∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_2 精神の海
《人間の世界は体がないと不便だけど、ここは自由に動けていいわ…》
雪丸はそう思った。
意識の海は星をちりばめた宇宙のように光り輝いていた。ひとつひとつを観察すると、それは生きたクラゲのようでもあり、みな共通して中心部が強く光っていた。伸びた足は互いに連結し合い、光の粒が足から足へと流れ、しきりに何かを伝え合っている。
《いつみてもきれい…》
雪丸は一匹のクラゲの(近づくとそれはとても大きかった)傘の中に入り、その中でイルミネーションの流れを見つめていた。中心部に手を触れようとすると、粉のように舞っていた光の粒が、蛍のように手に集まってくるのである。それはあたかも雪丸という存在をスキャンして、その情報をクラゲに知らせているようにも思えた。
《あたしはお友達よ。ホタルさん》
雪丸は、すでに全身を覆いつつある光の粒に、自分の気持ちを心で伝えてみた。すると、それに反応するかのようにホタルたちが点滅をしだした。歓迎されているのだろうか。雪丸の中に暖かな波動が流れ込んで来た。いままで何人もの人間に憑依して、意識の海にも何度か潜ったことはあった。けれど、依り代とこれほどまでに一体感を得た事は、今までに無かった。これはマサシの意識が希薄であることと関係があるのかも知れない。雪丸はそう思った。
《この子の意識は一体どこへ行ってしまったんだろう?》
雪丸がそう思うと、それに反応するかのように光の粒が一斉に動き出した。それは光に溶け込んだ雪丸自身が、粒となって流れ出していると言ってもよかった。光に変換された雪丸のパケットデータである。
霊体である雪丸はもともと固定された形というものを持っていなかった。ただ、自分の好きな形状(白いワンピースを着た女の子)を選んでいただけなのだ。だから別の形に変換されても、雪丸と言う個人の意識は少しも損なわれる事はなかったのである。
クラゲの中心にある光の核(コア)に、雪丸のデータが吸い込まれ、ネットワークへと合流してゆく。
「わぁすごい…光のトンネルだわ!」
その速さに雪丸は思わず感嘆した。幾つもの核(コア)を通り抜けるその光景は、まるで銀河鉄道に乗っているような気分だった。上を見ても下をいても、そこには光の核が星をちりばめたように光り輝いている。それぞれの核は独自の音色と記憶を持っていて、連続して聞いてみると、まるでメロディのように聞こえてくるのである。楽しい思い出は軽やかに、悲しい思い出は重々しく響いている。
核を通過するたびに、それらに含まれる思いの映像が一瞬にして流れ込んで来る。マサシの体験した様々な記憶の断片なのだろうか?先ほどこの子の中で見た、フラッシュバックの元になっている記憶がここにはあった。外界での出来事に反応して、過去の記憶がここから呼び出されるのであろう。
雪丸は3Dとなって再現される情景をひとつひとつ見て行った…。
『病室で横たわる女性…死者…泣き叫ぶ少年…傍らの父…老人…お手伝いの女性』
《この子、本当のお母さんと死別しているんだわ…》
一瞬の情景を見て、雪丸はそう感じた。映像にはその部屋の温度や匂い、そしてその時に抱いていた感情さえも記憶されていた。マサシの深い悲しみ、恐れ…。恐れの多くはお手伝いの女性に向けられていた。
『殺される!今度は僕が殺される…お父さんも殺される…みんな殺される』
その恐怖は言葉に置き換えるとそう語っていた。核を通過するたびに映像は次から次へと流れて行った。
『お手伝いの女性…新しい母親…怖い(目が笑っていない)…新しい家へ引っ越す…一緒に住みたくない』
『新しい母親…(母さんと呼びなさい)…(何よその目は)…(小憎らしいガキ)…(まだメイドだと思っているの?)』
『学校から帰る…玄関に男の大きな靴…母親の声…動物のような声…裸の男…知らない男』
『父さんが会社へ行く…僕も学校へ…行く振りをして観察…毎日観察…裸の二人を』
『昼と夜…義母さんの違う顔…父さんは知らない…僕だけが知っている…もう一つの顔』
