∽ 小説 浮き舟【天の章 File_01】
Scene_1 電車の中の声
その子供の肉体に憑依したとき、雪丸は、これが本当に十歳かそこらの子供なのかと仰天してしまった。それほどまでにその子供は心身共に疲れ果てていたのだ。
男の子は放心したように電車の座席に座り、どこを見つめるともなしにポカンと空(くう)を眺めていた。憑依した体からは意志らしきものは何も感じられず、子供らしい活力もなかった。
《まあ、ログインするのには簡単だけどね…》
雪丸はそうつぶやいた。霊にとって“心ここにあらず”の人間ほど、憑依が容易なものはないのだ。仮に元気いっぱいの子供だったとしても、波長さえ合えば憑依できないことはない。けれど、それは暴れ馬に乗るようなもので、とても新人の幽霊にコントロールできる代物ではないのだ。
寝ているか、あるいは考えに没頭している人間であるなら、多少は操る事はできる。雪丸は短い霊体験でそれを知っていた。だがこれほどまでに空っぽな肉体は、雪丸に取っても初めての経験だった。
雪丸はこれまで、ヒッチハイクのように肉体を乗り継ぎ移動してきた。そういう手段でしか移動ができないのである。一般的に霊はどこへでも自在に行けると思われがちだけれど、それは霊体になってまもなくの頃か、肉体をもったままの生霊の話なのである。近頃では体が(これは比喩的な表現なのだけれども)徐々に重くなり始め、ちょっとの移動さえもままならなくなっていたのだ。
「ほらほら、また口が空いてる。電車の中でみっともないでしょ…」
子供の耳を通して、左隣から声が飛び込んで来た。隣に座った母親らしき女の声だ。タマゴ顔の色っぽい美人で、ヒョウ柄の服に金飾りをごちゃごちゃと身に付けていた。一見穏やかそうな笑みを浮かべているのだが、その言葉に込められた思念は獣の牙のように鋭く、まさにグサリという感じで突き刺さって来る。
《このくそガキ、何度言ったらわかるんだろ。ボケ老人じゃあるまいし…》
女の思念に込められた声はこう吐いていた。瞬間、全身に痛みが走り、子供は苦痛に顔を歪めた。
《この子、この女性に虐待されているんだ…》
雪丸は瞬時にそれを理解した。網膜のスクリーンにその子の置かれた現状が、フラッシュバックしてきた。
体中にあるアザや傷、火傷。そのひとつひとつを作った時の状況が克明に流れて行く。それは過去のできごとでありながら、同時に現在に影響し続けているようだった。男の子はその刺激から身を守る為に心に殻をかぶせ、その中に閉じこもり、外界から逃避しているのだ。雪丸はそう思った。
「まあ、そんなにうるさく言わんでも…由美江さん。マサシはそういう病気なのだから…」
右隣から老人のややかすれた声が聞こえてきた。あごに白い髭をたくわえ、手には木製のステッキを持っている。たぶんこの子の祖父なのだろう。雪丸はそう思った。
「そうやって甘やかすからどんどん症状が進むのですわ。私だって好きでこんなことを言ってる訳じゃありませんのよ、お義父さま…」
「ああ、それはわかっておるよ、由美江さん。あんたには苦労をかけていると思っている。すまないねえ…」女の、やや芝居がかった口調に、老人は何度もすまなそうに答えた。
雪丸は子供の胸の辺りに、締め付けられるような痛みを感じた。それは肉体の痛みというのではなく、心の痛みが肉体に伝わってくるような、落ち着かない痛みだった。母親の言葉に対する祖父への訴え…そんなふうにも思えた。
《マサシ君っていうんだ…》
雪丸は少年の痛みに意識を向けてみた。
“心の世界”に関して、雪丸は多少の経験があった。幾度となく憑依を繰り返していると、中には興味深い人物がいたりする。その人物に興味を持ったために“縁”が生じ、その人の精神世界に迷い込んだりもするのだった。そこには共通したイメージ像があった。“海”である。どの人間の精神的な表層にも“精神の海”があるのだ。
雪丸はマサシの“精神の海”に興味を抱き始めていた。この幼い子供がなぜここまで心を閉ざす必要があったのか?それは依り代であるこの少年の魂が呼んでいるようでもあり、また雪丸自身の問題ともリンクしているようでもあった。
《ふぅ…》
深い溜め息が少年の口を使って漏れた。
まだこの世界に入って日の浅い雪丸であったが、何故自分がここにいるのか、いまだにわからなかったのである。不意の事故、あるいは心臓発作…死んだ自覚もないままにさまよっている霊なのだろうか?例えそうだったとしても腑に落ちないことが多すぎるのだ。なによりも生前の記憶がほとんどといっていいほどないのだ。自らの名前を雪丸と名乗っているけれど、果たしてそれも本当の名前なのかもあやしいのである。
《あたしはどこから来てどこへ行こうとしているんだろう…》
雪丸はその答えを求めていた。もしかしたら他の人の“精神の海”から自分のルーツに繋がる道があるのかもしれない。そんな淡い期待も抱いていた。
《えっと、まずはリラックスして…》
雪丸は肉体から伝わる外界の意識を徐々に緩め、ちょうど人が眠りにつくように、子供の霊体へと核(コア)を沈め始めた。マサシは相変わらず空(くう)を見つめていたが、風景はユラリとぼやけ、車内に濃い霧が立ちこめてくる。霊的次元へのシフトが始まる兆候である。
