた。雪丸もその横に足を抱えて座った。月灯りに照らされ、二人の姿が影絵のように並んでみえる。
「君…ここら辺では見かけない顔だね」
雪丸を見ながらマサシが言った。
「あたし憑依霊なの…あなたの体でちょっと休ませてもらってるのよ。勝手にお邪魔してごめんなさいね」
「僕の体?…ああ、浮き舟のことか。よくパンドラエッグまで来れたね」
マサシの言った意味はよくわからなかったが“パンドラ”という言葉には聞き覚えがあった。電車の中で囁かれた言葉が、雪丸の脳裏に思い浮かんでいた。
「ここの人たちはいい人たちばかりだわ。さっきあった光の人のこと…あたしが憑依しても怒らないし」
雪丸はこの世界の人たちが憑依霊に対して寛大なのには驚いていた。人間たちだったら顔色を変えて「お祓いだ!」などと言ったことだろう。それが憑依など日常茶飯事であるかのような、そんな雰囲気さえここにはあったのだ。
「ああ、浮き舟のクルーたちだね。本当は侵入者に対して厳しいはずなのだけど、もうそれどころではないんだろうね。この舟は沈みかけているから…」
マサシは月を見上げながら言った。その口調には十歳かそこらの子供とは思えない大人びたものがあった。
「舟が沈みかけている…?」
雪丸が聞き返した。
「君の言う僕の体のことだよ。こっちの世界では“浮き舟”って呼ばれているんだ。ここが意識と無意識の狭間でパンドラエッグ。あそこに浮いているキューブが浮き舟の制御室で“パンドラキューブ”…いまじゃぜんぜん制御不能だけどね(笑」
マサシは乾いた笑いを浮かべ、雪丸に言った。
雪丸はごちゃごちゃになりそうな頭を、ひとつひとつ整理してみた。
《パンドラキューブ…制御不能…スクリーンに映った映像…暗転…そしてこの世界が現れる》
雪丸の中でひとつのイメージが繋がりつつあった。向こうの世界は全部ここで作られているのでは…?雪丸は直感的にそう思った。
「ねえ、さっき“浮き舟”が沈みかけているって言っていたけど、どういう意味?」
雪丸は身を乗り出すようにして聞いた。マサシの話はとても新鮮で面白かった。もしかしたら自分自身の秘密を解く鍵になるかもしれない。雪丸はそう思った。
「もうじきこの“浮き舟”が思春期を迎える。僕は次の船長の一部になって生きることになるんだ」
マサシはそう言うと寂しそうな口調で付け加えた。
「でも問題は次の“マンダラびと”が“シャッコウ様”になってしまって…」
《“マンダラびと”…“シャッコウ様”…また新しい言葉だわ…》
雪丸はまたも頭がグルグルし始めた。
「ちょ…ちょっと待って。シャッコウ様って何者なの?」雪丸が聞いた。
「何者って言われても…つまり…」マサシは困ったように天を仰いだ。
「僕たちの頭上にいるだろ?彼が“シャッコウ様”だよ」
雪丸はマサシの指差す方を見上げた。大樹の枝が月灯りでシルエットになり、サワサワとざわめいていた。樹の太い枝を中心に霊気玉が螺旋を描いて昇って行く。ちょうど大樹のてっぺん辺りに何か黒い影が動くのが雪丸に見えた。それが“落胆の霊気玉”を貪るように食べているのだ。
「あ、あれは何なの…!」雪丸は仰天しながら叫んだ。
「し…驚かしちゃだめだよ。彼は凶暴なんだ。刺激しなければ今はなにも起こらないから…」
シャッコウ様と呼ばれた黒い影は一言で言えば怪物だった。裸の人間のようでありながら太いしっぽがあり、頭はカリになっていて、ツルリとしたイカのようだった。目鼻はなくエリマキトカゲのようなフサフサが首元にある。
「地獄に堕ちた不浄化な“マンダラびと”が家系の霊線に溜まって来ると、それらが集まって一つの祟り神になってしまうんだ。それが“シャッコウ様”なんだよ」
「“マンダラびと”って?」
雪丸が聞いた。
「この世界を“マンダラ界”といい、向こうの世界を“浮き舟界”と言うんだ。だからこの世界に住む者を“マンダラびと”っていうのさ」
マサシはやや苦労しながら説明をしていたが、ハタと思いつくように叫んだ。
「そう、霊界だ。思い出したよ。向こうの世界では霊界と呼ばれていた。そして“マンダラびと”って言うのは確か…センゾ?」
「ご先祖様の事?」
雪丸が言った。
「そうそう、先祖霊が“マンダラびと”だ!」