映像は次第に、目を覆いたくなるような光景に変わって行った。摂関と称したマサシへのいじめは日増しにエスカレートして行き、マサシは精神に異常をきたし始めていた。映像には恐怖と喪失感が満ちあふれ、それにつれ女は鬼のような本性を見せていった。
「由美江さん。大丈夫なの?子供のいる目の前で…」
映像の男が言った。男女がソファーで情事にふけっている。
「平気よ近藤、この子、もう完全にイカレちゃってるの。フフフ、こうするのに結構時間がかかったけどね」
窓際に座ったまま、空(くう)を見つめるマサシを尻目に義母が言った。子供に男との関係を知られて以来、由美江はそれを隠す事もなく、むしろ見せつけるように振る舞うようになった。
「今週末にね。こいつを施設に入れることになってるのよ。かなり遠くのね」
「え…じゃあ、旦那の方もそろそろくたばりそうなのかい?」
「あの人もそろそろね。母親が逝くのには二年かかったけど、男は女ほど強くないから。ふふふ…」
由美江の、夜叉のような眼差しがマサシに向けられ、唇が左右にニッと裂けて見えた。身の毛もよだつような光景が、重い調べと共に雪丸の目の前を通り過ぎて行った。雪丸はそれを言葉にすることさえ出来なかった。
《死にたい…こんな世界なくなってしまえばいい…母さんのところに帰りたい》
少年の絶望にも似た心のつぶやきが、何度も何度もループしていた。自らの心を貝のように閉ざしてしまったそのわけを雪丸は知ったのだ。
《こんなことがこの子に起こっていたなんて…》
他人の心を興味本位で覗いたことを雪丸は後悔していた。こんな目に遭わされたら、誰だって生きるのが嫌になるに違いない。抜け殻になってしまった方がまだましである。そう思った。
《もしかしたら…あたしもそうだったのかしら?》
雪丸は少年の現状と自分自身を重ね合わせてみた。現実の苦しさに、自分も肉体を放棄して逃げ出したのかも知れない。そう思った。
《あたしの肉体はどこかで生きているの?》
《マサシ君の肉体はすでに抜け殻なの?》
幾つもの疑問が彼女の頭を駆け巡った。その瞬間、雪丸は不意に体のバランスを失った。光のトンネルから広い空間に、ポン放り出されたのだ。天地の方向感覚がなくなり、粒になった体はバラまかれたコインのように宙に舞った。そして光の粒が床で弾けると、互いにくっ付き合って、白いワンピースの女の子がふたたび再生された。あとから白いツバ広の帽子が落ちてきて、フワリと頭の上に乗っかった。
「ここはどこかしら…」
雪丸は帽子をしっかりとかぶり直すと、広いドームの天井を眺めた。天井は透明になっていて、ちょうど半円形の球を内側から見たようになっていた。その外には満天の星のような光の核(コア)が光り輝いている。
「わぁ、プラネタリウム!ここはまるでプラネタリウムそのものだわ…」
光の核(コア)からは無数のラインがこのドームへと繋がり、ここはまるで情報の中継地点のようだった。床の中央には大きな穴がポッカリ空いていて、そのまわりは柵でぐるりと囲われていた。大きな穴からは太い柱が天井へと向かってズイと伸びている。が、よく見るとそれは植物のツルが何百本も絡まり合い太い柱のように見えていただけのようだった。
《あれは何かしら…?》
雪丸は天井を見上げ、そうつぶやいた。植物の太いツルが先端で受け皿のようになっていて、その上に巨大なタマゴが乗っかっているのである。ドームの中心にぽっかりと浮かんでいるように見えるのだ。雪丸はそのタマゴに興味が湧いてきた。中央の穴に駆け寄ると、おもむろに柵を乗り越え、エイッとジャンプした。
「わぁ!!」
フワリと体が浮いた瞬間、雪丸は大声を上げてしまった。ぽっかりと空いたドームの穴には底が無かったのだ。なんと言ったらいいのだろう、ドーム自体が空に浮いていて巨大な樹の先端が中央の穴にめり込んでいる、そんな感じだった。雪丸はバランスを崩しながらも、泳ぐように中央のツルにたどり着いた。
「…びっくりしたぁ!」
ツルにしがみついたまま下界をのぞくと、そのツルは巨大な樹の先端からニョキリと伸びていた。真上から見ると樹は円のように広がっていた。それは樹と言うレベルではなく、むしろ森に近かった。