《パンドラキューブにログインしてはいけない…》
「え…?」
不意に響いたその声に、雪丸は驚いて聞き返した。その声はどこからともなく雪丸の霊聴に届いてきたのだ。
雪丸は一度沈めかけた核(コア)を半分だけ霊的次元にとどめ、もう半分を現実の次元に引き戻した。エンジンをかけたまま、アイドリング状態で止まっている感じだろうか。肉眼の焦点が合うのに多少の時間がかかる。ぼんやりと霧のかかった車内を見渡しながら、その声の主を捜してみた。
「誰…?」少年の唇が独り言のようにそう動いた。
《慌てないで…》
先ほどの声が再び雪丸の霊聴に響いた。
通勤時間を過ぎた電車の車内は人もまばらで、その車両にはマサシの家族を含め十人程の乗客が乗り合わせていた。車両には前列から後列までドアが三つ左右にあり、前の方には女子学生が三人、後ろの方にはサラリーマン風が二人、少年親子のいる車両中央には遊び人風の男と浪人っぽい男性、そしてサングラスをかけたスーツ姿の男がそれぞれ距離を置いて座っていた。
《この中にいるのかしら…》
雪丸は車内をそっと観察した。霊的次元へのシフトが始まると、人間以外の様々なものが見えて来る。雪丸のように憑依した他の霊や人間の憎悪や欲望が創りだした生霊などである。まだこのくらい空いた電車ならよいのだが、満員電車に乗り合わせでもしたら分けがわからなかっただろう。雪丸はそう思った。
《声の感じからすると女性のような…》
雪丸がそう思ったとき、不意に景色が遅くなり、ブレーキ音と共に少年の体が緩やかに傾いた。
プシュウゥゥ。
車両が止まると、体が逆方向に傾き、駅のアナウンスがドアから流れ込んで来た。前後のドアからは主婦や数名の男女が乗り込み、少し間を空けて、中央のドアから少し風変わりな女性が乗り込んで来きた。
「ヒュー…!」
遊び人風が顔を上げ、その容姿を眺めて声をあげた。浪人風は女性をチラリと一瞥しただけで、すぐに視線を落とし、スーツの男はサングラス越しに女を目で追っていた。一見平静を装っているようだが、雪丸から見ると彼らの幽体はかなりざわめき立っていて滑稽だった。
ボーイッシュなショートレイヤー。それでいながら女性らしさが際立ってみえるのは、そのスタイルと顔立ちのせいだったに違いない。それはどこか一部分を取って美形というのではなく、全体としてのバランスが美しいのだ。最初に風変わりと言ったのは、服装が日本人のそれとは違っていたからだが、もしかしたら異邦人であるのかもしれない。ちょうどベトナム辺りの民族衣装と言ったら分かりやすいだろうか。チャイナドレスのような、脇にスリットの入った紺色の上着を着て、ゆったりとした白のパンツを履いている。花の刺繍が胸元からへそにかけて施してあるのがわかった。
《この人だろうか?あたしに声をかけたのは…》
雪丸はジッと女性を見つめた。女性がそれに気づきニッコリと笑みを返すと、雪丸はドキっとして顔を赤らめた。が、実際のマサシは無表情に見つめていたことだろう。少年の母親は値踏みするような視線を女性に投げかけ、老人は居眠りを始めていた。
女性が席に(ちょうどマサシの向かいに)座ると、遊び人風はさっそく女性に声をかけようと立ち上がった。が、その衣装に気後れして何を言おうか考えていた。外国人だったらどうする? 一瞬の躊躇…。その挙げ句、女性と眼が合うと自ら眼をそらしてしまい、タイミングを完全にはずしてしまった。
《バカバカ!なにやってんだよ、オレは。今の最高のタイミングだったのに…》
バツが悪そうに再び席に座ると、自分の間の悪さを罵り、次のチャンスは絶対に逃すまいと頭の中でシミュレーションを始めた。それと同時に男の体から生霊が離れ、頭の中で描いた行動をとり始めた。
《え…そんなことを…》
雪丸は、眼を丸くして男たちを眺めた。
肉の次元ではそれぞれが電車の座席に座っていて、何事も無いように映っているのだろう。しかし、霊眼を通してみるとそれぞれの男たちの生霊が、その女性の 体にまとわり付いているのが見えるのだ。
遊び人風の生霊は恋人のように寄り添い首筋にキスを、サングラスは女性の胸を手でまさぐり、浪人風は…。浪人風の行動は三人の中でも一番大胆だった。彼は女性の側に近づくのではなく、彼女をそっくりにコピーしていたのである。彼にコピーされた女性は白いパンツを脱がされ、彼の目の前で恥ずかしそうに立たされていたのだ。
雪丸は車内に繰り広げられている光景を見ながら、だんだんと恐ろしくなって来た。一刻も早くここから離れて、マサシの無意識へと逃避したくなっていた。
《お姉さんには気の毒だけど…》
そうなのだ。中途半端に霊的次元に漂っているから、見なくても良いものが色々見えて来るのだ。肉の次元に留まれば肉眼には何も映らないし、精神の海に潜ってしまってもこの情景は消えてしまう。中途半端は最悪なのだ。雪丸はそう思った。霧は再び濃くなり始めていた。肉体に伝わる外界の刺激が徐々に薄らいでゆき、雪丸は夢の魚のように精神の海へとダイブしていった。