マサシは思い出せた事を嬉しく思った。浮き舟界での出来事は、覚えてはいても何故か言葉と映像が結びつかないのだ。ちょうど夢見ている時はとても鮮明だったものが、目醒めてみると詳細な部分がポロポロと抜けてしまい、残った記憶はあせてしまう。そんな感じだった。
「ねぇ、君がシャッコウ様の一部になるってことは、食べられちゃうってことなの?」
雪丸は不安そうな目でマサシを見つめた。マサシはしばらく何も言わなかった。
「うん…形としては飲み込まれるって感じだけど、思春期になるとみんな先祖代わりをしなければならないんだ…」
マサシがポツリと呟く
「僕が浮き舟にいるときに、彼を浄化してやれれば良かったんだけどね。うまくいかなかったんだ…落胆の霊気玉ばかりが森に増えてしまってね」
雪丸はしばらく考えていた。マサシが言ったことの一つ一つをどうにか繋げ、頭の中で整理しようとしていた。人間は思春期になると先祖代わりが起こり、次の先祖に人格が入れ替わる。前の人格は次の先祖の一部になって人生を共にする。だが次の先祖が地獄にいる霊だと“シャッコウ様”となって人格が一変してしまう。それは“落胆の霊気玉”が増えすぎてしまって、次の先祖が供養されないままだから…。雪丸はマサシの言いたい事の意味がしだいに飲み込めてきた。
「ねぇねぇ“やすらぎの霊気玉”はどうして生み出されるのかしら…?」
雪丸はハタと思いついたように言った。要は“落胆の霊気玉”が減って“やすらぎの霊気玉”が増えて行けば“シャッコウ様”が浄化されるのではないだろうか?雪丸はそう考えた。
「“やすらぎの霊気玉”は浮き舟の状態でやすらぎを感じなければならないんだ。喜びの体験、感謝の体験が多くなるほどそれに応じた花が森に咲き、そこから“やすらぎの霊気玉”が増えて行くんだよ」
マサシは雪丸に言った。分かりきった事ではあるのだが、彼女に話すことで何故か問題点が鮮明になっていくような気がした。
「だけど浮き舟にログインすると…」
クオォォォォン…!
マサシの言葉をさえぎるように、頭上で雄叫びが聞こえた。“シャッコウ様”の叫びだった。カリ首の辺りがバックリと開き、大きな赤い口が覗いている。こちらに気づいたかのように、ヒタヒタと大樹をつたって来る。
「ねぇ、あたしを君の浮き舟に乗せて…!」
雪丸は意を決したようにマサシに言った。
「乗ってどうするの?」
マサシが聞き返した。
「“やすらぎの霊気玉”が増える体験をするのよ」
「それは無理だよ。浮き舟に乗ったら君は君でなくなってしまう…」
「あたしでなくなる…?」
「君は記憶を失って、浮き舟の意識になってしまうんだよ」
「まさか…憶えているわよ!」
雪丸は驚いたように言った。
「ここであったことはみんな夢になってしまうんだ。わかるだろ?眠りから覚めて少しの間だけ夢の記憶は保持できるけど、手から水が溢れて行くようにそれはどんどん失われるんだ。君自身であることも忘れてしまうんだよ」マサシは徐々に近づく頭上の“シャッコウ様”を見ながら言った。
「お願いマサシ君、あたしに試させて…!」
雪丸の顔は真剣だった。
「…わかった。一度だけだよ」
マサシの言葉に雪丸の眼が輝いた。
「君の手に持っている霊気玉を貸してくれる?」
マサシは萎んだ風船のような霊気玉を手に取り、それを両手でグイと引っ張った。霊気玉はゴムのように伸び、マサシはそれを雪丸の頭からかぶせた。
「キャッ、何するの!」
雪丸は小声で叫んだ。
「ジッとして!…これで“記憶の防護服”を作るんだ。少しの間だけだったら君は自分の記憶を保持していられるから」マサシは頭にかぶせた霊気玉をグイと下にのばすと、それを雪丸の全身に伸ばし体にこすりつけた。
「さあ、早くキューブの中へ」
マサシが叫んだ。
クオォォォォン…!
再び雄叫びが聞こえた。“シャッコウ様”はどんどん距離を詰めて来る。
「キューブに触れて…それだけでログインできるから」
マサシは雪丸の手を引いた。
「マサシ君はどうするの?」
雪丸が聞いた。
「僕は大丈夫…もう覚悟は決めてあるんだ」
マサシが真剣なまなざしでそう言い、続けた。
「さあ早く!今の彼は君に興味があるんだ。彼に飲み込まれる前にさぁ!」
雪丸はほんの一瞬マサシを見つめ、それからクリスタルに手を触れた。次の瞬間、意識がスッと遠ざかり、マサシとその背後にいるシャッコウの姿が、ユラリとぼやけて行った。