《森に浮かぶアドバルーンだわ…》
雪丸は好奇心いっぱいになり、目をクリクリとさせながら森を眺めた。森全体からはシャボン玉のようなものが無数に浮き上がっていた。様々な色のシャボン玉が融合し合いながらドームの方へ昇ってくるのだ。それらはくっ付き合うことで色や大きさを変え、伸びたツルに絡まるように、螺旋を描きながら昇って来た。雪丸のいるあたりまでくると、それはちょうどスイカぐらいの大きさになっているのがわかった。そのまま頭上にあるタマゴまで昇って行くと、中へ吸い込まれるように消えて行くのである。
《これは一体何なのかしら…?》
雪丸は近づいて来たライトピンクの玉に手を伸ばして触れてみた。すると誰かの胸に抱きかかえられているような、ほんわかとした、いい気持ちが体の中に沸き起こってきたのである。
「なんて気持ちがいいんだろう…」
雪丸はうっとりとした気持ちになって言った。
「そうだわ、この玉に名前をつけてあげようかしら…」
雪丸はピンクのシャボン玉を抱きかかえるように手に取ってみた。すると体がフワリと浮き上がり、他のシャボン玉と列をなし、ツルの回りをゆっくりと昇り始めたのだ。その状態がとても奇妙でおかしく、名前の事などすっかり忘れてしまっていた。ユルユルと昇りながら改めて回りを見渡すと、ドームには人が働いている事に、雪丸は初めて気づいた。いや、それは人と呼べるのだろうか。たしかに人型をしてはいるのだが、それもまた光の粒が集まって出来ているような、そんな感じの人たちだった。
「あの…ごめんなさい、あたし勝手に忍び込んじゃって。おじゃましてます」
雪丸は柵の近くにいた光の人にそう話しかけた。するとボーっとした光が、ややはっきりとした顔に変化してこちらを見た。
「やすらぎの霊気玉か、最近にしては珍しいな。近頃は落胆の霊気玉ばかりが目立つようになっていたが…」
光の人は独り言のようにそうつぶやくと、再び表情を無くし、ボーっとした光に戻って行ってしまった。雪丸は他にも色々と聞いてみたかったのだが、皆忙しそうに働いているので、なかなか話かけることができなかった。けれど最初の人の一言で、自分の名付けようとしていたライトピンクの玉が“やすらぎの霊気玉”という名であることが分かった。そして改めて他の玉を眺めると、ほとんどがダークブルーの玉であることも分かった。
《これが“落胆の霊気玉”なのかしら…》
雪丸は螺旋状に昇って行くダークブルーの玉に手を伸ばし、それに触れてみた。すると何とも言えない孤独感、寂しい気持ちが体の中心から沸き起こって来た。その玉から思わず手を離し、雪丸はピンクの玉を強く抱きかかえた。
《なんて寂しい感情なんだろう…しかも、こんなにたくさんあるなんて…》
雪丸は森の中から発生しているダークブルーの“落胆の霊気玉”が他の色の霊気玉を飲み込み、その数を増やしていることに改めて驚いた。しかも光の人に言わせるとそれが当たり前の現象になっているという。こんな感情が列をなして頭上のタマゴに吸い込まれていくのだ。雪丸はピンクの玉が“落胆の霊気玉”に飲み込まれないようにしっかりと抱きかかえた。
《どうしよう、じきにタマゴに吸い込まれちゃうわ、この子…》
雪丸は頭上のタマゴに興味はあったものの“落胆の霊気玉”のことを考えると不安になった。ここを離れた方がよいということは分かっていた。けれど、せっかく生き残った“やすらぎの霊気玉”のことが心配で手を離す事ができなかったのだ。
《この子はあたしが守ってやらなきゃ…》
雪丸は勇気をふり絞り、頭上のタマゴに乗り込む事を決意した。やがてダークブルーの霊気玉に続いて、桃色の霊気玉もタマゴに飲み込まれると、雪丸も同じようにスッと中に溶け込んで行った。その光景を数人の光の人がもの珍しそうに眺め、そして互いに顔を見合わせていた。
「浮き舟界からの訪問者か…まあ、憑依など珍しくはないが…」
「この現状を変えてくれるなら我々も歓迎するがねぇ…」
「あの子もシャッコウ様に飲み込まれなければいいがなぁ…」
光の人びとは思い思いにそう言うと、天井のタマゴをしばらく見つめ、何事もなかったようにまた仕事に戻っていった。