∽ 小説 浮き舟【天の章 File_02】
あらすじ

幼い頃モデル事務所にスカウトされたのがきっかけで女装するようになった両性具有の少年・菊千代。ある事件がきっかけで自殺した従姉妹の霊に憑依され、彼女の好きだった教師に恋心を抱いてしまう。
過去の記憶である霊気の花で雪丸が見たものは、高校時代の過酷な菊千代の体験だった。男子として育てられた菊千代が何故女子へとカミングアウトしなければならなかったのか。担任教師と同級生からの執拗なまでのいじめ。自殺した従姉妹の仕業とされる生徒達の神隠し。雪丸はそこで、かつて同じような憑依が菊千代を通して行われていたことを知る。
Scene_1 プロローグ
最初は悪夢を見ているのだと思っていた。あたりに立ちこめるただならぬ気配。蠢く死霊の群れ。ベッドから身を起こしその気配がまだ消えぬと気づいた時「これは現実なのだ」と菊千代は実感した。ガウンを羽織り、居間へと通じるドアを開ける。充満した邪気が居間から流れ込み、ヌルリとまとわり憑く。
「これは…!」
菊千代は驚き、目を見張った。室内灯をつけても邪気の薄らぐ気配はなく、二十畳ほどの空間には何百という死霊がひしめき合っていたのだ。
菊千代は全身に気合いを込めると息を止め、濃い霧の中を泳ぐようにリビングの中央へと歩み寄った。低いテーブルの上に短冊を立て、香炉を置く。手にした線香に火をつけると、周囲に漂っていた死霊の気配が音もなく引いてゆくのがわかった。かといってそれは消えてしまうわけでもなく、香炉を中心に、それを避けるかのように広がり、部屋の隅々にひしめき合っていたのだ。
【神楽家先祖代々の霊位】
三十センチほどの短冊には墨文字でそう書かれていた。厚紙の短冊はそう書かれることによって位牌の役目を果し、先祖霊の依り代となるのである。火のついた二本の線香からは煙が立ちのぼり、短冊にからむように漂っている。その状態で菊千代は、先祖に対して感謝の祝詞を捧げた。
漂っていた煙からフラッシュに似た閃光が起こり始める。それはさながら雲間に光る雷光のようにも映った。もちろんそれは霊的に“観える”のであって、知覚できなければただの煙にしか見えない。むろん菊千代にはその能力があった。その霊眼には何千という先祖が、煙に乗った感謝の霊磁気を受け取っている、その姿が見えていた。それが雷光の瞬きとなって観えるのだ。
《すごいね、菊っち。神楽家のご先祖様って…!》
菊千代の霊聴に少女の可愛らしい声が届いた。雪丸である。実を言えば彼女も浮遊霊の一人なのだが、とある事件をきっかけに菊千代と出会い、それ以来居候を決め込んでいる、言わば先祖公認浮遊霊なのだ。
「うん、そうだね。雪っち」
菊千代もその光景を見ながら頷いた。神楽家の霊団は菊千代をぐるりと囲み、死霊たちを寄せ付けぬよう隙間無くガードをしていた。雪丸も陣内にいる。
「今夜はいつになくにぎやかだね(笑)」
菊千代は苦笑をし、さらに一本の線香を加え、感謝の祝詞を捧げた。言葉は先祖にではなく、その他諸々の霊に対するものだった。感謝の磁気が線香の煙に乗ると、周囲の無縁霊たちが一斉に食らいつき始める。そして己の気持ちが癒されると、浄化され、ひとつまたひとつと消えて行くのだった。
『しかし、この邪霊たちはどこから湧いたのだろう…?』
菊千代は邪霊たちの様子を見ながらつぶやいた。時刻は午前二時。丑三つ時といえば、まさに《物の怪》たちが徘徊しやすいレイヤーだといえる。だがそれだけの理由で邪霊が侵入できるとは考えにくかった。結界が張られたこのマンションに侵入するためには、何らかの媒体が必要になるからだ。
「ふー、おいしかったぁ。菊っちの霊気玉は最高ね」
煙に乗った霊磁気のおこぼれをもらうと雪丸が言った。雪丸も同じ浮遊霊なのだが、他の邪霊のように消えてゆく事はなかった。それは菊千代からみても謎のひとつであるのだが、過去の記憶を一切持たない雪丸からは、その理由を推し量る事は出来なかった。ただ、考えられることのひとつには…。
菊千代がその可能性を頭に描いたとき、不意に洗面所に物音がした。続いてドスドスという足音が響き、居間に通じるドアがキイと開いた。
「う〜、気持ち悪りぃ〜」
赤いパーティドレスを着た女性がドアから現れ、なだれ込むようにソファーに転がった。短めのドレスの裾がめくれ上がり、あられもない姿で大股を開いている。姉の千織である。
「菊ぅ、お水頂戴…」
千織はそう言うと腕をあげ、そのきれいな手で空(くう)をつかむしぐさをした。
「はい、姉上…随分遅くまで飲んでいらっしゃったのですね」
菊千代はキッチンで水を汲みながらそう言うと、姉の手にグラスを近づけた。が、神楽家の先祖がそれを引き止めた。彼らは一様にそれが危険であるという思念を送ってくるのだ。
《どうしたのかしら、ご先祖様たち?》
雪丸が菊千代に伝心で聞いた。彼女は自分の形状を変え、ソファーの上をふわふわと飛んでいた。白い帽子とそろいのワンピース。雪丸お気に入りのスタイルだ。
「うん…何かおかしいね」
菊千代が雪丸に向かって言った。とその瞬間、菊千代は強い力で腕を引かれ、バランスを崩しソファーに倒れこんだ。水の入ったコップが宙を舞い、透明な水が一筋の胡を描いてゆく。菊千代はソファーの上に仰向けにされ、押さえ込まれるように姉の千織を見上げた。